リスクヘッジ ガンガンガン――と耳障りな騒音で目を覚ました。
薄目を開けて時計を見ると、まだ朝の九時である。まだというのは、今日が休日であるのと、昨晩妙に機嫌の良かった上司に付き合い酒をしこたま飲んでベッドに潜り込んだのが早朝六時だったからである。
まだ三時間しか眠っていない。おれは再び眠りに就こうと頭から布団を被った。
しかし、音は断続的に聴こえてくる。階下の部屋で工事でもしているのだろうか。通知は来ていなかったはずだが、見逃したのかもしれない。
――うるせェ。
おれは二度寝を諦めてベッドから這い出した。頭が酷く重たい。完全に二日酔いである。喉もカラカラだ。
水を求めてのろのろとキッチンへ行くと、この家の主でありおれの上司である男――クロコダイルがそこに居た。
男はシンクの前に立ち、これでもかというほど眉間に皺を寄せてタブレットを睨みつけている。
寝室を出た時から気になってはいたが、甘い物を焦がしたような臭いが部屋中に充満している。
散乱した調理器具。出しっぱなしの水道。何に使ったのか、三口のコンロ全てに鍋が置いてある――。
おれは、今日の日付を思い出して大体の状況を把握した。ふいに笑いそうになるのを口を固く結んで堪える。
ここで笑ったら命が危ない。
男に気付かれないようにこっそり寝室に戻ろうとしたその時、調理台の上にきっと必要のないだろうミートハンマーを見つけてしまい、フフッと鼻から息が漏れてしまった。
男ががばとこちらを向く。
一瞬目を見開いて、またぐーっと眉間に皺が寄っていく。
それはそれは凶悪な顔だった。おれが新入社員であれば泣いて逃げ出していただろう。
何か言わなければと口を開くが、如何せん寝起きの上に二日酔いで頭が回らない。
どうにか「おはようございます。早いですね」と乾いた喉から絞り出せば、男は舌打ちをひとつ残して自室へ消えてしまった。
――これは、時間を置いて声をかけるしかないか。
こういう時は下手に追わない方が治まりが早いのは長年の経験で学習済みである。
一人残されて改めてキッチンを見渡すと底の焦げ付いた鍋が二つもあり、早急の買い替えを検討した。
とりあえず、当初の目的通り水を飲もうと冷蔵庫を開けた時、おい――と背後から声がした。
意外にも男はすぐに戻ってきたらしい。表情は相変わらず険しいが、声色は思いのほか柔らかい。
「やる」
ぐいと突き出した手には黒色の紙袋が握られている。
その袋には見覚えがあった。クロコダイルのよく利用する老舗パティスリーのものだ。
「食いたいと言っていただろう。山椒入りのやつだ」
たしかに言った。この店の菓子を手土産として購入した際にその珍しい取合せが気になったのである。高い菓子は口に合わないが、山椒入りのチョコレートはどんな味なのか一度食べてみたいと。
これは――調理が上手くいかなかった時の為に予め用意をしていたのだろうか。
そもそも、おれが途中で起きてくるとは考えなかったのか――もしかして、昨日、散々っぱら酒を勧めてきたのも計画の内だったのだろうか。
やり方が無茶苦茶である。お陰で体調は最悪だ。
今度は思い切り吹き出してしまった。
「笑ってんじゃねェよ。死にてェのか」
みるみるうちに男の顔が真っ赤になる。無茶をやっている自覚はあるのだろう。
どうしてこうまで素直じゃないのだろうか。
おれは、少々強引に男を抱きしめる。
「――酒クセェ。離しやがれ」そう男は悪態つくが、口だけで手は出ない。
「お蔭さまで少し飲みすぎちまって。これ一緒に食いましょう。珈琲入れますから」
とにかく今は一刻も早くカフェインを摂取して頭を覚醒させたい。
これからおれは不器用な恋人の機嫌を治す方法と、冷蔵庫を占拠している大量の板チョコと生クリームの消費方法を考えなければならないのだ。