きみのいるところ 両手でしっかりとコップを持って麦茶をぐいぐいと飲み干していく息子に、精市の母はくすくすと笑みをこぼした。
「やっぱり精市は芸術家だね」
この日、精市は母と一緒に、庭に設置する小さな椅子をこしらえるのに夢中だった。自分のと、歳の離れた妹のための二脚。肘掛けはなくて、背板がある、ごくシンプルな木製のガーデンチェアだ。ドリルでネジを入れるなど母に手伝ってもらったところもあったが、ほとんど自分で手がけた。
朝から作業を始め、お昼ごはんを食べ終えた後もすぐに庭へ飛び出した。妹とお昼寝しないかという母の提案に首を横に振り、焼きたてチーズケーキの甘い誘惑を断ち切って打ち込んだかいあって、ペンキの配合は大成功だ。ようやく納得いく色ができた。
精市は刷毛をぎゅっと握ると、晴れた空よりも爽やかで学校のプールよりも軽やかな水色を思うままに塗り広げていく。彼を突き動かすのは楽しいという単純で力強い感情だ。世界のどこまでだって塗り尽くしてしまえそうなほどの気力が六歳の子供の小さなからだにみなぎっていた。
あと少しで全部塗り終えるというところで、精市ははっとした。絵の具がこびりついた手の甲で額の汗を拭いながら母を呼ぶ。
「ねえー! おかあさーん、どうしよう!」
屋内からスリッパの音がして、次いで庭に面した窓が開き、母がひょいと顔を出す。
「どうしたの」
「これってさ、ゲンイチローくん来たときさ、大変なことになっちゃうよ」
「大変って?」
精市が何を言わんとしているのか母には飲み込めないらしく首を傾げている。もどかしくなって精市は言い募った。
「だってさ、これ、一人で座るお椅子でしょ。そしたら、ゲンイチローくん来たらどこに座ってもらったらいいの?」
ほとんど泣き出さんばかりの息子に母は困ったように、それでもおかしさをこらえきれない様子で言った。
「あなたたちって本当に仲良しなんだから」
ボクがこんなに心配してるのに、どうしておかあさんはわかってくれないんだろう。悲しくて、いらいらして、顔がくしゃくしゃに歪む。足をじたばたさせて暴れたい。でも、かっこ悪いからしない。そんなのお兄ちゃんのすることじゃない。息を吸って吐いて、なんとか噴火しそうなかんしゃくをなだめる。
「もう一つ作っちゃだめ?」
「そしたらお庭が狭くなっちゃうよ」
「いいよ」
「花壇も小ちゃくなるけどいいの?」
精市の心はシーソーのようにあっちとこっちで揺れた。大好きなお花。大切なお友達。唇をぎゅっと引き結び、しばらく黙って考えこんだ。
「……じゃあ、一緒に座るもん。ここの背もたれのところ、ゲンイチローくんの好きな色に塗るからね」
膨れっ面した彼の頭を母が優しい手つきでぽんぽんと撫でた。
「いいよ。その椅子は精市のものだから」
頬を膨らませながらも精市はてきぱきと余白を埋めていった。さらに妹のをひまわりみたいな黄色で塗り上げると、中へ入っておやつを食べてペンキが乾くのを待った。
その後しばらくは週明けに学校へ提出する漢字ドリルを進めていたが、どうしても椅子が気になったのでページを閉じてまた庭へ降りた。
人さし指の腹で椅子に触れてペンキの定着を確かめる。少ししっとりしていたけれど、上から重ねても大丈夫そうだ。そこで、きれいに洗って水気を拭き取った刷毛に、今度はたっぷりと黒色をまとわせる。精市の親友は黒が好きなのだ。
「シブいね」
もっともらしく感心してみせる精市に、ゲンイチローは、
「そうかな?」
と、ちょっぴり照れくさそうにはにかんでいた。
テニススクールでお迎えを待っている間のそんなひとときを思い出しながら、背もたれをどんどん塗っていく。
ゲンイチローくん、このお椅子を見たらどんなにびっくりするだろう!
「これ、幸村くんが作ったの……? すごいね!」
驚きで目をまんまるにした友達がこちらを振り返る。いつも不安そうにもじもじしている彼が顔いっぱいに笑顔を浮かべてくれたら、精市の胸は誇らしさでいっぱいになるだろう。そして二人は一つの椅子に腰を下ろすのだ。いつまでだって二人でおしゃべりをしよう、お母さんたちが呼びに来たってそんなの知らないって一緒にあっかんべーしちゃえばいいんだ。遠くない未来のことを考えるとうきうきした気分になって作業はずいぶん捗った。
ようやく精市が自分の仕事に満足した頃、頭上ではカラスが鳴いて、空はすっかりオレンジに染まっていた。家の中からおいしそうなにおいが漂ってきた。くんくんと嗅いでみる。晩ごはんはきっとバターソースのかかった魚だ。幸村は大慌てで道具を片付けた。
父が出張から帰ってくると、家族みんなで夕べの食卓につき、精市はフォークとナイフを動しながら、自分が今日どんなにがんばったかを話した。板を組み合わせるのはとても難しいこと、妹の椅子は会心の出来だということ、自分の椅子には友達の好きな色も塗ったこと、お母さんのケーキは疲れを吹き飛ばしてくれるほどおいしいこと……。
話が終わると、父が言った。
「お父さん、明日はお休みだから、ニスを塗ってあげよう」
「ニスってなあに?」
「そうだなあ。椅子をつやつやにして雨から守ってくれる塗料、かな」
それってなんて素敵なんだろう! もちろんニス塗りには大賛成だ。
お風呂も歯みがきもすませておやすみの挨拶をすると精市は部屋に引き上げて布団にくるまった。絵を描くのは好きだけど、家具をつくるのは初めてですっかりくたくただった。それに明日が待ちきれない。
ああ、早く完成させて、出来上がった椅子をゲンイチローに見せてあげたい。庭に咲くたくさんの花たちのことを教えてあげたい。まじめなゲンイチローは精市の語るひとつひとつにうん、うん、としっかり頷いてくれるだろう。
あれこれと考えているうちにまぶたがあたたかくなってきて、視界がゆらゆらと暗くなっていく。
「楽しみだなあ……」
むにゃむにゃした曖昧なささやきが柔らかな夜にそっと溶けていった。