憶い テランスが憶いを告げてから、ディオンの様子が少し変わったことにテランスは気づいた。
初めは自分が意識しているだけだと思っていたが、よくよく過去の事柄を思い返しても最近のようなことは一度もない。明らかに対人距離が近いのだ。
「ディオン様、お昼をお持ちしました」
テランスがディオンのベッドに昼食を持ち運ぶ。
「今日はまともなものが食べられるのだろうな」
「はい。胃も落ち着いてきましたから、固形物を増やしてもらいました」
テランスが盆をそば机に置くと、ディオンは両手を広げる。以前はこのような行動はなかった。
ディオンの背中と腰を抱いて体を起こしてやると、その間ディオンはぎゅうっとテランスを抱く。
「そろそろご自分で起きたらいかがですか?」
「まだ腹筋を使うと腹が痛むのだ」
そう言われると、自分を庇った傷のため強くは言い返せない。
ベッドテーブルを置き、昼食を置く。
「固形物を増やしたとは言うが、スープの中身がまだよくわからないぞ」
「芋と、人参、セロリ、白身魚ですね」
少し不満そうな顔のディオンに
「今日からパンが増えました。生クリームを入れたのでふわふわです。それでもよく噛んで食べてください」
「余は小麦の味が強い硬いパンが好きだ」
そう言うと、口を開ける。
対人距離以外にも、テランスと二人でいる時だけ、ディオンは甘えるようになった。
「その大好きなパンが早く食べたいのなら、今日からご自分で匙を取りお食べください」
ディオンの手を取り匙を渡し、テランスは上手くかわした。
少し不満げな表情ではあったが、匙と椀を取りスープを口にする。
二、三口、スープを口にすると、テランスの顔が緩み、腹も緩んだのか盛大に鳴った。
恥ずかしそうに詫びるテランスに
「そういえば其方、昼は?」
「ディオン様が終えられた後に頂いています」
「余だけ食べて其方がそれを見ているだけというのもいささか食べにくいのだが…」
「お気になさらず。ディオン様が残さず食べて頂けるのが何よりの幸せです」
「ほら」
突然、スープを掬った匙をテランスの口下によこした。
「何をしているんですか」
「一緒に食べるんだ」
「それはディオン様の分です」
「主の寄越したものが食えぬのか?」
「食事の量も主治医に報告しているんです。私が食べたら計算が狂います。しっかり食べて早く元気になって下さい」
「食べづらい」
「またそのような…」
「そうだ、一緒にここで食べよう。今晩からそうしよう。その方が余も回復が早かろう」
このようなことを言われるのも初めてだ。ディオンの看病を過去何度かしたことはあるが、テランスの食事のことまで言及することはなかった。
夜はディオンの部屋で夕食を共にした。通常の食事を欲しがるディオンを思い、テランスもディオンと同じ病人食を口にした。
味は薄く、通常より柔らかく煮た食べ物は好みではない。それ以前に、戦で硬く味が濃いものを口にしていた二人にとってはな、なんとも食べ応えがしないものだった。
「早く通常のものを口にしたいですね」
「其方のを少し貰う算段であったが、まさか同じものを食しているとは…」
「あ、それが狙いだったのですね!」
「それもあるが、『一番は少しでも其方と一緒にいたいのだ』」
ディオンの顔がぐっと近づくと、テランスは慌てて目を逸らし、パンをちぎって口にした。
「このパンも、案外いけますね。焼き立てですし。甘味があります」
と、その場を取り繕った。
ディオンの体は徐々に動くようになった。
「握力もずいぶん戻られましたね。明日から素振りも始められるのではと兵長が申しておりました」
「ああ、早く体を戻して前線に出て、父上を喜ばせたい」
「そう…ですね…」
前線に出ればディオンの体にまた傷がつくかもしれない。それに、ディオンの父、シルヴェストルは心からディオンを労っている姿をいまだに見たことがない。その男を健気に慕うディオンを不憫に思った。しかし、ザンブレクの国を守る大きな使命に比べればそのようなことは小さなことなのかもしれない…。など矛盾した思いを巡らせると心が張り裂けそうになる。
「どうした?暗い顔をして。早く治せとせかしたのは其方であろう」
「そうですね…」
ふと、ディオンが腕を伸ばしテランスを抱いた。以前はそのようなことはしない男だったのに…。
「大丈夫だ。あんな失態はしないさ」
「いえ、あれは私の不注意で…」
「…部下を守って周りに迷惑をかける失態はしないと言っているのだ。だから、其方はもっと強くなれ。余に守られてどうする。余を守ってくれ」
ドン。と、テランスの背中を掌で強く叩いた。雷に打たれたようだった。ディオンを守っているつもりがずっと守られていたのだ。ディオンが目覚め、胸に秘めた想いを受け入れてくれたことに安堵し、主人の一挙手一投足を気にしてうわついている場合ではない。私はこの主人を「守らなければならない」のだ。
テランスもディオンを強く抱き
「申し訳ありませんでした!ディオン様が目覚められた日からずっと浮ついておりました。心を入れ替えないといけません。貴方をずっと、一生、お守りいたします!」
「うん。頼りにしている」
ディオンが耳元で囁くと、テランスはディオンから離れ
「では、風呂の用意は出来ておりますのでお入りください。夕食まで私は稽古に行ってまいります」
と、鼻息荒く部屋を出て行った。
オリフレムに雪が降る寒空の続く頃にはディオンの体は回復し、テランスと稽古ができるほどになり、出兵を言い渡される日も近いといったところ、
「今夜は暖かくしてお休み下さい。このまま冷えれば夜更け過ぎには雪になりそうです」
小指を絡めて目を合わせ、就寝を伝えるこの合図は子供の頃からのいつもの約束。
「おやすみなさい。ディオン様」
テランスが小指を離そうとするも、ディオンの小指は解こうとはしなかった。
「どうされたのですか?」
「今夜は冷える」
「湯たんぽを増やしましょうか」
「そうして欲しい」
「では、伝えてまいります」
「違う。其方が良い」
ディオンが何を言っているのか理解ができなかった。
「すみません。もう一度お伺いしてよろしいですか?」
「其方が湯たんぽだ」
「は?」
テランスの目が大きく見開き耳が朱に染まると、ディオンは上掛けをめくった。慌てたテランスは
「えっと…その……」
交わす言葉が見つからない。
「早くしろ。冷えるだろ」
と、誘う。
寝巻きから腹がちらついていたのを見つけ
「ディオン様、お腹が冷えます。上掛けを…」
「其方が入るまでかけない」
「ディオン様…」
「余の腹をこれ以上冷やしたくなくば早く来い」
「貴方は、それがどう言うことかわかっておいでですか?」
「どういうことだ?」
「貴方は、私の気持ちを知っておいでですよね?その気持ちは、未だ消えることはないのですよ?」
「だから、側にいて欲しいのだ」
ディオンは上掛けを持ったままテランスに近づき、互いを包んだ。
「其方はいつも隣にいてくれて、いつも献身的な愛をくれる。それに応えたいのだ。だからテランス…余と、主従の関係…以上の…人としての繋がりを持ってはもらえぬか?…その…有り体に言えば男女の関係…のような…」
思ってもいない言葉がディオンの口から出たのに驚いた。ディオンには、然るべき時に然るべき女性と子を成して家庭を持ち、国を守り幸せになって欲しい。それがディオンの幸せで、自分は生涯その支援ができていければ。と願っていたのに、自分の献身に応えるために、主人をその道から外して良いのか?いや、良いわけがない。テランスは首を横に振り、
「ご身分をお考えください。私と貴方では天地がひっくり返ってもそのような関係にはなれません」
「そんなことはない!余は其方が良いのだ!」
「思い違いをしないでください。私の気持ちを享受して頂いたのは本当に喜ばしいことです。しかし、貴方様がそれに釣られて同じ思いになってはいけません。貴方は国の英雄です。宝です。もっとご自分を大切になさって下さい」
と、ディオンから体を離すと、ディオンの瞳からぼろぼろと涙が溢れた。こんなにもディオンが泣いたのはいつぶりだろうか?いや、記憶にない…。
「其方は酷い。自分の気持ちだけ告げておいて、享受してくれたと喜ぶくせに、余の心は受け入れない。一方的すぎる。余を真に慕ってくれるのは其方だけだ。父だって、母だって両腕を差し出しても其方のように抱いてくれなかった。余には其方しかいないのだ。良い加減に気付かないふりをするのはやめてくれ。毎日が苦しい」
そう言い終わるとテランスの胸の中で大声で泣き始めた。
テランスは気づいてしまった。ディオンは父親に愛されてないことを知っている。あんなに崇敬しているのにも関わらず…。そう思うと、自分がディオンに見せていた態度はシルヴェストルと同じではないか。父親にはその真実を吐露せずただ盲目的に崇敬し続ける。しかし自分にはしっかりと想いを告げてくれた。泣き言も言ったことがないプライドの高いこの人が…。
ここで拒絶してはいけない。それはテランスの思い描くディオンではない。自分はディオンの隣にいると誓った。なら、主従を超えた関係をディオンが望むならそれに応えるべきなのでは。
やがてディオンの熱い涙もテランスの服を濡らし、それは心臓まで到達する。
「ディオン様…。申し訳ありませんでした。身勝手がすぎました。愛してます。ディオン様…。ですから、私のことも、愛して下さいますでしょうか…?」
胸の中のディオンが一瞬止まり
「やっと、想いが繋がった」
にっこりと顔を上げた。その顔は目が真っ赤に腫れ上がっていた。あまりの顔にテランスはディオンの顔を両手で被い、震える手で涙を拭うと、ディオンがそっと目を閉じる。まさか、長年叶わぬであろうと何度諦めても慕い続けていた人が、自分の腕に今収まっていることになるとは。そのことだけで胸がいっぱいになり、ディオンの顔をうっとり眺めていると、突然眉間に皺を寄せ目を開く。
「其方は全く分かっていないのだな!」
そう言うやディオンはテランスの口に自らの口を重ねた。あまりの出来事で、唇が離れディオンが一言言うまで記憶がなかった。
「余の初めてだ。受け取れ」
「え…あ…」
その時、ディオンが生死の境を彷徨っていた頃に咀嚼したものを口移しで与えた事をテランスは思い出して顔を真っ赤にした。「初めて」ではない。
「まだ足りぬか?」
頬を赤らめるディオンに
「いえ、ありがとうございます!」
と、うわずった声で礼を言ってしまうと、ディオンは呆れた顔をして笑った。
今日が初めてではないことはディオンには内緒にしておこう。