夜叉「夜叉がおるのです」
男はひどく怯えた顔でそう言った。言ったまま手で顔を覆うと、そのまま動かなくなってしまった。
夜叉
夕暮れ時、山田伝蔵は急く気持ちを抑えて野を歩いていた。もう三里ほど先の山を越えれば依頼人の在所はすぐだ。夜のうちに走れば夜明け前には着くだろう。
山田の左の頬が初夏の夕焼け色に染まっている。田植えをすっかり終えた水田がこれから伸びゆく緑を麗しく輝かせる。遠くの山々は青く、すぐにも霞が降りてくるだろう。棚引くすみれ色の細雲がそれを知らせるのだ。
どこかで蛙か何かの水に跳ねる音がした。鴨は腹を揺らして帰っていく。山田は夜を待ち遠しく感じている。
夜闇にこそ溶けこむ忍びというものほど、夜を待ち侘びるものはないかもしれない。
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