イン・ユア・ハンズ 木漏れ日が降り注ぐ遊歩道を行く幸村の足取りはすいすいと水面を泳ぐ魚のようで、どことなく常よりもうきうきとはずむように思われた。後ろ手を組みながら鼻歌を口ずさんでいる。幾重にも重なった木の葉の間を透かした陽が幸村の白いうなじを焼く。踏み出すごとに髪が軽く揺れている。
ナントカという花を見に行きたいのだと幸村は言った。いつでも咲いているわけではないのだ、と熱弁を振るわれ、毎月恒例のデートは電車をいくつも乗り継いで公園へと赴くこととなった。
去年の冬に付き合い始めてから五回目のデートになる。最低でも月に一度、二人きりでテニス以外のことをしようと取り決めを交わしたのだ。それぞれが案を持ち寄り、これまで遊園地で観覧車に乗ったり、上野の美術館で印象派の絵画を眺めたり、江戸時代の風俗を学びに博物館へ行ったりもした。どちらの意見を採用するかは勝負で決めている。ジャンケン、腕相撲、コイントス……。テニスはきりがない。もう一試合と何かと理由をつけて延長してしまうから。
まず目についたのは人群れだった。おびただしい来園者の垣根越しに傾斜のついた花畑がかすかに見える。遠景に春霞のようなごく淡い水色がぼんやりと広がっている。日差しを遮るものはない。
ちらと隣の幸村の横顔をうかがう。初夏の気温のせいか期待のためか、頬を上気させている。と、幸村がぱっと振り返った。この上ないほどの笑顔が真っ直ぐ俺に向けられる。
「行こう!」
幸村の白く長い指がするりと腕に巻きつき、力強く引く。この手が、無理やりではなくうながすような絶妙な力加減で、出会ってから十年以上変わらず俺を導くのだ。
隙間を縫うようにしてどんどん奥へ進むと、よりはっきりと丘の様子がわかってくる。近寄ってみると事前に見せられた写真の湖面のような冴えた青というよりも茎の鮮やかなさみどり色に目を奪われた。下から仰いでいるからかもしれないが。
幸村はぎりぎりまで近づくと、ちょこんとかがみ込んで青紫色のひとつひとつに、にこにこと穏やかな眼差しを注ぎ始めた。
俺もならって腰を折ると、理科の授業さながらにじっくり観察していく。丸みを帯びた花弁は朝顔にも似た鮮やかな瑠璃色が濃淡を描いている。中央は白く、ぽっと光が灯っているようだった。茎や葉は霜のような毛で薄く覆われている。もし手を伸ばせば柔らかいのだろうか、と健気ささえ感じるたたずまいにそんなことを考えた。
「よし」
にわかに立ち上がると幸村は小道を指さして、丘を登ろうと言った。
混み合った中段を避けててっぺんまで辿り着くと、幹の太い大きな木がたっぷりと葉の茂った枝を広げている日陰に駆け込む。高いところにはそよ風が吹き込んで、さやさやとあたりの草花がからだを揺らす音が耳に心地よい。
よほど大きな木らしく、あたり一面に影が落ちて花の色を濃くしていた。陽を浴びた向こう端だけ一直線に明るいのが、よく晴れた日の地元湘南の水平線を思わせた。
「来てよかった」
目を細めて幸村が夢のような光景を見下ろしてうっとりと息をついた。
「ね、美しいだろう」
幸村の瞳のきらめく瞳を見据え俺は頷く。
「ああ」
夢のような昼下がりだった。明るく、のどかで、風が肌の熱をなだめ、眼前には絵に描かれたような紺碧の花が織りなす見事な絨毯がどこまでも続いている。
「本当に壮観だな、こうわさわさと生い茂っていると」
同じ気持ちを分かち合えていると確信して幸村をみやると、口もとを笑いなのか苦味をこらえているのかわからぬ複雑な形でむずむずさせながら困ったように眉を下げていた。
「な、なんだ、その非難がましい顔は。言いたいことがあるならはっきり言わんか」
「だって、お前の言い方があんまり情緒がないから」
「なぜだ!」
「わさわさって、そんな」
土の上にわんさと咲く花のたくましさを他にどう形容すれば良いのだ。
「どうしようもないだろう。これが俺だ」
幸村の表情がふっとほどけ、「まあね」と微笑みが現れる。
つられて俺もニヤリとし、言った。
「そんな俺が好きなのだろう?」
幸村は目をみひらき、考え込むようにぱちぱちとゆっくりまたたきをすると、それから「うーん」と小首を傾げた。
「こういうところはあんまり好きじゃないかな」
「なっ……!」
二の句が口をつく前にまた天の息吹のような風が吹いて梢がそよぎ、束の間太陽が差し込んだ。自然のスポットライトがまだらに紺碧を明るく染める。
いつの間にか幸村の気配は身じろぎすれば触れ合うほど迫っていた。
「でも、真田が野暮でも俺はちゃんとお前の彼氏だからね」
でもとはなんだだとか、言いたいことはいくつもあったが、差し出された手を取るより優先すべきことなど結局はないのだった。どちらかともなくそっと結び合うと、他愛もない話をしながら緩やかな道を下っていた。