そして君は春に帰る【番外編】きみがため 課外授業の藤見物は大成功を収めた。余程気に入ったのだろう、帰ってきてからも一年は組の教室は数日を経てもまだその話題で持ち切りだ。いつの間にやら他の組や学年にも伝わって、噂の大藤棚が皆の羨望の的となっているらしい。折角の好評にあやかって、土井はその遠足に関する作文の宿題を出したのだが、やはり全体的にいつもよりもずっと良い出来上がりで、教師冥利にも尽きるものとなった。
辿り着くまでの道程は班分けして助け合って進むようにしたことによりゲーム感覚で楽しめたようだ。途中、お腹を空かせたしんべヱが仲間を巻き込んでローリング暴走したり、それにボーリングのピンのようにふっ飛ばされた者の内、喜三太の壺から飛び散ってしまったなめくじ達をみんなで手分けして探したりと、小ハプニングは相次いで起こったものの、伊達に長年は組担当ではない山田と土井の引率によって全員無事に目的地まで到達できた。
そして、やはり茂みを抜け出たときの圧巻の光景と、そこに並んだ一同の感嘆は山田の胸を満足させた。藤の状態もまた見事だった。初めて目にした日よりも、もっと豪奢になったのではと思うほどの咲き乱れようで、みんな大感激の様子だったのだ。土井もまた「こんな所があったなんて……」と溜め息をついていた。山田は何も言わないでおいた。蛇足というものだ。あの不思議な光景と感触は山田の胸に収まっている。
藤の膝下でも散々遊んだ良い子達と教師二名は、食堂のおばちゃん謹製弁当をもりもり食べて疲れを癒やした。
お弁当の後に藤棚の木陰でみんなして寛いでいると、下から見上げる藤は晴れやかな天気に涼しく降り注ぎ、満腹ともあって子供達は皆寝こけてしまった。和やかな寝姿を目に、心地よさの移った土井も珍しく目蓋が重たくなっていると、向かいで憩う山田が「土井先生、少し休んだらどうです。わたしが見てますから」と声を掛けてくれたのはありがたかった。その腕は寄りかかるしんべヱの鼻水でぐっしょり濡れていたが、困った顔で笑うばかりで夢見心地を妨げるまでには至らない。土井は両脚に乱太郎ときり丸の僅かな頭の重みを感じながらお言葉に甘えようとして、ふと、「目が覚めて、また子供の姿になっていたら、どうしましょう……」と笑い話のように呟いてみると、「いいんじゃないか? わしがまとめて連れ帰ってやるさ」と言った声が聞こえた。ただ、そう言った声が聞こえただけで、もう目蓋は持ち上げられなかった。芯の通った声は頼み甲斐があり、土井の眠りをずっと深いものにした。
「でも、よかったよね〜土井先生が元に戻って!」
「あのままだったら、ぼくらが引率することになるところだったよねぇ」
「だって先生の方がちいさいんだもんね」
教室で陽気な笑い声の上がる中、きり丸だけが表面的な微笑みを見せている。その陰りの印象がまた、土井の目に飛び込んでくる。
ああ、また、自分はやってしまったのだな。
小さな棘が胸に刺さる。しかし、そんな痛みはその子のかなしみを知るには飽き足らない。土井はそのこともよく分かっている。
きり丸は強くあろうとしてしまう。そしていつでも、そうあることができてしまう。だけどそれが時に痛々しい。丁度、この棘の感触のように土井の胸に突き刺す痛みを覚えさせる。それというのに、そう思う自分こそがこの子の孤独を強めてしまうことに、土井は本当に不甲斐ない思いに駆られるのだった。
山田や学園にもまた迷惑を掛けたようだった。ようだった、というのは、適宜説明は受けたものの記憶がないので、どうも実感が湧かない、想像が上手く働かない事に起因する。数日分の記憶がごっそり抜け落ちているというのも恐ろしいものだ。似たようなことが初めてではないというのは、もっと驚きであるが。
こんなことを繰り返していて、子供達の成長に良いわけがない。特にきり丸は、その喪失の記憶を、無力感を、きっと忘れられないだろう。そしてまた、強くあろうとするのだろう。たった一人で、どこまでも孤独を諦めて、生きていこうとするだろう……──昔の自分がそうしたように。
だけど、きり丸は知っているはずだ。この世には、この学園のような居場所がある。自分を支えてくれる光がある、だから、どんな闇も怖くない。忍びである以前に人として世の光を信じられるようになる。きり丸にも、勿論、他の生徒達にも、それを知っていてほしい。山田の家と出会った自分がそれを経験したのと同じように、必ず自分を許し包み込んでくれる場所があるのだということを覚えていてほしい。それが何よりもの強さになるのだから。
「土井先生?」
くるん、とした乱太郎の声が土井を仰ぐ。気づけば、そこかしこで戯れていた生徒達は、みんな土井のもとに集っている。
「先生、また、お腹痛ですか?」
保健委員の乱太郎に何か声を掛けようとしたしんべヱの顔を見ながら、「んーん、お腹は痛くないよ」と安心させる声音で土井が話す「わたしも、元通りになって良かったと思っていたんだよ」
きり丸も心配そうに見上げている。胸の内、すまんなあ、と思いが過る。
「おまえたちのお陰で、わたしがここに、こうしていられて、よかったなって、思ってたんだ」
何をかや質問したそうで、しかし何をどう質問すればよいのかも分かりかねている小さな頭が十一個、ぽかん、とした表情で続きを待っている。その全てを眺め回しながら、しみじみ込み上げてくるものに土井は感じ入る。
「なあ、乱太郎、しんべヱ…庄左衛門、虎若、三治郎、兵太夫、伊助、金吾、喜三太、三治郎」
その顔を見つめながら呼びかける名前、その先に、また別の顔、名前が浮かんでくる。それは学園の教師陣であり、町の長屋のご近所さんや、今まで出会ってきた人々、自分を受け入れてくれた氷ノ山の……山田の家。
「それから、きり丸」
土井の脇腹に頭を捩じ込むようにしているその頭にポン、と掌を載せて撫でてみると、不思議そうに小首を傾げる感触が伝わってくる。
現在あるもの。過去に失ったもの、犯した罪。だからこそ今ここで、日々を過ごしていられること。今の自分でいられること。すべてひと繋ぎの歩んできた道。過去でも未来でもなく、今この瞬間にある、自分、というもの。
「おまえ達が、わたしを先生にしてくれているんだよ」
「ありがとうなあ、みんな」と口にする土井は心底から豊かに見えて、子供達にしあわせというものの手触りを、また一つ教えてくれている。
季節は初夏。空は青く、雲もなく、晴れた風が、一年は組の窓を吹き清める。
「そういえばセンセー、今週はバイトの手伝い、絶対お願いしますよ? 先週キャンセルして大損した分、取り返さないといけないんで〜!」
「……きり丸、おまえなあッ!!」
一年は組、一斉の笑い声に、
「やっぱり土井先生はこうでなくっちゃ、ね!」
と、乱太郎が締めくくれば……
「はぁ〜ぁ……やっぱり、胃が痛い……」
困り顔に腹を押さえる土井半助は、今日も胃薬を手放せないのであった。
終