夜叉「夜叉がおるのです」
男はひどく怯えた顔でそう言った。言ったまま手で顔を覆うと、そのまま動かなくなってしまった。
夜叉
夕暮れ時、山田伝蔵は急く気持ちを抑えて野を歩いていた。もう三里ほど先の山を越えれば依頼人の在所はすぐだ。夜のうちに走れば夜明け前には着くだろう。
山田の左の頬が初夏の夕焼け色に染まっている。田植えをすっかり終えた水田がこれから伸びゆく緑を麗しく輝かせる。遠くの山々は青く、すぐにも霞が降りてくるだろう。棚引くすみれ色の細雲がそれを知らせるのだ。
どこかで蛙か何かの水に跳ねる音がした。鴨は腹を揺らして帰っていく。山田は夜を待ち遠しく感じている。
夜闇にこそ溶けこむ忍びというものほど、夜を待ち侘びるものはないかもしれない。
山に通じる道の分岐点で休むのに丁度よさそうな木を見つけた山田は、そこで山越え前の一服とすることにした。他の地域などではこういう所に茶店が立っているものだが、ここにはそういうものはないらしい。竹の水筒を取り出して喉を潤すほどに、空は段々とその色合いを染め変えていく。夜目のよく効く山田の眼に、それらは一層鮮やかだった。もうすぐ夜が来るとは思えないほどに。
そうして息をつく山田の所へ一人の男がやってきた。ここら辺りの者だろうか。中年で、ぼろのような、衣服とも言えない物をやっと身に巻き付けている有り様だ。何用かと窺ってみるが、山田に不躾な視線を送ってくるばかりで続きがない。山田の方から声を掛けようかと振り向いたところ、やっと向こうから話しかけてきた。
「旅の御方、どちらへ」
「あの山の向こうです」
「もうすぐ夜になりますぞ」
「ええ。山賊に襲われないよう気をつけます」
「いえ、……いえ、そうではない」
急に男は恐ろしいものを見たような顔を見せる。
「あの山には山賊よりもっと恐ろしいものがおります」
そして男が話したのだ。
「あの山には夜叉がおるのです」
何の話か差し入って聞いてみる。男は見る間に顔を青くし、肩を震わせ蹲りながら、それでも話を紡ごうとする。
「娘でした……娘の形をしておった……」
ふと、山田の目線が男の手元に落ちる。手の甲が爛れている。疥癬ではない。わななく指のまま落ち着きなく自身の手の甲を掻き毟る痕だ。
「だが、娘ではないのです。そうであるはずがない。娘は、あんなに大きくなかった。だって、もう何年も前に……」
男はその血だらけの手を山田の目の前に持ち上げてみせる。
「わしがこの手で殺したのです」
俄かには信じがたい話だった。
予定通り山道を歩く山田は先程別れた男の話を脳裏で反芻する。
『あの山には夜叉がおります。わしはそれに殺されかけました。旅の御方、悪いことは言わん。夜にあの山を越えるのはやめなされ』
男の家は貧しく、末の娘を減らしたのだった。しかし子を殺めても暮らしは良くならず、それが男を尚も苦しめたのだろう。狂人の世迷い言とも受け取れる。が、どうだろう。山──特に夜に閉じた山という場所は、人の世ではないというから。
しかし、山田の気は心ばかり急いていた。逸る気持ちを押さえていられたのは昼間のこと。日はとうに暮れ、森の影と空の黒はほとんど同じ色で塗り潰されている。
夜。生き物の蠢く時間。春を過ぎたこの頃には夜と言っても森は存外賑わしく、忍は一層動きやすい。山田も忍びだてら、その健脚は夜を縫うように駆け抜ける。まるで一陣の風。依頼人の元に着くのが早ければ早いほど、山田の帰路も近まるというもの。山田には先を急ぐ理由があった。
──と、山田の背中にヒリつく予感、そこへ走る強烈な殺気。
山田は瞬時に身を翻す。それは放たれた矢が如く山田のこめかみを穿った。無論、感じたのは殺気のみで物理的なものではないが、相手が本気でそれを放って寄越したのは事実だ。山田は飛び上がって高い木の枝に身を隠し、辺りを窺う。先程のような殺気はないが、何かの気配を感じる。獣ではないが人でもない。山田の眼が刮目される。
枝から勢いよく飛び降りて樹木を背後にすると、今度は、ぬる……と纏わりつく嫌な気配を感じた。だが、それは山田ほどの忍びだからこそ感じられる程ごく微量なもので、巷の者では全く気づけなかっただろう。そしてそれは、口の中まで何かの臭いがしてきそうな、独特の気配なのだ。
忍びだろうか? いや、今度の忍務は追われるようなものではない……。と、再び山田めがけて降り掛かってくる、風を切る音──棒手裏剣。
小気味良い音を立てながら、殺傷力の極めて高い四本の凶器が山田が背を立てる木肌に沈んだ。それを避けた山田は同じく棒手裏剣で返し手を打つ。別の木のそばに翻り移ると、武器が飛んできた方向を覗くように見据えた。追撃はない。
月が雲に隠れている。忍びの事をすべき刻。梟の眼をした山田の意識が全体、森を支配する。
時は訪れた。山田の目の前に現れる白い影……山伏姿の男が立っている。
頭巾から長い髪を垂らした男は随分と背が高く、そして若く見える。修験者が山にいるのは不自然ではない。が、この男、怪しい。
「何奴」
礼儀とばかり短く口にするが、このような場でそのように聞かれて素直に答える者はそういない。経験から山田もよく知っている。案の定、相手は無言で刀を構え直すではないか。
ならば──。
ダッと駆け出した男の死角から素早く刀が突き出される。充分に重心を押さえた山田は地面を踏み込み縦に跳躍した。男は特段の重力移動も見せずに首を上げた方向──山田を追いかけ迫ってくる。竹を蹴り台に、しなりに任せて網を張るように舞い上がっていく山田に、男はやはり軽い身のこなしでついてくる。一跳躍が長い。
思う間、鉄鋼物のぶつかりあう鋭い音。
着地の瞬間、ぐんと間合いを詰めた男から繰り出された太刀の一撃に山田が応じたのだ。強烈な剣戟を真っ向から受けた山田は骨の芯まで衝撃を浴びた。強い一撃だった。が、その強さは一撃に留まらない。それと同じ一撃を、男は止むことなく打ち斬ってくる。
なんという強靭。
なんという無心。
これは、野分となった忍の腕だ。
宙空で、または走りながら交わされる攻撃対攻撃はどちらもが一方的で、またどちらもが双方的である。そして、二人の筋はどこか似ている節がある。山田はこれに違和感を覚えた。
ただ、自分についてくる技量に内心少しばかり驚きながら擽りのような面白みも感じている。山田にとっては世間がそろそろ手狭になってきたところだったからだ。こんな相手とやり合うのも悪くはない。山田の、平和ではない一面がぬるりと顔を覗かしそうになる。しばらく寝かせておいた修羅が呼び起こされてしまいそうになる。危ない、危ない……強い者を前にした時の忘我を、今は何より恐れている。山田はその面をそっと懐に押し戻した。
かち合う刃の音と共鳴が単調になるほど互いに一歩も引かず、力も緩まない。埒の明かない場面の渦中で山田は悟る。
この者は強い。途轍もなく強い。
だが、────ひどく脆い。
山田は男の太刀筋から伝わる強さの、その奥底の儚さを感じて手を引いてしまう。護るものも仕えるものも、欲も希みすらもない。何も持たざる者の剣。何を持ちたいのか、何を持てばいいのかも分からない剣。何も知らない剣。冷たく、悲しく、哀れな剣。……親の手を失った、迷い子のような。
これは、この男は……斬ってよい者ではない。思った瞬間、山田は弾き玉を鋭く打ち放った。その一手に首を反って躱した男の刀を山田はすかさず薙ぎ払う。男の手から刀が滑り抜け飛んでいった──その先で、重力との調和に従って回転しながら落下する刀は、そのまま地面に突き刺さった。
すると、どうしたことだろうか。俄かに立ち込めだした霧が、あっという間に周辺を満たしてしまった。笹薮の影がやっと見える程度の暗い闇に突然生まれた空間が不自然な明るさを保っている。
山田は差して動じる素振りもなく注意深く周囲に気を張る。
人の気配はない。だが、異様だ。それだけは確かだった。風が吹くのか竹藪のざわめきが聞こえるのに、辺りの霧は一向に消える様子がない。気づけば先程の山伏の姿も見えなかった。
暫く、続けて五感の全てを研ぎ澄ませていると、藪を撫ぜる風のさざめきが次第に声のように聞こえてきた。それは男のようにも女のようにも聞こえ、暗く、深く、暖かく、冷たい……歪に不思議な響き方をする。
〈もし、そこな……〉
瞬間、山田は声のした──と感じた──先に棒手裏剣を放った。夜闇さえ切り裂く一閃。しかし、手応えはない。それどころか声は、〈ホホホホ……〉と愉快げに笑うではないか。
〈山田伝蔵と名乗る者……〉
響く声が山田のその名を呼んだ。山田は印象的な半月眼をキッと厳しく引き締め直す。──なぜその名を?
薬か幻術の類を疑うが、如何せん霧で何も見えない。念のため口元を抑え込んでいても、効き目があるとは思えなかった。何かそう思わせるものがこの一連の場とその声にはあった。靡く風そのものであるかのように悠然と響き、頭骨を直接震わせるような声。不気味なようにも、心地よいようにも思わせる。もしくはその声自体が幻術の種なのかもしれない。視界に薄く見える竹の影だけが唯一山田の現実感を保つ指標となっているほど、歴戦をくぐり抜けてきた山田にとっても状況は奇抜に浮世離れしていた。
「何者か」
山田はまた定型句で問うた。意外にも、声は素直に返事を寄越した。
〈われは夜。夜に生まれつくものに触れるもの〉
霧の中から先程の若い山伏が現れる。この男は声の主ではない。
「この者は」
渦巻く風に真似て声は答える。
〈これはそなたの因果。そなたによって定められるもの〉
〈これはいつかそなたに禍いを及ぼし、そなたはこれを殺すだろう〉
〈もしくは、そなたの行い如何によっては……また別の道もあろうが〉
口元に薄く笑みを浮かべている。人の有り様を面白がる、そんな声だ。
山田は目の前に立つ男を見やる。口元を布で覆っていて面相は定かでないが、見たところ面識はないはずだ。すらりと背が高く、頭巾の間から長い総髪を雑に下ろしている。ぼうっと立つ姿は奇怪で、恐らく幻の一種なのだろう。この男を知らない山田にとっては重ね重ね突拍子もない話にしか思えない。
顔色一つ変えずに耳を立てていた山田だったが、声の主の口調も、その声音も、また話の中身も、相当に胸糞が悪かった。
「私はもう殺しはやらん」
くつくつくつ。釜で何か煮たてるような音。笑っている。山田はつまらなかった。
その言葉に嘘はなかった。山田はもう殺しはやらない。危ない仕事もしない。この山を越えれば仕事が終わる。この仕事が終われば戦忍びは仕舞いだ。……家で身重の女房が待っているのだ。
しかし、だからこそ山田はこうとも思う。何かを護るために仕方なく刃を翳すことは、もしくは、あるかもしれない。
「どちらの御魂か存じ上げぬが、よその人生に口出しせんでもらえますかな」
それが何より山田の気を逆撫でていた。
風がまた、泡立ち寄せる波のようにさざめく。
〈人の子よ。あはれ。だが、われは、山田伝蔵、〉声が遠のいていく……〈そなたのような人間、嫌いでないぞえ……〉
霧が晴れた時、山田は峠を越えた麓に立っていた。夜は明け、朝の光が野道に山田の影を落としていた。
◇◇◇
山田の家にはその後無事に男児が生まれた。長男であるその子は母にも父にも似てよく育ち、様々な師に当たって忍になるべく育っていく。後の利吉である。その利吉も今や独り立ちしている。
利吉が元服する頃、ややあって拾うことになった男がいた。抜け忍として追われていた所を助けたのが縁だったが、その縁高じて忍術学園の教職を斡旋することになった。背景あって名乗ることができないため、名前も山田が付けてやった。今の土井半助である。野良犬のような生き方をしてきたらしい、殺伐とした空気を纏っていた若者も教師として忍者の卵・忍たま達と触れ合ううちに己を見出していった。後になっては不出来な生徒たちに振り回されて胃を痛めるほど人を甘やかすことにも馴れた。きり丸という、自らと境遇の似た生徒の世話を進んでするようにもなった。そのきり丸も学園での生活と土井との暮らしを通して当初よりもずっと子供らしく──そう、きり丸にしては、子供らしく──なった。戦禍を生き抜く孤児にありがちな諸行無常、侘しさといった風合いをいつも連れ歩いた姿は今やない。そして、底から人を信じないような眼も、もうしない。山田はその類の冷えきった瞳に見つめられる度、あの夜打ち合った山伏が重なり浮かぶのだった。
そのようにして教え子達の成長を山田はそばでずっと見守ってきた。
あの峠の夜の事を、山田は他言したことはない。摩訶不思議で解釈しきれないことを人に話して何とする。山の怪に化かされたか、山田伝蔵も遂にはそんな幻覚を見るようになったから仕事を辞めたのだとでも冷やかされるに決まっている。このように、些かには何とも言い難い苦さを感じていたのだ。……ある時までは。
◇◇◇
時の流れ憚ることなし。
大樹の虚で五年生、六年生に指示を出した山田は続けて述べる。
「戦いが必要なら、わしがする」
指示に従って忍術学園の上級生達が千千に飛んでいく。全てを見送った山田は最後に夜闇へ駆け出した。
山田はそれを知っていた。己が名付けた宿命だった。
邪悪な月が上る夜。そこに溶けゆく山田の姿を、うっそり笑うような闇が覆い抱いた。