〇〇ってなんですか?/フィガ晶♂「……?」
ちゅ、と空気が微かな音を立てて、接触していた肌と肌が離れる。
肩に置かれていた彼の掌が、一度ゆるやかに二の腕へと滑って、それから持ち主の元へと戻っていく。俺のセンサーは正しく機能していて、その温度を正確に感知していた。普段は人間の平均より少し低い彼の体温。けれど、今触れていた指先はいつもより少しだけ高かったように思うーー俺の記憶領域にまだそこまで彼に関するデータがあるわけでは無かったけれど。
どうしてだろう。なぜ今、彼の指先の温度が高くて、なぜ今、俺は彼に触れられたのだろう。
今の肌と肌の接触の仕方は何?その行動を示す単語は、確かに俺の中に知識としてはある。その行為を行う理由も、情報としては知っているのだけれど。それでも、どうしても。
俺の思考回路はフリーズしてしまったのだろうか。今起きたことと、自分の知る知識が上手く繋がってくれなかった。俺の思考ルーチンは確かに、今起きたことが何なのかを検索して、結果を弾き出しているはずなのに。
「……フィガロ」
「うん? びっくりした?」
灰色に芽吹く新緑のような不思議な光彩が、柔らかく細められて俺を覗いている。
「ええと……そうですね。驚いています……それと」
「それと?」
どう伝えたら良いのだろう。まだ難しい言葉は使うことに抵抗がある。俺は少し言い淀んで、フィガロの胸元辺りを見つめた。白衣にぶら下がったIDカードが照明を反射してチラリと光る。
「……どうして、フィガロは、俺にこんなことを?」
何故か口の中が酷く乾いている気がして、声が縺れた。ロボットなのに、こんな所ばかり人間のようで困ってしまう。俺はまだ、何も知らないのに。知らないはずの知識が体内のメモリを圧迫するばかりだ。俺自身が経験した知識は、まだとても少なかった。
「……!」
顔を上げれば、とても近い位置にフィガロの瞳があって。きれいな瞳が一度瞼で隠されて、ゆっくりと薄い唇が音を紡ぐ。
「……君は、どうしてだと思う?」
「えっ」
(聞き返された!)
想定外の言葉に、俺は言葉が出てこなくなってしまう。だって、分からないから聞いたのに。知っているけれど、実感として知らないから勇気を出したのに。俺は彼よりもずっとずっと未熟なのだ。
予めインストールされた生活に必要な知識があって、更に疑問を抱けば即座にネットワークに繋がって答えを手繰り寄せてしまう。そうして降り積もっていくバラバラのパズルのピースみたいな記憶たち。情報ばかりで頭でっかちな、生まれてまだ数ヵ月のアシストロイド。それが俺だった。
***
フォルモーント・ラボの一室。そこが俺にひとまずの居場所として与えられた住まいだ。
AM7時。定刻通りに起動したシステムにエラーは無い。ぱちりと瞼を開いた俺は、視覚に問題が無いことを確認しつつ、充電ユニットから伸びる透明なケーブルをそっと腕から外した。
宙にモニタを呼び出して、一日のスケジュールを確認する。ラボメンバーのスケジュールにざっと目を通して、俺のメモリに保存された昨夜までの情報と相違が無いかを照らし合わせた。
スリープ状態の内に内部メモリを更新することは出来るのだけれど、俺は意識的にその機能をオフにしている。眠って目が覚めた時に、昨日の自分が知らなかったことを知っているのは、なんとなく居心地が悪い、と感じるからだ。
(ロボットとしては、非効率なんだけどな……)
人間に近づくということは、こんな感覚をも生むものなのか。自分のことながら、俺はどこか不思議な気持ちになった。
全員のスケジュールに変更が無いこと確認し終えて、俺はベッドから立ち上がる。
支給されている夜着を脱いで、いつもの服装に着替えた。胸元には、俺の名前が印字されたIDカードがぶら下がっている。
このカードが今の俺の身分を証明するものだった。フォルモーント・ラボ研究補助『真木晶』。
俺は、今、このラボで働いているのだ。
オーエンやカルディアシステムに関する騒動が収まってからのことだけれど、カインが調べてくれた情報を元にオーナーを探してはみたものの、結局そんな人はおらず、『魔法舎の賢者』というブランドも見つかることはなかった。『真木晶というアシストロイドはオーエンに作られたのだろう』、というのがガルシア博士含めラボメンバーの現状最有力かつ共通の見解だった。そうなればオーエンと同じく、俺にはオーナーの登録などが最初から無い、ということになる。
ラボの誰の手で作られたわけでも無い『真木晶』というアシストロイドは、誰も知らない情報が詰まった正しくブラックボックスだった。そう、オーエンのメモリには俺を製造した際の記録は残っていなかったのだ。
原理としてはオーエンと同じくカルディアシステムを搭載しているのだろうという話にはなったが、システムのカスタマイズ度合いやその他の詳細な数値などは全て未知数だ。外面的なボディの強度、構成材質を始め、内面的な感受性の強さ、苦手とする情報の種類、それらを総合的に見た際の労働種別の向き不向きーー「これから晶が生きて行く為に必要な情報だよ」とフィガロは言ったーーそして、それらを調べなければ、俺がラボから出ることは難しいとされた。
彼の元に製造記録データが残っていたオーエンとは違う。俺は一度しっかりとボディとシステムのチェックを受ける為、そして何より俺が俺自身のことをしっかりと知りたいと思ったから、ここに残ることを了承したのだった。
オーエンはというと、宣言通り世界を自分の目で見に行くと言って、旅に出た。俺は『寂しい』という気持ちを初めて実感として味わいながら、友人でもあり『父』という概念でもあるのだろう彼と、再会の約束をした。俺も彼と約束が出来るのか、とどこか嬉しく感じたことを今でもすぐに思い出せる。
見送りにはカインと、俺。少し離れた位置にガルシア博士、スノウ、それと俺はこの時始めて会ったのだけれどーースノウとそっくりな見た目をした、ホワイトというアシストロイドがやってきた。
騒動以降、オーエンを挟んで何かとコミュニケーションを取ることが増えていた博士が、こちらを見つめて、口を開く。けれど何かを音にする前に一度閉じると、ふいと目を逸らした。何かを悩むような素振りを見せて、けれどもう一度こちらを見て俺に声をかけて来た。
『あの子が君の父親なら、俺はおじいちゃんになるのかなぁ』
『え』
そんな会話の転がり出しだったと思う。とても唐突な話だった。俺が目を瞬かせて『父親』の意味をネットワーク上の辞書と照らし合わせていると、彼は更に言葉を続けて。
『それなら、孫の安全は俺が守らなきゃいけないよね』
そう言って少し困ったように笑う彼の姿は、とても印象的だった。
差し出された手を見て、俺は少し戸惑いながら握った。つい先程まで検索していた単語はそのまま霧散していった。
指先が触れた瞬間に、びくりと彼の肌が震えた。それは正しくアシストロイド依存症ーー裏を返せば対人恐怖症の症状だ。それでも、俺の手が振り払われることは無かったし、おずおずと握り返された手からは親愛の情を受け取ることが出来た。
見知らぬアシストロイドーーそれもカルディアシステムを搭載した俺はきっと博士にとって見知らぬ人間と等しい存在だったろう。それでも、その手を差し出してくれたのだ。
嬉しい、と素直に思えた。胸の奥にある百合の模様がほんのりと熱を持ったような気がした。
『よろしく、晶』
『よろしくお願いします。ガルシア博士』
『フィガロ、でいいよ』
『ええと……はい、フィガロ』
そして、俺は新しい居場所を得ることが出来た。今は自分自身の構造や内面を知る為に、彼の研究に協力しながら、空いた時間に簡単な仕事の説明を受けては、新しく出来ることを探して。この世界を一つずつ実感として知って生きている。
***
ふ、とフィガロが笑う気配がして、俺の意識が引き戻される。悩んでいた俺の口からは、知らず呻き声が漏れていたのかも知れない。
「面白いよね」
「え」
何がだろう?疑問がそのまま顔に出ていたのか、フィガロはにこりと笑って見せた。そこに、あの時見せたような強張った表情はもう見えない。
「君は、俺が作ったアシストロイドじゃない。なのに、今じゃスノウ様と同じ位、一緒にいるじゃない?」
確かにそうかも知れない。俺は多分オーエンに作られて。でも彼は旅に出てしまったので、今はこうしてフィガロが俺の後見人のような立場になってくれている。最近はラボに居るだけでは社会勉強には不足だろうと、買い物に出たり、彼の家に招かれることも増えた。
仕事場以外でのフィガロ・ガルシアという人を、少しずつ俺は見て、知って。知識として蓄えている。
「俺は、自分が作ったアシストロイド以外に興味を持つことなんて、無いと思っていたよ」
「俺も……フィガロのことを、こんなに色々知ることになると思っていませんでした」
彼が案外面倒くさがりで、だらけ癖があることを知った。それにストレスにも非常に弱いし、TVのインタビューでよく言っている冗談ーーその日は100回溜息を吐く、というのが割と冗談ではなかったことを知った。仕事に集中すると寝ることも食べることも忘れる癖に、仕事を始めるまではかなり面倒くさがることを知った。そして、ラボの皆にとても信頼されていることを知った。なんだかんだお小言を言われながら、毎回その期待以上の結果を出して、皆を引っ張っていっていることを知った。その結果の陰に並みならぬ努力があることを知った。忙しいはずなのに、俺に優しくしてくれていることを知った。心を砕いてくれていると感じた。
俺は、本当に沢山の『フィガロ・ガルシア』を知った。
彼も同じように、『真木晶』を沢山知ってくれたのだろうか。
「だって、俺の知らないプログラムが施されて、心を持ったアシストロイドなんて…そんなの」
人間と何も変わらない、フィガロがぽつりと零した。真摯な瞳をして、その指先で俺の頬をなぞる。
「触ってみたいなと、思ったんだよ」
「それは、俺の……心にですか?」
こくり、と彼は頷いた。冬の海のような青みがかった灰色がふわりと揺れる。
好意があるなら勿論嬉しい、けれど嫌悪だって嬉しい。怖いけれど、真木晶の中にある心を知りたいと思ってしまうのだ、とフィガロは言った。
その瞳には、未知への興味があった。けれどそれだけでは無い、どこか恋しいものを見るような、何かを欲しがる子供のような、不思議な色が宿っているように見えた。
その色に、俺は惹かれてしまう。この人を放っておけない、突き放せないと、何故か思ってしまった。
どうしてだろう。この人に触れられたことを、怒れない。まだ俺の中にその感情への回路が繋がっていないだけなのかも知れない。けれど。
「俺は……嫌じゃなかったんです」
「……そう」
一瞬、彼の目が丸くなった。驚いたのかも知れない。だってアシストロイドと言えど、同性体に、しかも好意の確認もしていないような相手に口づけられたのだ。一般的には拒否するか、怒りもするのかも知れない。その感情の動きは分かる。想像も、出来た。
好きでも無い相手に、突然唇を奪われたら。嫌がるだろう、普通なら。
けれど、俺の中に嫌悪の感情は沸かなかった。それにエラーも起きていない。感じるのは不思議な高揚感だ。じわりと、身体の内側を温めるような。
フィガロは感情の読めない表情をして、俺をじっと見つめている。その瞳には研究者然とした静かな光が宿っているようにも見えるし、ただ人間としての本能で俺の内側の何かを見極めようとしているようにも見えた。
「俺はどこかおかしいんでしょうか?」
「どうかな……もう一度試してみたら分かるかも?」
彼がそう言うなら、そうなのかも知れない。気づけば今の彼は博士として仕事をしている時の顔では無くて、プライベートの時のーーそれもどこか、悪い顔をしているけれど。
(別に、いいかな。だって)
その顔が、俺はーー多分。
先程よりも、長く、柔らかい感触が触れて。それから一瞬離れて、また角度を変えて口づけられた。ふわふわと、意識が宙に浮いていくような感じがして、疑似的に組み込まれた心臓が鼓動をどんどんと早くした。ちゅ、ちゅ、と濡れた音が響くのが何故かとても大きく聞こえて、頬に熱が集中していくのが分かる。『恥ずかしい』という感覚を、実感として知っていく。
名残惜しそうに唇を舌で舐めとられて、ひくりと無意識に喉が震える。何故か涙が零れ落ちそうになって、視界が潤む。微かに吐き出す息の合間に、俺は彼に話しかけた。
「……フィ、ガロ」
「なあに」
彼の息も、体温も上がっている。いつも冷たい指先は、先程よりもずっとずっと熱くなっていた。
「……あいってなんですか?」
それは、この先にあるものだと、俺はどうしてか知っている気がするから。
まあるくなる灰色と若葉の色に見惚れながら、今度は俺から彼の唇を塞いだ。
END
どっちも恋愛1年生なフィガ晶♂が出来るのはパラロイならではなので書いてみました。
パラロイ、死の概念が逆転している組み合わせが複数いる世界観にぞくぞくします。
フィガロが普通の32歳なのが本当に好き。