戻る 第61回お題【子ども】
肩を揺らす。前に抱えたややこをあやす、母の背中。
何日ぶりかの自宅。雲取山ではない、竈門炭治郎の新しい帰る家——日柱邸。
妹も人間に戻った。あとは鬼を総て滅するのみ。鬼の始祖を、仇を、倒すのみ。
それがどうして、こんなにも遠くに来たのだろうと思う。
血をたくさん浴びて、鉄の匂いに包まれて、自分よりもずうっと年下の若い隊士を何人も見送って、それでも鬼はいなくならない。
心がすり減って、悲しみと怒りが憎しみに変わって募る。
それがよくない兆候であることに気づいていたけれど、自分が足を止めればまた人が死ぬ。
そんなふうに、がむしゃらに戦っていたらいつの間にか、半年経っていたらしい。
鴉に呼ばれた柱合会議を終えて、帰宅した。そう、帰宅。日柱邸へ、竈門炭治郎は帰ってきた。
「おかえり」
揺れる肩越しに振り返る。金の髪がさらりとその肩から落ちた。
飴色の瞳がやわく細められて、白い手が伸びてくる。
炭治郎の髪を撫でて、頬に滑り落ちてきた。
「おかえり、炭治郎」
「……ただいま……」
心から何かが抜け落ちるような——ささくれ立っていたものが凪ぐような声に目を閉じて、その手に手を重ねた。
「ほら、ずいぶん大きくなったでしょう?」
「ああ、うん……うん」
金の髪の同期。そして、竈門炭治郎の妻、善逸の腕の中の子を見下ろす。
確かに最後に見たのは、胎から出て間もない、小さな生き物だった。
それがどうだろう、半年でこんなにぷくぷく大きくなる。すごいなぁ、と独りごちた。
「……だいぶ参ってるね」
「たくさん死んでしまった……」
「そうかな? 俺はそうは思わんよ。お前が頑張って走って頚を斬った分、たくさんの命が救われたと思う。ほら、まずはお風呂に入っておいでよ」
「……っ、ああ」
手を離し、家の中に声をかけて縁側から入る。
すぐに禰󠄀豆子の声がして、「おかえり」と微笑まれる。
「ただいま……」
「お風呂にする? ご飯にする?」
「風呂を」
「わかった。それじゃあ先に着替えちゃって。すぐ沸かすから」
「……ああ」
長い時間留守にして、さぞや心配をかけただろう。苦労をかけただろう。
人間に戻っても、大きくなった屋敷を切り盛りして、大変だろう。
いくら善逸が側にいるからと言っても、雲取山の家の三軒分はあるお屋敷を任せてしまって申し訳ない。
フラフラしながら部屋着に着替え、床の間に座り込む。
なにも考えず、ただぼーっと。
「お兄ちゃん、お風呂沸いたよ」
「ああ」
禰󠄀豆子の声に、立ち上がる。風呂場へ向かう、渡り廊下からまた縁側の庭が見えた。
善逸はそこに立ち、また子守唄を歌いながら体を揺らしている。
子が眠らないのだろう。
情けない、自分の子だというのに。自分が彼女とともに育てなければいけないのに。
(どうしてなにも感じないのだろう……)
半年も離れていたせいだろうか?
自分の子の認識が薄いのだろうか?
いや、炭治郎は長男だ。たとえ血の繋がりがなくっても、我が子のように慈しむ自信がある。
それなのに、なぜ?
「お兄ちゃん、褌の替え、置いておくからちゃんと新しいの履いてねー」
「ああ」
以前、選択済みのものでなく、脱ぎたての褌を履いて後から着替えたことがある。
禰󠄀豆子はそれを覚えていて、炭治郎が風呂に入る時必ず忠意するのだ。
脱衣所で新しいものと、今脱いだものを見比べる。
脱いだものを、わざと畳まずにそのまま床の籠に入れた。これならば間違わないだろう、と。
体と頭を洗い、湯に浸かり、天井を見上げて息を吐いた。
ここでもなにかが抜けていく感覚。
抜けていくのは疲れだろう。目を閉じると寝てしまいそうだ。
「んん……」
しかし、このまま寝たら死ぬ。湯船に顔が浸かって、水死体になってしまう。
縁に腕を組んで顔を埋める。目を閉じると、一気に眠気が襲ってきた。もしかしたら、炭治郎も気づかぬうちに、少しだけ眠ってしまったかもしれない。
「日柱様、お背中をお流しいたしましょうか」
「! 大丈夫です」
脱衣所から人の声がして、慌てて顔を上げた。隠が来ていたらしい。
体も十分に温まったので、湯から出る。
禰󠄀豆子に用意してもらった着流しに着替えて、脱衣所を出るといい匂いがした。
(松茸だ)
懐かしい。刀鍛冶の里で甘露寺蜜璃がものすごい量をお代わりしていたっけ。
茶の間に行くと、禰󠄀豆子が炊き立ての松茸ご飯を茶碗によそいでいた。
「はい、お兄ちゃん」
「ああ……善逸は?」
「今日はお布団で寝ない日みたい。でも、お兄ちゃんと一緒なら寝るかもね」
「そうか……」
ぼんやりと、食事を摂る。一口目、松茸ご飯を口に入れたら、口の中からほぐれていく。温まった体に、染み入る。
「美味いな」
「よかった。おかわりたくさんあるからね」
「ああ」
たくさん食べて、軽く酒を一杯だけ。
そうすると、一気に眠気が襲ってくる。
床の間に布団は敷いてあるし、心身共に限界を感じた。
後片付けをすべて禰󠄀豆子と隠に任せ、布団の上に倒れるように横たわる。一気に力が抜けて、意識が遠のく。
「おやすみ、たんじろう」
「あー」
優しい声に、無理やり片目をあげる。
愛してやまない、炭治郎の唯一無二が微笑みながら見下ろしていた。
手を伸ばして、腰に腕を回す。
「もう、たまに赤ちゃんみたいなやつ。いいよ、一緒に寝よ。三人でね」
「あぶぶぶぶ」
いったいどんな躾をしたのだろう。
ややこを真ん中に、炭治郎の隣に横になる善逸。
「ぜんいつ」
「うん」
「ぜんいつ……ぜんいつ、ぜんいつ……」
「うん、いるよ。ここにいる」
子を挟んで、抱き合う。甘い乳の匂い。赤子特有の、甘い母乳の匂いだ。
その匂いを嗅ぎながら、炭治郎は眠った。泥のように。
夢も見ない。けれど、母の夢を見たような気がする。
いや、きっとこれは——。
「ねんねんころり、ねんころり、鬼の居ぬ間にねんころり。こわいはこない。こないこない」
涙が出る。善逸と、善逸と炭治郎のややこ。
炭治郎の家族。
血の匂いに奪われた、あの夜かららどれだけ経っただろうか。
「ぜんいつ、ぜん、いつ……」
「ここにいるよ」
炭治郎の家族。血の繋がった、炭治郎の。
「おはよう」
「おはよう」
目を覚ますと、善逸とややこが隣に寝ていた。
ややこは炭治郎の体温に安心したのか、その日初めて夜一度も起きなかったという。
「おかげで俺までしっかり寝られたよぅ」
「そうか、よかったな……」
「炭治郎は? 良き眠れた?」
髪を撫でられる。頰も、額も。愛おしいと、指先が伝えてくる。
涙が出た。
「善逸……」
「おやおや、でっかい赤ちゃんだねぇ。仕方ない、お姉さんが子守唄を歌ってあげようね。……そんで、もう少し帰ってくる頻度を増やしなさいな。今回はちょっと、頑張りすぎだよ」
「っ、うん、ごめん……ありがとう」
「あぶぶぶぶ」
ころん、と寝返りを打って、炭治郎の胸の中に転がってきたややこ。
炭治郎と善逸の子ども。
「あぶぅーぶぅ、ぶぶぶぅ」
「ほら、おかえり、だって」
「……ああ、ただいま」
妻と子を抱く。
炭治郎の新しい家族。この命の匂いを守るために、炭治郎は頑張りすぎた。
後悔はない。けれど、妻と妹、隠の人たちに丸投げにしてしまったようで申し訳ない。
「お兄ちゃん、善逸さん〜。起きたならご飯運ぶ?」
「ううんー、着替えてそっちに行くよー」
「善逸」
「んー?」
「ありがとう」
「……どういたしましてー」
頭を抱かれて、自分は生き延びたのだと、ようやく実感を持てた。
伸ばした髪を引っ張るややこも、感慨深く抱き締めた。
竈門炭治郎は柱だ。
継いだ炎を心に宿して、家族を、抱く。