若き聖堂騎士の試練息をするのも忘れそうな威圧感。全身がぞわりと粟立つ。
この感覚は──そうだ、カルディナ機関長と初めて剣を交えたときのものと似ている。
目の前に対峙する人間が何倍にも大きく見えるような、そんな錯覚すら覚えるほどのプレッシャー。
僕は目の前の人からかろうじて目をそらさないまま、少しだけ息を吐き、剣を鞘から引き抜いた。
相手は杖を構えて、鋭い視線で僕を睨みつけてくる。それはまるで、テメノスさんが異端を暴くときの表情とよく似ていた。悪事を絶対に見逃さない視線。似ていると感じるのは、やはり二人が家族だから、だろうか。
「クリック・ウェルズリー君」
よく通る声で、目の前のロイさんが口を開いた。
「見極めさせてもらうよ。君が、テメノスに相応しい人間か」
そう、この場はそのための場なのだ。
かねてより僕がお付き合いしているテメノスさん。その唯一の家族であるロイさんに、僕を認めてもらうための場。
負けるわけにはいかない。剣を正眼に構える。
「──はい」
僕とロイさんは、ほぼ同時に大地を蹴った。
◇
5年以上行方不明になっていたロイさんが、テメノスさんの尽力により奇跡的に生還した。
その一報を僕が受け取ったのはストームヘイルの聖堂機関本部でのことだった。
ロイさんはトト・ハハ島で見つかり、ひどい衰弱状態にあるため、トロップホップでしばらく療養したのち、フレイムチャーチに帰郷する予定だ。唯一の家族であるテメノスさんはロイさんに付き添い、薬師のキャスティさんも容体が安定するまで一緒にいてくれるそうだ。
僕は恩人であるロイさんに、すぐにでも会いに行きたかった。けれど、ロイさんが精神的に非常に不安定らしく、今はテメノスさん以外の人間になるべく会わせないほうがよい、というキャスティさんの判断があった。どうやらここ5年ほどの記憶が欠落しているらしい。恩人に何もできない自分に歯がゆさを覚えながら、僕はロイさんの回復を待った。
しばらくして、テメノスさんから、ロイさんと一緒にフレイムチャーチに戻るとの手紙が届いた。僕はその手紙を受け取ってすぐ休暇の申請を出した。
そうして、二人がフレイムチャーチに戻った数日後、僕はひさしぶりにフレイムチャーチを訪れた。
街で出迎えてくれたテメノスさんは、少し難しい顔をしていた。いつもは穏やかな表情でいることが多いのに、今日はオルトのように眉を寄せている。ロイさんの状態があまりよくないのですかと訊ねると、テメノスさんは首を横に振った。
「…元気すぎるくらいです」
「それはよかったじゃないですか。僕も早くお会いしたいです」
事前にテメノスさんが僕のことをロイさんに伝えたところ、ロイさんは僕のことを覚えていてくれたらしい。あの少年が聖堂騎士に!と、とても喜んでくれたそうだ。
ただ問題はその後にあった。テメノスさんが僕とお付き合いしていることを伝えると、ロイさんが固まってしまったらしい。
「彼は、昔から私のこととなるとどうにも過保護で」
困ったものです、と嘆きながらテメノスさんは巡礼路を登っていく。今、ロイさんは大聖堂内の宛がわれた私室で過ごしているらしい。
ロイさんとテメノスさんは、共にイェルク教皇のもとで育った家族だ。ロイさんにとって、自分の知らないうちに、大事な家族に8歳も年下の恋人ができていたとなると、それは確かに心中穏やかではないのかもしれない。
「すみません。もっと早くご挨拶に伺うべきでしたでしょうか」
「いえ。遅い早いの問題ではなく、伝えたらこうなるだろうというのは十分予測できましたから」
テメノスさんは、歩きながら視線を隣の僕に向けて、どういう訳か頭のてっぺんから足元までを一瞥した。ロイさんにお会いするのに、どこか礼を失するような部分はあっただろうか。いつもの聖堂騎士の鎧とマントなのだが。
「今どこも怪我してないですね?」
「えっ? 特には」
「体調は万全ですか?」
「そうですね、問題ありません」
「よろしい」
テメノスさんが断罪の杖を僕に向けて、魔法を唱えだした。聖火神の祠で、テメノスさんにだけ授けられたという特別な回復魔法だ。体の内側から活力が湧き上がってくるのを感じる。
「…まあこれくらいなら、ズルのうちに入らないでしょう。では行きますか」
再び大聖堂に向かって歩き出したテメノスさんに、僕は一拍遅れて歩き出す。
「え、ちょっと待ってください。今のはなんですか?」
テメノスさんは、質問に直接回答してはくれなかった。神妙な表情で、階段の上の大聖堂を見上げながら、静かに答えた。
「私から言えることはただ一つです。
クリック君、本気でぶつかってください」
◇
昼下がり。大聖堂の脇のちょっとした広場で、僕はロイさんと対峙していた。少し離れたところで呆れた顔をしているテメノスさん。更に距離を取って、何事かと集まってきた教会関係者や巡礼者たちが僕らを取り囲んでいる。
ロイさんは最初、温かく迎えてくれた。昔あった時と変わらない、柔和な笑顔と少し癖のある黒髪。顔色も良く、しばらく前まで歩くこともまならなかったとは思えないほどの回復ぶりだった。
そんなロイさんは挨拶もそこそこに「とりあえず外に出ようか」と僕とテメノスさんを外に連れ出した。
修羅の錫杖を右手で軽々と取り回しながら、ロイさんは「人となりを知るには剣を交えるのが一番。僕の獲物は杖だけれど」とお茶目に笑ってみせた。
曰く、「お養父様がいない今、僕が役目を果たさなければならない」と。
──そのロイさんが、悪鬼の形相で僕に襲い掛かってくる。
「っ!」
素早く振り下ろされた一撃を剣で受ける。重い。聖堂騎士にだってこんな一撃を繰り出せる人間はそういない。
剣と杖の鍔迫り合い。武器を間に挟んでの睨み合い。体格では僕の方が勝っているのに、とんでもない膂力だ。
ロイさんはそれはもう楽しそうににやりと笑った。
「今の一撃を受け止めるとは!なかなかやるね!」
「ロイさんこそ…!病み上がりとは思えませんね!」
「伊達で異端審問官はやっていないからね。元、だけれどっ!」
強い力で弾かれたかと思えば、すぐさま繰り出される横薙ぎ。後ろに下がって回避する。
「そんな防戦一方でテメノスは守れないぞ!」
空いた距離を詰めるように、杖の鋭い突きが放たれる。すんでのところで剣で弾いて軌道をそらした。
体勢を立て直し、剣を構える。杖の一撃が重い上に、早い。鎧を着た僕でも、まともに食らえば危ないと分かる。長期戦は不利と判断して攻勢に出る。
「たぁッ!」
「甘い!」
僕の一撃をロイさんは悠々と躱す。僕と比べてロイさんは軽装だ。神官服の下に多少の防具を着ていたとしても、僕が一撃でも与えられればそこが糸口になるはず。だが、その佇む姿には隙と思える箇所がなかった。
騒ぎを聞きつけて僕らを取り囲むギャラリーが増えてきたようだ。なんだ?決闘?と囁きあう声が耳に入る。そんなざわめきを一括するように、ロイさんは声を張り上げた。
「どうしたクリック君!その程度ではテメノスに愛想を尽かされてしまうぞ!」
そんなことは嫌だ。絶対に嫌だ。大地を蹴って再び斬りかかる。
「はああっ!」
大上段からの一太刀は、杖にしっかりと受け止められた。続けざまに攻撃を浴びせるも、これも上手くいなされてしまう。ロイさんは笑った。
「気持ちが剣に乗ってきたなっ!ではこれはどうだ!」
ロイさんの目が鋭く光ったかと思うと、僕の胴体目掛けて杖の素早い一撃が入った。ギャラリーがどよめく。
「ぐ…っ」
鎧越しに臓腑に伝わる衝撃。
崩れ落ちそうになる膝に力を入れて踏みとどまる。ロイさんを見上げると、ロイさんは目を丸くしていた。
「…耐えた?これはなかなか…」
きっと、試合の前にテメノスさんがこっそりかけてくれた魔法のおかげだろう。
「負ける訳には、いきません…!」
剣のグリップを握り直し、正眼の構え。
「僕はテメノスさんのことを、何があってもお守りすると誓いました!その約束を違えるわけにはいかない! ──たあっ!!」
「っ!」
渾身の一撃。ロイさんは躱しそこね、左の太腿に傷が入る。ロイさんが小さく呻いて片膝を着いた。
「やるな…」
身軽さを損なったものの、ロイさんの顔にはまだ余裕が浮かんでいた。ロイさんは杖を支えにして立ち上がり、僕を真っすぐに見据える。
「クリック君」
「…はい」
僕は剣を構え直す。
「テメノスは、僕にとって唯一の家族なんだ」
「存じています」
ロイさんとテメノスさんは、実の親を亡くし、養父の下で共に育った。養父であったイェルク教皇は、すでに身罷られた。ロイさんのことを話すテメノスさんの表情を思い出せば、二人がお互いをどんなに大切に思っていたかなんて聞くまでもない。
「子供の頃のテメノスはね…それはもう天使のようにかわいくて。今もだけど」
「ロイ」
傍観していたテメノスさんが低い声で口を挟むが、ロイさんは意に介さなかった。ロイさんは顔を歪めて叫ぶ。
「そんなテメノスに恋人ができたと!その相手が君であると!聞いた時の僕の気持ちが君にわかるかい!?」
僕の心がずきりと痛んだ。ロイさんは僕にとって道を指し示してくれた恩人だ。そのロイさんが不在の間に、僕はテメノスさんと出逢い、想いを寄せるようになった。5年以上の歳月を経て帰還したロイさんにとって、その事実はきっと辛いものであったに違いない。
「察するに余りあります!」
「そうだろう?だからね、僕は君のことを、そう簡単に認めるわけにはいかないんだ!」
ロイさんの気持ちもわかる。でも、僕にだって譲れないものがある。
「…僕も、そう簡単に引き下がるわけにはいきません!」
ロイさんが杖を、僕が剣を構え直す。
次の一撃で決まる。そう確信できた。
「マジックスティールロッドッ!!!」
「聖心斬りッ!!」
二人分の絶叫が、フレイムチャーチの空に響き渡った。
◇
「…クリック君。大丈夫ですか?」
柔らかい光に包まれて、僕はゆっくりと瞼を開けた。そこには、心配そうに僕の顔を覗き込むテメノスさんがいた。地面に仰向けになっていた僕は、手をついてゆっくりと体を起こした。テメノスさんが回復魔法をかけてくれたのだろう。体に痛みはなかった。
「試合は…」
「相打ちです。ほら」
テメノスさんが杖で指し示すと、すぐ近くでロイさんが大の字になって倒れていた。お互いが持っていたはずの武器も、近くに転がっている。僕らを取り囲んでいたギャラリーも、気づけばばらばらと解散していた。
「…すみません」
僕は座ったまま、目の前のテメノスさんに頭を下げると、テメノスさんは目を丸くした。
「勝てませんでした。ロイさんに認めていただかなくてはいけなかったのに」
「ああそれですか。ふふ…」
テメノスさんは何故か微笑んで、僕にロイさんを見るように促す。ロイさんは倒れたままだけれど、すでに意識は取り戻しているようだった。
ズズっ、と鼻をすする音が聞こえた。……泣いてる?
「……テメノス、良い奴に会えたな……」
ロイさんは、大地に仰向けになったまま、男泣きしていた。
「ロイがクリック君を導いてくれたおかげだ」
テメノスさんが笑いながらロイさんに近寄る。僕も自分の剣を拾って鞘に納めながら、それに続いた。
「そうかもね…。でも、心の炎を育てたのはクリック君自身。それを支えたのはテメノスなんだろう」
空を見上げたままの、ロイさんの両の目尻からは涙が伝っていた。その顔は、とても穏やかだった。
「……幸せになれよ……」
ロイさんはそう言って、静かに瞼を閉じたまま動かなくなった。
「…ロイさん?」
慌てて駆け寄ると、ロイさんは規則正しい寝息を立てていた。テメノスさんがため息をつく。
「疲れたみたいですね。全く、病み上がりで無理するからです。しばらく寝かせておきましょう」
テメノスさんは立ち上がり、周囲の様子を素早く確認する。
「さて、逃げますよ、クリック君」
「えっ?逃げるって…」
「大聖堂の横であれだけ派手に戦って、怒られないわけないじゃないですか。そろそろ神官長が飛んできます」
「ロイさんは…」
「責任を取らせましょう。そもそも彼が戦わせろと言い始めたのですし」
「でも」
「神官長に捕まると麓からここまでのワイン運び10往復させられますよ。いいんですか」
「──はいっ!」
僕達は足早にその場を後にした。
その夜、僕達は神官長にこってり絞られたロイさんと合流し食卓を囲んだ。
そこで聞かせられた、フレイムチャーチの狂犬ロイ・ミストラルの逸話に、僕はただただ、驚くしかできなかった。