御伽噺 ディオンがテランスを庇い倒れてから一週間が経った。
その間、テランスはディオンの側を片時も離れず日々泣き暮らしながらディオンの傷を癒やし、自ら咀嚼した肉や粥を口移しで与え、夜に体温が下がれば自ら肌を露わにしディオンの体を温めた。
彼がここまで献身的にディオンを支えるのは、幼なじみである、従者である以上の感情を抱いているからであるが、この気持ちは生涯胸の奥に仕舞い込み続けていく決心でいた。
騎士団の兵長が声をかける。
「テランス。そろそろ医者が到着する。そうすればお前も少し休めるだろう」
「兵長…。いいえ…。私はディオン様のお側にいることが生きる目的…。この身を差し出してでもディオン様を治してみせます」
張り詰めた表情を崩さず、ディオンを見つめた。
兵長が大きくため息をつくと、天幕のカーテンが開き、ディオンを幼少期から診ている専属医が入ってきた。
早速ディオンを診ると、初期治療の手際の良さに驚きテランスを褒め、この傷であれば命に別状はなく、もう五日もすれば軍を撤退させ皇都に戻り、さらに高度な治療が施せると言った。
テランスも心を撫で下ろし専属医を手伝い、ディオンが目覚めるのを待った。
七日が過ぎ、ディオンが意識を戻さないまま皇都に撤退することが決まった。これにはテランスが大いに反対した。
「ディオン様の体温が正常に戻られたのが昨日です。傷だってまだ深い。ここから皇都まで三日はかかります。その間に何かあったら…!」
「ディオン様一人のために他の兵をここへ置いておくわけにはいかないだろう」
兵長が嗜める。
「ならば!私とディオン様とお医者様だけをここに置いていただければ!」
専属医は、意識が戻らないだけでこの程度の怪我であれば運べると細かく説明するも一向に譲らないテランスに最後は兵長が一喝した。
「お前はディオン様の側近であり、ディオン様が大事なのはわかるがそれ以外のことに目がいかない。戦が終わって半月も足止めされているんだ。兵糧だって底をつきはじめている。ディオン様一人のためにもう数千の兵を留め置くことはできんのだ」
その夜もテランスは泣き、ディオンの前でひたすら祈った。せめて、何事もなく王都にディオンを運べるようにと。
翌朝、ディオンは藁の上に布を敷いた木箱に入れられ馬車に乗せられた。誰も何も言わなかったが、まるで棺桶のようで皆下を向いて帰路についた。
テランスはこの箱が大変不快だったが、転げ落ちて更なる怪我を負わすわけにもいかず、箱の中にいるディオンを見つめた。
ことあるごとに呼吸を確認し、休息時間には水を与えてディオンが飲むと心が落ち着いた。
夜もあまり動かさないほうが良いと馬車に置かれ、冷える夜は小さな箱に二人で寝るわけにもいかず、温めた石を布で包んでディオンの横に置いてやった。これが冷えると換えてやる。
「よく温まってくださいね。熱かったら仰ってください」
など、よく話しかけるようになっていた。
これが三日続くとザンブレクのドレイクヘッドが遥か地平線に顔を出す。テランスは深呼吸をして故郷の空気を胸いっぱいに入れる。
「ディオン様、オリフレムに帰ってこれましたよ。見てください。ドレイクヘッドです」
いつものように話しかけるも反応はなく、目を閉じたままだった。テランスは自分の手を数度こすり温め温度を確認すると、ディオンの頬に触れた。
城門前に着くと既に医療隊が待ち構えており、テランスを押しのけてディオンが入っている箱を持って行ってしまった。側近である自分を押しのけるとはとテランスは猛抗議をしたが、未だ意識を戻さない英雄に祈りを捧げる民衆に気づき言葉を失った。
ディオンのことで頭がいっぱいになっていたために、周りに全く気づいていなかったが、祈る民衆を抑えている兵士の幾人かが、こちらを睨みつけているのに気づいて青ざめた。
このような事態を起こしてしまったのは自分である。
それに気づくといてもたってもいられず慌てて馬車を降り、逃げるように城内に入った途端に腰を抜かし、四つん這いになって胃の内容物を戻してしまった。
それでも体の震えが止まらず、寒いのか暑いのかすらわからない。胃袋も誰かに搾られているように痛み痙攣し、何度も吐いた。喉が胃液でひりひりと痛み、内容物もなく液体だけでも吐き散らし、意識が薄れて行った。
気づくと見慣れた天井だった。
まだ覚醒しきれない意識で辺りを見渡すと、テランスの実家の自室だった。ここでテランスは育った。
次に重い体を起こし、喉の痛みと胃の不快感で思い出した。城門で倒れたことを。
「ディオン様は…」
抜けた腰はまだ戻らず、這いつくばって部屋の扉を開いて廊下に出ると、誰かが叫ぶ声が聞こえた。
「ディオン様は!?」
叫んだ誰かに訊ねる。
「まだお休みになってください」
近寄った者はテランスの家に勤めるメイドだった。
「駄目だ。ディオン様のお側にいないと!ディオン様の容体は?」
「さ、さぁ…。まだお目覚めにならないと…」
「城へ行く。用意しろ」
「駄目です。そんなお体で!第一、お城でお倒れになられて以降テランス様は休暇を言い渡されております」
「休暇などいらん!僕はディオン様の側近だ!お側にいなくてなんになる!」
「そのことだがテランス。お前は側近の職務を更迭された」
目の前に父親の姿があった。城へ上がった服装だ。
「更迭…?」
「今、城に呼ばれ神皇様とお話をしてきた。お前を庇ってディオン様はお倒れになられたというではないか…」
父親の顔が一層曇った。
「我が子の健康と幸せを願うのは親の常だが、今回は傷つけてしまったものがあまりにも大きく、私も気を揉んでいる」
と、深く長いため息をついた。
「では、僕は二度とディオン様に会えないの?」
父親に縋る。
「更迭で済んだだけでもありがたく思え。軍医や戦場に赴いた専属医がお前の献身を強く奏上して下さったんだ。今後の事は私が考えてやる」
その一言があまりに重く、体が石のように硬くなり、それ以上何も動けなくなった。
テランスは自室から見えるホワイトウィルム城をぼんやりと見つめること数日が経った。歩けるようにはなったが、胃の不快感は戻らず柔らかいものやスープを口にするだけの日が続いた。何より更迭の二文字が重くのしかかり、満足に喉も通らない。
そんな中、父親に歩けるようになったのだから、城へ詫びに行くように伝えられた。
城へ行く正装を着せられ、鏡の前に立つ。毎日袖を通しディオンに会いに行っていた格好。もうこの服に袖を通す事はないかもしれない。そう思うと悲しくなり、不細工な顔が鏡に映し出された。
ぐずっていると思われたのか、周りから即され重い足取りで通い慣れた道を歩く。道すがら睨みつけていた兵士を思い出す。もしかしたら、ここにいる街の皆が自分を恨んでいるのではないかと疑心暗鬼になるまま歩いていると、気づけばいつも登城する裏門にたどり着いていた。
身分を明かし、入城する。意識を失った表門が関係者の通用門でなくてよかったな。など、ふと思った。
しばらく詰所で待たされる。知った顔もいくつかあったが皆テランスが更迭されたことを知ってのことであろうか、会釈程度で声をかけてくる者もいない。
肩身が狭いまましばらく待っていると呼ばれ、神皇の玉座へ通された。
ディオンの父、神皇シルヴェストル。眉一つ動かさず、じっとテランスを見下ろしている。テランスは型式ばって頭を垂れ、ディオンがこのようになってしまった事について心から詫び、更迭という軽い罰で済んだことについての礼を心にもなく伝えた。そして最後に
「お願いがあります。お世話になったディオン様に、最後に一度だけお会いさせてください!」
と、口をついた。これにはシルヴェストルはじめ一同に驚いたが
「今一度側近に戻して下さいとは申しません。ですが、ずっとずっと、子供の頃からお世話をさせて頂いたのです。最後、一目だけでも…」
「その世話で、息子はこのようになってしまったのではないか?」
このシルヴェストルという男を、テランスは子供の頃からよく思っていない。ディオンの父君であるから、ディオンが崇敬するから自分も何度も崇敬しようと思ってはいるが、実際のところディオンを冷遇するこの男がディオンを「息子」と呼ぶのは非常に不快だった。が、ここはディオンに会うためであれば何でもする。深く垂れた頭をさらに深く、床に額を擦り付けて何度も何度も詫び、そして願った。
根負けしたシルヴェストルが
「一度だけだぞ」
と、言い残して去って行った。
「ありがとうございます!」
と、大きく礼を言い、ディオンの部屋へ向かった。
向かい慣れたこの廊下が最後かと思うと涙が出てくる。換気のために解放された窓からはオルフェーシェチ湾から吹く風が冷たく、ディオンは暖かくしているだろうかと心配になり、足取りは一層速くなる。
ディオンの部屋の扉の前に立つと、係が扉を開けた。
こつこつと、テランスの靴音だけが響く。いつもなら南向きのベッドにディオンはいるはず。そこへ足を運ぶと、天蓋が張られており、薄いカーテンの中にうっすらと人影が見える。そっとカーテンを開き、中へ入ると未だ目を閉じたままのディオンがベッドに横たわっていた。
すぅすぅと寝息を立てるディオンをしばらく見つめると、ふと、子供の頃に読んだ御伽噺を思い出した。
王子は薔薇を剣で断ち切り、呪われた城へ向かう。そこには美しい姫が眠り続けている。彼女に口づけをすると、姫の頬は紅に染まり、見開いた瞳は紺碧で、王子を見つめ、二人は恋に落ちる。そんな話。
「私も、貴方の琥珀色の瞳をもう一度…」
テランスはディオンの手を取り、膝をつき、そっと唇に口づけをし、ディオンの手に額を充てた。
「…流石に御伽噺のようにはなりませんね…。
ディオン様。最後なので申し上げます。私は、貴方をずっと好きでした。好きと言ってもおかしな事に、女性を好きになるような感情を抱いてしまいました。いつの頃からかはわかりません。その気持ちにしっかり気づいてしまった時にはもう戻れなくて…。
でも、それはとても間違ったことで…、貴方はザンブレク皇国の皇子で、私はただの従者です。許されないし、第一こんな事を知ったら貴方は私を軽蔑するでしょう…。前と一緒ではいられなくなる。だから、この事は誰にも伝えず死ぬまで心の奥に仕舞って、私が死んだ時に一緒に墓場に埋めようと思いました。
…こんな感情を抱いてしまった私ですから、貴方のお側を離れるには丁度良かったのかもしれませんね…」
「伝わってしまったではないか…」
頭の上から声がする。顔を上げると、琥珀色の瞳が二つ。こちらを見つめていた。驚きのあまりディオンから手を離すと、それを拒絶するかのようにディオンのほうから手を繋ぎ直した。
「軽蔑は、しない…」
震えるテランスの手をもう一度強く握り直し、
「其方の声がしたんだ。ずっと何かを語っていて、耳を傾けると其方が心の内を語っていた。
意外だったが、嬉しく思ったよ」
「目覚められたばかりで意味がわからないようでおられる…」
少し皮肉った自虐的な笑を浮かべたテランスに
「わかっているさ」
ディオンが割って入る。
「その優しいお言葉で充分です。有難うございます。でも、これで最後です」
自分の気持ちを軽蔑せずに許容してくれた主人に更迭されたことを伝える。
「誰が其方を離すか」
ディオンは少し笑うと、
「其方のおかげで目覚めた余が、其方を従者として引き続き迎えるのだ。誰にも文句は言わせない。父上にも」
「いけません…。このままでは私はもう、昔の私には戻れない…。貴方様に昔のようにお仕えできない」
「余は構わない。それでいい。その程度のことで其方が余の前からいなくなってしまう方が辛い…。これからも、側にいてはくれないか?」
ディオンはにこりと笑い、テランスの頬に手を充てる。
「良いのですか…?」
「しつこいぞ。もう言うな」
ディオンはテランスの瞳から溢れる涙をその手に受けた。