恋(したごころ)と愛(まごころ)は紙一重「ッしゃあ! 俺の勝ちだ!!」
思わず、ゲームのコントローラーを投げ出してまで、両手で万歳をしていた。
一人暮らしの狭い1Kのフローリングに、コントローラーが落ちる。そのゴンッという鈍い音で、はたと我に返った。
今日は五月十五日。記念すべき、二十七歳一日目だった。そんな日に、社会人としてあまりにも幼い行動を取ってしまった。羞恥心で、顔から火が出そうだ。
やっちまった、と両手を挙げたまま硬直していると、隣から「ぶはっ」と吹き出す声が聞こえた。
「な、なんだよ……俺の勝ちに何か文句でもあるのか?」
笑われるようなことをしたのは自分だが、それでもやはり、笑われると反発心が湧く。コントローラーのコードを引っ張って手元に回収しながら、刺々しい視線を隣に向けた。
ぶくく、とまだ笑っている口元に拳を当てた少年——帝統くんが、揃いのコントローラーを手にこっちを見る。制服の白シャツの胸元に、アシンメトリーに伸ばされた後ろ髪と、サイコロチャームの髪飾りが垂らされていた。
「いや、さっきまで『クソが』とか『ざけんな』とかスゲェ柄悪かったのに、勝った途端、そんな声出すんだと思って」
「ま、負け続きだった相手に勝てたら誰だってはしゃぐだろ!」
自省したそばから、年甲斐もない反応をしてしまう。テレビはリザルト画面のまま、陽気なBGMを垂れ流し続けていた。
居た堪れなくて、目の前のローテーブルに置いていたウーロン茶のグラスに手を伸ばす。飲んでも飲んでも、羞恥の熱は下がらなかった。ワイシャツを、第二ボタンまで開ける。
笑いすぎてにじんだらしい涙を拭って、帝統くんも彼の前にあったグラスに口をつけた。
「……俺、そんなに変な声してた?」
「してたぜ。ッシャ、オレノカチダッ——って」
やけに甲高いその声は、九官鳥だかインコだか、潰される瞬間のカエルだかの物真似だと言われた方がしっくりくる。
「それは嘘だろ、絶対違う。じゃなけりゃ、君の物真似が下手すぎる」
「ハア? んなわけねーし、俺の物真似は先輩譲りなんだ。ピカイチに決まってんだろ」
「ピカイチぃ? 今ので?」
「あ、馬鹿にしてやがんな。見てろよ、俺の実力見せてやっから!」
そこから始まった彼の物真似劇場は、彼の通う高校の教師たちが題材だった。それは絶妙に下手くそで、でも妙に特徴を掴んでもいて、誰の真似なのかは不思議と察せるものだった。
去年の六月に行われた、彼の高校での教育実習の日々が、脳裏に浮かんでは消えていく。
似ていない彼の物真似に笑って、ツッコミを入れて、さらにツッコミ返されて。そんなことをしていたら、俺の目にまで涙がにじんでしまった。
「はー……こんなに笑ったのいつぶりだろ」
「何かあったのか? 忙しかったとか?」
「……まあね」
「ふーん、そっか。やっぱ、センセーって忙しいんだな」
何気ない彼の一言に、胸を抉られる。言おうか、言うまいか。逡巡したのは、ほんの数秒だった。
「……俺、センセーにはなってないよ」
「へ?」
「落ちたんだ。採用試験」
再びテーブルのグラスに手を伸ばして、その中身で喉を潤す。俺の横顔に彼の視線が刺さるのを感じながら、ウーロン茶に目を落とした。
「まあ、面接でボロボロだった自覚はあるし、やっぱり無理だったんだよ。俺みたいな、根暗で要領も悪い愚図が——それも、仕事しながらの試験対策だけで、学校の先生になろうだなんて」
ごく、ごく、とウーロン茶を飲み干していく音だけが、虚ろな明るいゲーム音楽に混ざり込む。
やっぱり、言わないほうがよかったかな。でも、彼には聞いてほしくなってしまった。いつでも、真っ直ぐにこっちを見てくれる彼には。
なんて、十歳近く年下の相手に、それも去年の教育実習で知り合って約一年ぶりに再会しただけの相手に、何を甘えているのだか。そんなんだから、採用試験にも落ちるのだ。
そんな幼稚な自己嫌悪に陥っていると、それまで黙り込んでいた帝統くんがぽつりと呟いた。
「……諦めんの?」
静かなその一言が、胸に刺さる。けれどそれは、肉を抉るというよりも、その穴で、すうっと風の通りをよくしてくれるものだった。
明後日の方向へ逃げていた目を、彼に向け直す。あどけなさが残る彼の、意志の強い、あの紫の瞳が見たかった。
けれど今度は、彼の方が視線を床へ落としていた。軽くまくり上げられた制服のシャツから覗く手が、彼の髪飾りのサイコロを、ちゃり、ちゃり、と鳴らす。
「俺は、あんたみたいな奴がガッコーにいたら、毎日面白いだろうなと思ったけどな」
どこか、拗ねた子どものような、さみしさを含む声に聞こえた。彼のその一言が、胸にぽっかりと空いていた空洞に、幾重にも反響する。
「あ……」
「なんて、あと一年も学校にいねぇ奴に言われてもしゃーねぇよな」
パッとこっちを向いた帝統くんは、さっき見せた表情が嘘のように明るい顔をしていた。俺が、採用試験の話を持ち出す前と同じだ。
彼が、この部屋の空気をそこに戻したがっているのを察して、俺も口元に笑みを浮かべた。
「本当に、一年でいなくなれるのか?」
「どういう意味だよ」
「国語、大の苦手なんだろ。夢野くんがいなくて、留年するんじゃないか」
「なっ……しねぇわ、馬鹿にすんな!」
そのやりとりを皮切りに、鳴りっぱなしのゲーム音楽にふさわしい部屋に戻る。
「でも、ホントに卒業したんだよな。夢野くんも、飴村くんも。……さみしい?」
俺は、先輩とそんなに仲良くなったことがないから、わからないんだけど。
そう付け足すと、帝統くんは束の間、思考を巡らすように軽く頬を掻いてから「まあな」と肯定した。
「実はさ、今日あんたに声かけたのも、それがあったからなんだ」
首を傾げて先を促せば、帝統くんは三角に立てた膝を抱えてこっちを見上げた。
「大学とか専門学校とか、まだ始まったばっかで二人とも忙しそうでさ。連絡とかもほとんど取ってなくて……そんなときに、あんたがゲーム売り場から出てきたのを見かけて」
「懐かしさから、遊び相手に抜擢したと」
「そーいうこと」
さみしさを溶かし込んでいた笑みに、にか、といたずら好きの子どもっぽさが上塗りされる。
「下心からのナンパだったのか」
「他に何かあると思ったか?」
「いや……、それに、俺も似たようなもんだしな」
今度は、向こうが首を傾げた。
「言ったろ、試験に落ちたって。それから、まあ、それなりに落ち込むこともあって……そこに、君が現れたから」
彼に笑みを向ける。
どうか、この表情に表れているものが、さっき彼が見せてくれた、いたずら心に近いものでありますように。彼に対して伏せている、もう一つの下心が透けていませんように。
そう祈りながら、一年前の数週間を思い返していく。
今も地獄だけど、あの日々も地獄だった。毎日毎日、朝から晩まで働き詰めで、誰かからどやされる。そんな生活が嫌で公職を——教育の場を目指して飛び込んだのに、結局そこも地獄には変わりなかった。
ろくな指導も助言もせず、語彙だけは豊富に俺をこき下ろし、詰り続けた担当教師。学校外のどこかに訴えるとか、そんな大それたことができる人間ではないと見抜いて、俺のSOSを握り潰した、事なかれ主義の頼りない校長。表で裏で、俺を笑いものにしていた一部の生徒。
自分が自分である限り、居心地のいい場所なんてこの社会には存在しないのだと、思い知らされた。
「あの教育実習中は辛いことの方が多かったけど、君と……君たちと話しているときは、本当に楽しかったから」
綺羅星のようだった彼らがいなければ、採用試験への挑戦すらやめていただろう。
彼らは俺をおもちゃにはしたけれど、それは決して不快感を呼ぶ類のものではなかった。あまりにも真っ直ぐに楽しさへ向かっていく彼らの姿は、沈みまくる一方だった俺をも引き上げてくれた。
「そのときの気持ちを、また味わいたいなって」
過去を見ていた視線を帝統くんに戻せば、宝石のような紫の瞳を、きょとりと丸くしていた。
部屋の照明を受け止めるその煌めきは、本当に綺麗だ。学校のグラウンドで、校舎の窓辺で、太陽の光を浴びているときが、一等綺麗だったけれど。人工の光の中でも、彼の輝きは決して衰えなかった。
帝統くんはしばらく呆けたあと、ぽかりと開けたその口から「なんだ」と小さくこぼした。
「そんな、似たようなこと考えてたのか、俺ら」
「みたいだね」
「はは、マジか。ヤバくね? ウケんだけど」
「シンクロ率すごいね」
「なんか、そう言われっと気持ちわりぃな」
「ひどくないか!?」
思わず抗議の声を上げると、帝統くんはまた、けらけらと笑った。
そんな彼に「まったく」と言葉だけは不満を見せて、壁の時計に目を向ける。いつの間にか、夜の七時を過ぎていた。
「ごめん、遅くなっちゃったね」
「別にいいよ。部活やってる日なら、いつもこれくらいになるし」
部活。陸上部だったか。
彼の走る姿は、教育実習中に何度か見かけた。そのフォームは、風を切るというよりも、風と一体となるような、そんな清々しい軽やかさだったと記憶している。
「そうなのか? けど、今日はオフの日なんだろ。家の人が心配——」
「ねーよ。部活がオフかどうかなんて、気にもしてねぇだろうし」
そう言う彼の声からは、ふっと温度感が消えていた。冷えきっているというほどではない。冷たくも温かくもない、硬質で透明な、ガラスを思わせる響きだった。
言葉を連ねようとして、やめた。「そうか」と一言返すだけに留めて、ゲーム機の電源を落とす。
「駅まで送ってくよ」
「ん」
通学用のスポーツリュックを肩にかける帝統くんと玄関に向かいながら、話題を少し前のものに戻した。
「そういえば、今日君を誘った理由、もう一つあるんだ」
「へえ?」
二人で玄関を出て、アパートの鍵を閉める。錆びついた外階段を下りて、二人並んで駅へ向かった。
「今日買ったあのゲーム、実は俺の誕生日祝いを兼ねててさ。明日、友人とプレイする約束になってるから、その前に練習しておきたかったんだよね」
「あー、そりゃ正解だな。最初、ヤバいくらい下手だったし」
「ヤバいくらいは余計だ」
「いーや、正真正銘ヤバかったろ」
「そんなことない!」
ムキになって言い返すと、帝統くんがまた声をあげて笑う。
「つーか、独歩サン、明日誕生日なんだな」
「いや? 誕生日は今日だけど」
「は?」
ぴた、と帝統くんの足が止まった。
「え……だって明日、誕生祝いすんだろ?」
「友人とはね。今日はあいつの……向こうの都合がつかなくてな」
帝統くんが、あんぐりと口を開けたまま固まっている。「おーい?」と目の前で何度か手を振ると、ようやく彼が我に返った。
「お前、そういうことは先に言っとけよな!」
「え、ああ、うん、ごめん?」
誕生日を言わなかったことで怒られるとは思わず、反射的に謝る。
そんな俺の隣で、帝統くんはチェック柄の入った制服のズボンやリュックのポケットを漁りだした。ややあって「あった!」という声と共に、帝統くんが表情を輝かせる。
「ほら、これやるよ誕生祝い——」
彼につままれ、カサ、と乾いた音を立てて取り出されたのは一口サイズのチョコ——の包み紙だった。
それに気づいた帝統くんが、俺以上に目を丸くして、その包み紙からこっちに目を向けてくる。
「中身は!?」
「いや、俺に聞かれても」
「あ! 校門出たとこで食っちまったんだった……わりぃ」
帝統くんが肩を落とすので、ギョッとして飛び上がりそうになった。まさか彼が、自分のような、一年前に何週間か学校で顔を合わせただけの人間のために、そこまで気落ちするなんて。
「気にしないでくれ。正直、俺みたいな奴にそこまでしようって思ってくれただけでもありがたいから」
「お前、すぐそうやって『俺みたいな』とか言うよな」
しゅんとしていた帝統くんが、不機嫌そうに声を尖らせる。
「一緒にいて楽しい奴の誕生日に何かやりてぇって、そう思うのは特別なことでも何でもねぇだろ」
その瞬間、思考が止まっていた。
彼は今、何て言った。一緒にいて、楽しい? 誰が、誰といて?
そうして固まっていたら、帝統くんが「オイって!」と声を荒らげてきた。
「へ、あ、ごめん、何?」
「スマホ! 持ってねぇのかよ」
いつの間に取り出したのか、彼の手にスマートフォンが握られている。
「連絡先教えろよ。絶対リベンジしてやる」
れん、らく、さき。
いよいよもって、思考が消滅した。自分は本当に、彼に向けるこの下心を隠しきれたのだろうか。ダダ漏れていたのではないか。いや、もしそうなら逆に警戒されているか。
「オイ、何ぼーっとしてんだよ」
「え……あ、ハイすみません今すぐに!」
靴先で足を小突かれて、慌ててポケットから携帯電話を取り出す。といってもスマートフォンではない。折り畳み式の、古式ゆかしいガラケーだ。
「……何だそれ」
「何って……ケータイ」
帝統くんは、信じられないという顔で「これは使えるか」と超有名なメッセージアプリの名前を挙げてきた。当然、そんなものはないので首を横に振る。
「どうやって連絡取ってんだよ……」
「そりゃ、メールか電話だけど」
絶句。
そうして数秒放心していた帝統くんが、ケータイ貸せ、と手を出してくる。
二つ折りの携帯電話を開いてその手のひらに乗せると、彼はさっさと何事かを打ち込み始めた。帝統くんが操作すると同時に、彼のスマートフォンが着信を知らせる。
帝統くんはその着信をすぐに切ると、俺に携帯を返してきた。
「今発信させたの、俺の番号な。あとで、ちゃんと登録しとけよ」
さっきから、驚きが次々と上乗せされて処理が追いつかない。
「……どうして、そこまで」
呆けたように問い返すしかできなかった俺に、彼は負けん気の強さを覗かせて、にっと笑った。
「そうしねぇと俺の気が済まねぇから!」
晴れて俺と連絡先を交換した彼は、もうここまででいいと見送りを断って、駅に向かって駆け出した。陸上部で鍛えられた走りは、あっという間に彼の背中を遠ざからせていく。
だから、走り去る彼がどんな顔をしていたのか、俺は知らない。連絡先の増えたスマートフォンを、彼がどんな気持ちで握り締めていたのかも。
俺はただ、手元の携帯電話に残る、自分のものではない体温に呆然としていた。
一年前、教育実習中に小さく芽吹いた彼への感情。もう二度と会うこともないと、目を背け、枯らせるしかなかったはずのその感情が、再び息を吹き返した瞬間だった。