カズピョンの浮気(仮題) 自分の恋人が見知らぬ男と親しげに寄り添いあって歩いていた。しかもその相手が信じられないくらいのイケメンだった—―と言って、うちの常連客は大げさに泣き崩れた。
「浮気ってこと? カズピョンに限ってそんなことないと思うけど」
「俺だって疑ってるわけじゃないんですよイチノさん。でも実際に見たんです。すっげぇカッコイイ人と一成さんが、めちゃくちゃ仲良さそうに笑いながら歩いてるところ……!」
そう叫んでぐすぐすと鼻を啜る沢北を見て、俺はひとつため息をついた。
数年前からうちの店に通うようになった沢北栄治というこの男は、まさに彗星のように夜の街に現れた。
背が高く、顔が良く、声も身体も良く、初めて来た時からその存在感は周囲を圧倒していた。モデルか芸能人かと噂されていたが、ただの新卒サラリーマンだったというのだから驚きだ。外見の良さだけでなく、性格も愛嬌があって明るくコミュ力もあるとくれば、モテない理由などなかった。誰もが沢北の恋人になりたがったが、意外なことにその想いを遂げられた人間は一人もいなかった。
この数年、後腐れのない関係だとか、手軽な付き合いみたいなものはあったみたいだけど、誰も沢北の『本命』にはなれなかった。
一体これまでに何人を失恋させてきたのかは知らないが、無邪気な顔で「恋愛したいな~」だとか「好きな人がほしいんですよね」などと言ってのける沢北は、自分が残酷な男だという自覚もないのだろう。
しかし最近、そんな沢北の心を射止める人物がついに現れた。ある夜突然ふらりとこの店にやってきた彼の名は深津一成、俺がカズピョンという愛称で呼ぶその男もまた、沢北同様この界隈でモテまくりそうな予兆はあった。ぽってりした唇にやや重たげな目元、鍛えられた体と長身にアンニュイな雰囲気のアンバランスさが絶妙で、沢北とはタイプが違うが彼もまた人気が出そうだな、と思ったのもつかの間、出会ったその日のうちにすぐさま沢北が掻っ攫っていった。その手腕ときたら何年も本命を作らずのらりくらりとしていた男とは思えぬ電光石火だった。そのため俺たちは残念ながらカズピョンのモテ無双を目にすることはなかったが、無事に恋人として交際を始めたその後も、彼らは二人してよくうちの店に通ってきてくれている。
そういえば少し前のことだが、この業界の大先輩で俺がいつもお世話になっているゴローママのバーにカズピョンを連れて行ったことがある。うち以外のゲイバーに行ったことがないというカズピョンはドレス姿のママや姉さんたちに最初こそ少し驚いた様子だったが、基本的には図太い性格なのですぐに馴染んでいた。
「あれはとんでもない魔性よ。こういうおぼこが一番怖いのよ」
とは、カズピョンを見たゴローママの言葉だ。
「気付かないうちに沼に引きずり込むのよね、こういう子は」
「酷いピョン、人を妖怪みたいに」
「でも栄ちゃんって顔はいいけど調子こいてるところがあるから、お似合いなんじゃないかしら」
「それは否定できないピョン」
一応彼氏なんだから否定してやれよと少し思ったが、まぁ事実なので俺も黙っておいた。
沢北と付き合っているとはいえ、たしかに今でもカズピョンはモテる。筋肉がしっかりついた体は逞しく、憂いを帯びた表情や、物静かであまり喋らないかと思えば語尾にピョンがつく不思議ちゃんキャラを出してきたり、ママの言う通り「沼」にハマるように人を惹きつける。けれど彼は決して不誠実な人間ではない。それはこれまでの付き合いで分かってきた。
モテるからといって火遊びするようなこともないし、何より浮気する必要もないくらい沢北とは上手くいっているように見えた。あの二人はこっちが胸焼けするくらいのラブラブバカップルとしてこのあたりじゃすっかり有名だ。
そんなカズピョンが見知らぬ男と二人で歩いていた。しかも親しげに、心を開いて安心しきったように笑顔を見せていた――というのだから事態は穏やかではない。
バーのマスターなんて仕事をしていれば修羅場なんてこれまでに飽きるくらい見てきた。浮気騒動だと思っていたら、とっくに『浮気』じゃなく『本気』だった、なんてこともよくある話だ。
しかし浮気の心配もないほどのバカップルに青天の霹靂、しかも相手はこのモテ男が「俺よりずっとかっこよかった」と言って泣き崩れるほどのイケメンと来ている。一体どんな男なのか、好奇心が湧かないと言えば嘘になる。
「その相手ってどんな感じだったの? イケメンってつまり、お前みたいなタイプってこと?」
「遠目に見ただけなんで顔とかはあんまりよく分かんなくて……バケハかぶってサングラスもしてたし……」
「なにそれ、ほとんど顔わかんないじゃん」
「でもオーラがすごかったんすよ! 背もすっげぇ高くて、一成さんと並ぶとバランス良くて、めっちゃ鍛えてるイイ体してて、溢れ出るイケメンオーラっていうか」
沢北の言っていることはどうにも要領を得ない。それじゃ相手の特定なんて無理だと俺が呆れていると、沢北はハァ、と一つ大きく息を吐いてグラスをテーブルの上に置いた。
「絶対認めたくないし、悔しいけど……、似合ってたんです。一成さんとその人が並んで歩くのが。こんな人に横取りされたら、俺、敵わねぇじゃんって、だから悲しくなっちゃって……」
震える声でそう呟いて唇を噛むと、沢北は次の瞬間ぼろりと大粒の涙を流した。イケメンの泣き顔はすごい。まさに恋愛ドラマのワンシーンだ。涙がダイヤモンドのようとはこういうのを指すのだろう。キラッキラのエフェクトが掛かっているかのように沢北の瞳が輝き、涙を湛えた長いまつげが揺れるたびにあたりに星が舞う。
切ない恋に胸を痛めるその様子に、店内に居合わせた他のお客さんまでもらい泣きする始末だ。
「エイジくん、諦めちゃだめだよ! 俺はきみを応援するよ!」
「彼氏さんっていつもいっしょにいるピョンの子でしょ? 見かけたら見張ってあげる!」
予想以上の大騒動が始まりそうな予感に、俺は頭を抱えた。
スポーツブランドのTシャツにゆるめのデニム、スニーカー、黒いバケットハットにサングラスという出で立ちの謎のイケメン。沢北の目撃証言から得られた情報はそれだけだ。
「同じファッションの男が東京に何人いると思ってんの?」
「それはそうなんすけど……」
いつものバーの営業時間より数時間前、悩める沢北のため早めに店を開けてやり、まだ誰もいない店内で俺たちの作戦会議が始まった。謎のイケメンを特定するためまずは手がかりを集めることにしたのだが、何にせよ情報が少ない。
「背は高かったって言ってたっけ? もしかしてさ、カズピョンとの身長差からそいつの背丈を割り出すことが出来るんじゃない?」
俺がそう言うと沢北はテーブルを叩いて「すげぇ! 名探偵じゃないっすか!」と叫んだ。
「ええっと……一成さんがこのくらいだとして、大体このくらいの背だったかな……? 肩幅もすげぇ広かったんですよね」
沢北はスーツの胸ポケットから自分の名刺を取り出し、その余白に人の形のシルエットを描き始めた。お世辞にも上手いとは言い難いが、辛うじてサイズ感は伝わる絵だ。
「いやいや、かなりデカくない? カズピョンより頭一個分くらいデカいってことだよね。そもそもカズピョンも180cm以上なかったっけ」
「一成さんは180ちょうどっすね」
ボールペンをカチカチと鳴らしながら沢北が言い、俺は再び名刺に描かれたいびつな人影に目を向けた。
「もしかして外国人だったりしない? それかスポーツ選手とか。カズピョンって何の仕事してんだっけ?」
「一成さんはフリーランスのライターです。基本的に在宅で仕事してます。専門分野は工業技術系だからスポーツ選手との接点なんてありそうにないけど……」
「へ~、なんか意外な仕事してんだね。全然知らなかった」
俺たちが話していると、カラカラとドアベルが鳴って店の扉が開いた。
「あれ? まだオープン前じゃ……」
慌てたように顔を上げた沢北は、ドアを開けた人物を見ると目を丸くした。
「松本さん?!」
「稔お疲れ。わざわざありがとね」
稔は俺の言葉に軽く手を上げ、俺たちが顔を突き合わせているカウンター席へやって来た。
「えっ、このために来てくれたんですか?」
「聡に頼まれたからな。でも解決できるかどうかは分からないぞ? あんまり期待しないでくれよ」
稔はそう答えると、スーツのネクタイを緩めながらやれやれ、といった表情でスツールに座った。
「俺が呼んでおいたの。弁護士なら浮気とか不倫とか詳しいんじゃないかなって思ってさ」
「そういう案件もあるけど別に詳しいわけじゃ……守秘義務もあるし役に立てるかどうか」
「松本さん~! マジありがとうございます!」
稔の言葉を遮るように沢北が大きな声を上げた。こういう素直さが沢北の憎めないところだ。俺と目が合うと、稔は困ったように笑いながら両手を上げて降参のポーズをしてみせた。
「まあ一般論としてさ、普段と違う行動があったらクロじゃない?」
稔も加わり、作戦会議の再開だ。視点を変え、俺たちはカズピョンの当日の行動を振り返ってみることにした。
「確実に黒とは言い難いが……グレーではあるだろうな」
俺の言葉に稔も頷く。弁護士という職業柄、稔の言葉には信憑性がある。沢北はますます神妙な顔になって腕組みをした。
「栄治くんが二人を見かけたのはいつなんだ?」
「先週の火曜日の昼間っす。営業で外に出てて、お客さんのオフィスが新宿にあったからたまたまこのへんに来たんです。一成さんがこんな時間に出歩くことってあんまりないから、最初は見間違いかもって思ったんですけど……」
謎のイケメンと並んで歩くカズピョンの姿を思い出しているのか、沢北は暗い顔で俯いた。傷心のところ可哀想だけれど、カズピョンの行動はかなり疑わしい。
「もしかしたらその相手と定期的に会ってるのかもね。主婦の不倫は平日の昼間に多いっていうし」
「ふ……不倫……!?」
ガーンという効果音がつきそうな表情で沢北が叫ぶ。稔は気の毒そうな顔をしながらも、ごく冷静に口を開いた。
「平日はいつも仕事だっていう先入観があるから、栄治くんもこれまで一成くんの行動を確認しようとはしなかった。いわば平日昼の一成くんはノーマークだったわけだろ? ひとまずストレートに聞いてみたらいいんじゃないか? 今日は何してる? って」
「そんなこと聞いてどうするのさ。浮気の予定を正直に話す奴なんかいないでしょ」
「いや、そうでもないぞ」
俺が口を挟むと、稔は真剣な顔でそう言った。
「100パーセントの嘘は案外バレやすい」
「つまり、どういうこと?」
「真実の中に混じった数パーセントの嘘の方がバレにくいんだ。だからたとえば、妻側の不倫でよくある言い訳だと『友達に会う』と言って出かけるとか」
稔はそう言って人差し指を立てた。沢北は固唾を飲んで稔の言葉に耳を傾けている。
「そうか、『人と会う』のは本当だけど、その相手は『友達』じゃないってことね。たしかに『その日はずっと家にいた』って嘘をつくより、後からボロが出なさそう」
俺がそう言うと稔は「その通り」と言って小さく笑った。
「な、なるほど……」
ため息のような声をもらして沢北が頷く。時計を見ればバーの営業時間が近付いていた。今日の作戦会議はそろそろお開きだろう。俺は冷蔵庫から冷えたグラスを取り出し、カウンターの二人にそれぞれビールを注いだ。
「稔は俺のおごりね」
「ん、サンキューな」
「オレに奢らせてください。松本さんもイチノさんもありがとうございます」
お礼を言って頭を下げる沢北の表情はやはり暗い。笑顔を取り繕っているが、その目が悲しげに歪んでいる。
「あのさ、沢北は本当にいいの?」
俺が尋ねると沢北は手の中のグラスから顔を上げた。
「いいって……何が?」
「本当にカズピョンが浮気してたら、沢北はどうすんのってこと。別れる覚悟がある? それとも許す? もしかしたら知らない方が幸せってこともあるかもよ」
今の段階で沢北はカズピョンから別れを切り出されたわけでもない。何が正しいか、正しくないか、恋愛っていうのはその二択で決まるものじゃないし、きれいごとでは語れない。相手の浮気に気付いたとしたって、見て見ぬふりをしたほうが丸く収まることもいくらでもある。
「……まだわかんないっす、正直。その時が来てみないと」
沢北は考え込むように俯いて、それから噛み締めるように呟いた。
「でも、本当のことが知りたいんです」
強い視線で真っ直ぐに沢北が顔を上げる。ふと横を見るとその隣に座る稔も「仕方ないな」とでも言いたげな顔で頷いていた。人のこと振り回してばっかりのお騒がせなイケメンだけど、やっぱり沢北栄治はどこか憎めない。
「わかった、じゃあこれからも協力するよ」
こうして第二回の作戦会議に向け、引き続き俺たちの調査は続けられることとなった。
つづく