WS 3章前半4.
「例えば……そうね、ここからは例えばの話だけれど」
女は言って、デミタスカップを傾けた。濃いめに注がれた珈琲の匂いが、ふわりと鼻先をくすぐった。
「彼らにとっては予想外の出来事が起きたとして、……それで、今までの《物語》をふいにするかしら」そこで言葉を切り、こくりと、口に含んだ珈琲を飲み込む。「まぁ……確かに、一度目の《再構築》を許したのはアタシ。でも、あれはどうしようもなかったの。どうしても、あの段階で、彼を止めなければならなかったんだから」
「しかし、止めることは出来なかった……と」
男はため息を落とす。女は物憂げに目を細め、そうね、とだけ呟いた。
「まさか、抵抗されるなんて思わなかった。目論見が外れたのは認めるわ」
「殊勝なものだな」男は笑った。「君ともあろうものが、珍しい」
「茶化さないでよ」女はむくれる。「アタシだってね、いつまでも昔のアタシじゃあないの。……少なくとも、あそこにいたときよりは、丸くなったと思うわ。我ながら、ね」
カチャ、と食器の触れ合う音が響いた。女はふぅっと息を吐き、頬杖を突いて外を見遣る。
「それにしても、……どうして未だ、この《舞台》は続いているのかしら。《観客》を呼び込み、あんなことがあっても《再構築》すらされず……」ぶつぶつと小声で独りごち、吐息で締める。「アイツは、……とうに死んだはずなのに」
「君が書き換えれば良いだけの話では?」
我々の都合のよいように。そう告げる男の声に、女は、弾かれたように顔を上げるが、そのままゆっくりと首を横に振った。
「無理ね。……えぇ、無理なのよ。アタシにはその《権限》もない。奪われてしまった」
もう一度デミタスカップを煽るが、空っぽの中身からは何も落ちてこない。
「……それでも、やらなければならない。知らなければならない。一体どうしてこうなったのか。……アイツが、何を望み、何をやろうとしているのかを……」
ルリアは、はっと目を開けた。鮮やかな色彩が飛び込んでくるのと同時に、界隈の音が、一気に耳に蘇る。
それは、湯の沸く音。食器同士の触れ合う音。メニューの紙をはぐる音。目の前には重厚な黒樫のカウンターがあり、幾つもの、硝子製の抽出機の向こうには青年がひとり。茶の混じった癖のある黒髪に、真紅の双眸……丸いアンダーリムの眼鏡を通して、ルリアをじっと見つめている。
「立ったまま寝るな」苦笑している。「ほら、あちらの客にサーブしてくれ」
そう言って差し出されたのは、丸いグラスに入ったパルフェだった。黒と白の層になっていて、最上段にはミントの葉と、天司の羽根を模したチョコレートの飾りが刺さっている。戸惑いながらも受け取ったなら、グラスの外側はひんやりと冷たくて……その触感が、徐々に思考を醒まさせる。
――そうだ。
これは、カフェミレニア特製珈琲パルフェ。私が珈琲が苦手なことを知ったマスターが特別に作ってくれたもので、……それを独り占めするのは何だか申し訳なかったから、カフェでデザートとして出したらどうでしょうと、こういう美味しいものは皆さんと分けてこそですよ、と提案したんだっけ。
そうして辺りを見渡したのなら、窓際の席に、一人の女性が座っていた。すらりとした足を組んで、頬杖を突いたまま、ぼうっと窓の外を眺め遣っている。月の色を流し込んだような銀色の髪を一束、褐色の指でもてあそびながら。
あぁ、そうだ――ルリアは漸く得心した――ここは《舞台》の上だ。ちょうど今のタイミングが、わたしの《出番》だったのだ。
喫茶店カフェミレニアの給仕――それこそが、私の《役》なのだから。
「お待たせ致しました」
丁寧に一礼をして、銀の盆の上に携えたパルフェを静かに卓に置く。女性は、ふっとルリアに視線を送り、ルージュを引いた唇を微かに笑わせた。
「素敵な見た目ね」パルフェのグラスの縁を、長い指で辿った。「美味しそう」
「はいっ」ルリアは銀の盆を抱え、笑って頷いた。「これは、マスターが、珈琲の苦手な人にも楽しんで貰えるようにって、何度も試作を重ねたものなんですよ」
「へぇ……」
女性は、そこでふっと目を上げてマスターを見た。けれど何も言わず、銀のスプーンで以て最上段に盛られた生クリームとチョコブラウニーとを掬う。エスプレッソが掛かっているので、口に含んだ瞬間、ふわっと珈琲の香りが広がるはずだ。そこだけはどうしても譲れないと言っていた、マスターの拘りなのだ。
「それじゃあ、ごゆっくりどうぞ」
スプーンを食んだ彼女の顔がぱっと明るくなるのを見届けてから、ルリアは会釈をしてくるりと踵を返した。そのまま、ゆっくりと歩き出す。
……その背に。
「なぁ、給仕のお嬢さん」呼び掛ける声がある。「暇だろ? 昔話でも、どうだい?」
「……え?」
ルリアは、はたと足を止め、肩越しに振り向く。
――今の、声……?
確かに、そこにいるのは女性ひとりだ。窓際の席で鷹揚に座ったまま、笑みを浮かべたままで、こちらをじっと見つめている。その他に客はいない。いるはずがない、のに。
――何となく、男の人のように、聞こえた……けど。
戸惑い、けれどぎこちない笑顔を浮かべて、ルリアは彼女に向き直る。客の女はその様子を見届けて、ふふ、と楽しそうに目を細めた。
「おい」マスターが後ろから抗議の声を上げた。「彼女は仕事中だぞ。後にしろ」
「あら、良いじゃない。どうせ、お客なんて来ないんでしょ」
来るはずもないのだけどね――彼女は笑みを崩さずにそう言い、ルリアはますます狼狽する。どうするべきかも分からずに、ええと、あのう、とおろおろ二人を見比べている。
マスターは、はぁ、と聞こえよがしにため息を吐いた。
「……、手短にしろよ」
「はいはい」
彼女は肩を竦め、次いで、ルリアに手招きをする。ルリアはマスターの方をちらりと見たが、彼が知らんぷりを決め込むので、多少困惑しながらも、彼女の相向かいにちょこんと座った。椅子に浅く腰を掛けたのは、客が来たならすぐに迎えられるようにしたためだ。喫茶店の入り口に背を向ける形ではなく、視線の端にでも、扉が目に入るような位置取りにしたのも。
不意に目を遣った窓の外は、洒落た形の窓枠に切り取られた静かな街の風景が広がっている。軒を連ねる家々、風に揺れる木々。大通りにまで張り出した売り場には様々な装飾品や雑貨が並び、周囲には焦がしたバターの香りや食欲を掻き立てる良い匂いが立ちこめ、道行く人々を楽しませている。呼び込みの声や往来の喧騒が、閉まった窓の内側にも響いてきそうだった。
――誰も来ないなんて、最初から分かってる。
ルリアは、ぽつりと胸中で独り言つ。
――この《場面》に於いては登場するはずがない。《脚本》にないその《役》は、今は必要とされていないのだから。
「さて」
唐突に彼女の声がして、ルリアははっと彼女の方を見た。彼女は両の手を組んで顎を乗せ、色素の薄い両の双眸で以て、じっとルリアを見つめた。不思議な色の目だ、とルリアは思った。角度によっては、夕暮れの空を閉じ込めたような、綺麗な赤に見える。
「どこから話そうか……えぇと、そうそう、これは覇空戦争が終わって暫く経った頃のことなんだけどね……――」
キリエ・アリュシナオンは、黄昏の迫る港町を歩いている。
臨時収入があったのはつい先ほどのこと。懇意にしている金物屋の店主が、どこで知ったのかは定かではないが、件の事故の見舞いにと謝礼を弾んでくれたのだ。怪我をしたのはセインであってキリエではないし、経過観察で入院しているだけで本人は意外とピンピンしている。けれどそれをおくびにも出さず、素直に礼を述べ、有り難く受け取った。好意を無下にするといつか罰が当たるのだ。
だからという訳でもないが、キリエは、どこか一杯引っ掛けられるところを探して、夕暮れの街を徘徊していた。家路へと向かう人波に逆らうように、ぶらぶらと、両手をポケットに突っ込んだままで。
――帰ったところで、誰もいないんじゃあ、なぁ……。
かの墜落事故から、今日でちょうど一週間。最早人々の話題に上ることもなくなり、今や、関係者の間で思い出したように語られるのみ。アーク・ヴァレーの瓦礫も撤去されたと聞くし、いよいよ過去の出来事のひとつとして数えられることになってしまった。
セインの容態はさほど心配するようなことではなかったにしろ、頭を打った上に一時的にでも意識を消失したことから、担当した医師が入院による経過観察を強く勧めた。まぁ自宅にいてもキリエと二人きり、しかもキリエは日雇いに出ており日中は不在であるから、そこで何かあっても困る。キリエは即座に了承し、すぐさま必要なものを一通り見繕って、診療所へと運び込んだ。
……ただ。
何処へ行っても常に人に囲まれていた――良い意味でも悪い意味でも――キリエにとっては、誰もいない自宅はひどくつまらないものだった。最初の一日や二日はそうでもなかったが、日を重ねるにつれ、人の話し声が全くしない空間に、息苦しさを感じることが増えてきた。帰る場所があるというのに人様の家で寝泊まりを繰り返し、時にはこうして、港町で朝まで飲み歩いた。物音ひとつすることのない、しんと静まり返った真っ暗な自室よりは、道端で寝落ちた方が遙かにマシだとキリエは思っていた。この辺りの治安は良い方で、酔っ払いから財布をくすねるような手癖の悪い輩はまずいないし、路肩で寝落ちていたところでそのような被害にあったこともない。
空を仰げば、橙と紺色の見事なグラデーションの中に、夕日に染め上げられた雲が幾つも浮かんでいた。物売りの声、人々の話し声や笑い声――そういったさざめきの中、キリエもまた、そうした日常の風景の一部として、雑踏にひっそりと溶け込んでいた。
「ん……?」
そんなキリエがふと足を止めたのは、往来の向こうに、見知った看板を認めたからだ。
見覚えのある流線型のフォルムに真鍮製の猫のシルエット。黒猫亭――いつでも、どんなときでもキリエを優しく受け止めてくれる大衆酒場は今、呼び込みでもしているのか、大通りへ向けて黒樫の扉を大きく開け放っていた。美味そうな匂いと細波のような喧騒が通りにまで溢れている。
「今日はここにするか」
今日はといいつつ、既に三日くらい通っている気もするが、そんなことはどうでもいい。キリエは呟き、人の流れから外れて、そのまま賑やかな店内へと吸い込まれていった。
「あいよ、いらっしゃい!」
アーチ状の入り口を潜ると、迎えてくれるのは元気な挨拶と食欲を掻き立てる匂い。ピークには早すぎる時間帯であり、やはり満席には程遠い状態ではあったが、マダム・マーサはいつも通り忙しなく、とびきりの笑顔もそこそこに客席と厨房とを行ったり来たりしていた。キリエは片手を挙げて応じると、窓際の席にどかりと腰を下ろし、ぐるりと周囲を見渡す。
賭け事でもしているのか、カードゲームに興じる若者のグループ。卓上に空の瓶を並べつつ、浴びるように酒を飲んでいる老爺。既に出来上がっているのか赤ら顔で歌い出すものもいて、隣ではこれまた赤ら顔の男が合ってもない手拍子を送っている。角灯の明かりが届かないほど端の席では危険な目をした男たちが集まり、何やらひそひそと話し込んでいた。デルフィズやシュセットの飲み仲間のようだが――以前同席していたような記憶がある――特に親しいわけでもないため、キリエはすぐに目を背けた。デルフィズもシュセットもいないのだ、面倒なことに巻き込まれても困る。
「待たせて悪いねぇ、キリエ」
マダム・マーサが注文を聞きに来たのは、それから直ぐのことだった。差し出された水を一気に飲み干すと、マダム・マーサはにっこり笑った。卓に置いてあったメニューを取り敢えず開くが、頼むものは殆ど決まっている。エールと、塊肉のあぶり焼き香草仕立て、季節のスープに大将のお任せフライの盛り合わせだ。
「いつものやつだね、毎度有り難うね」
そうやって注文を書き留めている間にも「おうい女将、酒を頼むぜ!」「こっちにも!」とひっきりなしに声が掛かる。マダム・マーサは都度威勢良く返事をするが、人出が足りていないであろうことは火を見るより明らかだった。
「大変そうだね、マダム」
そう話し掛けると。
「ちょっとね、ホールの子が体調を崩してお休みなのさ」マダム・マーサは、空のグラスに水を注ぎながら苦笑する。「アンタも気を付けなよ……最近、巷じゃあ妙な病が流行ってるみたいだからね」
――妙な病?
キリエは眉をひそめ、更に詳細を問おうとしたが、間に合わなかった。マダム・マーサはせかせかとして、次の卓へと行ってしまった。その背を見送り、ひとまずグラスを煽って、キリエはひとつ息を吐く。そうして、静かに耳を澄ませる。
酒場は謂わば、噂のたまり場だ。真偽は別としていろいろな情報が集まってくる。巷で流行っている病なのであれば、誰かが話題にしていてもおかしくはない。そう思った。
……思ったのだが。
「おいジジイ……飲み過ぎだぜ、そろそろ加減しろよ」
「うるせぇ……お前に……ック、何が分かるってンだ……」
「あァ~愛しのォ~君ィ~今ァ~どこォにィ~」
「だぁ! クソッ! 今のはナシだ! おい、ナシって言っただろうが!」
「はぁ……シュクリルちゃん……今日も相変わらず可愛かったなぁ……」
笑う者。泣く者。歌う者。煽る者。彼らの発する言葉は最早混沌として、全てが雑音のように思えてくる。そもそも人の声やグラスの触れ合う音、怒鳴り声や快哉の声が幾つも重なり合って、余程集中しないと狙った音が聞こえにくい。キリエは、当初は頑張っていたものの次第に面倒になり、とうとう窓の外へと意識を放り投げた。自分の関係のあることならばいずれこの耳にも届くだろう――いくら暇つぶしといえど無駄な労力を使ってしまったことに対し、そう結論づけつつ。
「……あら」
不意に聞き覚えのある声が耳を過ぎり、キリエはふと、その方向へと顔を向ける。銀髪の踊り子はキリエの真向かいにすっと立っている。
「キリエじゃない。珍しいわね、こんな時間に」
「やぁ、君こそ」不思議と驚きはしなかった。ぽつりと、その名を呼ぶ。「珍しいな、ミナ」
彼女は卓に手を突いたままで、にっこりと笑った。隣いい? と聞かれたが、この美しい知己の同席を断る道理など何処にもない。
「何か頼むかい?」
「あら、嬉しい。奢ってくれるの」
「構わないさ。君には、何かと貸しがあるからな」
椅子に座ったのを見届けてメニューを差し出すと、ミナは、迷うことなく受け取った。パラパラとめくり、けれど、悩む素振りなどひとつも見せず、すぐに通りすがりのマダム・マーサを呼び止めて葡萄酒のグラスをひとつだけ頼んだ。それだけでいいのかい、もっと頼めば、と言うが、ミナは首を横に振って笑った。いいのよ、アタシはこれから仕事だから。それに、セインのことで大変でしょう。欲を張ったら罰が当たるわ……と。
「はいよ、お待たせ!」
どん、と卓を鳴らし、並々とエールを注がれたジョッキが到着する。勢いで多少零れてしまうのはご愛嬌といったところだろう。そこから殆ど間を空けず、居酒屋には似つかわしくないほどの洒落た形のグラスが、紫色の液体で満たされてやってくる。乾杯のために間に合わせてくれただろう、マダム・マーサがこっそりとウィンクを寄越したのを、キリエは見逃さなかった。
「それじゃあ……輝かしいおれ達の、偶然の出会いに、乾杯」
「ふふ、何それ。まぁいいわ、乾杯」
グラスとジョッキがぶつかって、チン、と乾いた音が鳴る。唇に泡の感触を覚えつつも、ぐい、と煽ったなら、適度な冷たさが身体に染み渡る。自覚しないまでも余程喉が渇いていたのだろう、ジョッキを卓に戻す頃には中身が大分減ってしまっていた。ミナは、……と目線を遣れば、ちびちびと舐めるようにして葡萄酒を飲んでいる。その仕草はまるで、森でよく見掛ける小動物に似ている。
やがて、卓には次々と料理が運び込まれた。その殆どが大皿だったので――ご丁寧に取り分け用の小皿とトングまで付いてきている――小さな卓はあっという間に埋まってしまった。ミナは当初遠慮していたものの、塊肉の、油や肉汁が滲み出た艶やかな断面や香辛料の匂い、からりと揚がったフライドポテトを眺めているうちに、空腹に耐えきれなくなったらしい。少しだけ頂こうかしら、と遠慮がちに言いつつも、大皿からあれもこれもと少量ずつ取り分け、フォークで以て黙々と食べ始めた。
踊り子は身体が資本なのだし、これから仕事なら尚更、腹ごしらえしておくべきだろう。キリエはそう思って――特に苦言を呈したり彼女を揶揄することもなく――塊肉の、それもなるべく脂身の少ないところを選り分けてミナの小皿によそってやった。女性故、脂身は好みじゃないだろうと思ったのだ。
「ところで、……セインは大丈夫なの」
一通り食べ終わって落ち着いたのか、ミナは、葡萄酒のグラスを置いて口火を切った。それがちょうど、キリエが大口を開けて塊肉にかぶり付こうとしていたタイミングだったので、キリエはひとつだけ首肯し、そのまま肉を皿に戻した。傍のナプキンで乱暴に口元を拭う。
「軽い脳しんとうだと、医者は言っていたな」
明日にでも家に帰れるはずだ、と応えると、ミナは、ほっとしたように頬を緩めた。彼女とセインは、幼なじみのような関係なのだ。そりゃあ、大事があれば心配もする。
「あの騎空艇の乗員はエルーンの青年ひとりだったようだけど」だから、自分が知っている情報は共有した方がいいだろう。そう思い、話を続ける。「さすがにセインが支えきれるはずもないよな、崩れ落ちるところを受け止めようとして……一緒に転んじまったんだと言ってた」
「へぇ……」
ミナは目を丸くした。キリエを見つめたまま、細切れの塊肉に突き刺したフォークが、ぴたりと止まっている。
けれど、その先は何もなかった。委細を聞かれることもなかった。ミナはぱちぱちと目を瞬いていたが、一呼吸置いて、何事もなかったかのように食事を再開させた。キリエの知っていることもそれが全てだったので、根掘り葉掘り聞かれても困るところだったのだが。
どっと、界隈が沸いた。
ふと顔を上げたなら、周囲の席は殆ど埋まり、皆が思い思いに酒を飲み交わしているのが見えた。マダム・マーサは最早コマネズミのようにあちらこちらを駆け回り、見かねた常連客が自分から料理を取ったり食器を片付けたりしている。「悪いねぇ!」「いいよ、女将!」と言葉を交わしながらも、ひとりでホールを回すのはそろそろ厳しそうだ。扉のところで店内をざっと見渡し、あまりの忙しなさに、また今度、と帰って行く客も何人か見掛けた。
「さて、……と」
声に視線を戻せば、ミナが、ちょうど腰を浮かせたところだった。
「それじゃあ、アタシはそろそろお暇するわ。今日はご馳走様」
大皿は元よりジョッキもグラスも空っぽで、長居する理由も特に見当たらない。いつもならエール一杯でもう少し粘るのだが、きりきり舞いのマダム・マーサを見ているとそれも何だか悪い気がする。なので、キリエもミナに倣い、素早く立ち上がった。
「毎度、有り難うね!」
皿を片付け、勘定を済ませ、女将の威勢の良い挨拶を背中に大通りへ出ると、満天の星々が二人を出迎えた。居並ぶ街路樹がざぁっと梢を鳴らし、夜気と、人々の喧騒とをない交ぜにして界隈を渡っていった。
「それじゃあ、……また」
「えぇ、おやすみなさい、キリエ」
ミナは笑い、踵を返し、その姿が人々のあわいに紛れて消えていく。手を振ってそれを見送り、キリエは、くあ、と欠伸をかみ殺しながらぐーっと両手を天に伸ばした。さて、おれも行こうかね……と誰ともなく呟き、酔い始めのふわふわした気分のまま、次の店を目指して歩き出した。
――ここは、……。
青年は。
青い世界の片隅で目を醒ます。
周囲の空気はひんやりと冷たく、あるかないかの風が、青年の褐色の頬をするりと撫でる。何度か目を瞬き、ふと空を振り仰いだなら、影絵のような木々の葉が星に彩られた群青を縁取り、さやさやと揺れている。降り注ぐ月光は下草の上に歪なレース模様を描き、低木の輪郭をなぞり、界隈を薄青く浮かび上がらせていた。
――俺は。
軽い頭痛を覚え、彼は、僅かに顔を歪めた。アイスブルーの双眸が、すっと細くなる。
――……一体、……。
青年は、この場所に覚えがない。
そればかりか、何故ここにいるのかも分からない。思い出せる最後の記憶は墜落の衝撃で終わっているが、その前後さえ定かではない。思い起こそうとしたところで、辺りを這う薄い靄のように、脳内に張り巡らされたヴェールがその行為の一切を拒絶するのだ。
鬱蒼としたこの森は、そこここで絶え間なく聞こえる虫の声を湛え、フクロウ――あるいは夜行性の鳥だろうか、低い鳴き声を頭上より響かせる。耳を澄ませたなら、遙か遠く、細波のような葉擦れに紛れて水の流れる音がしている。青年は小さく息を吐き、外套の裾をさばき、ゆっくりと歩き出した。立ち止まっていても埒があかない。だとすれば、……今はただ、前に進むべきだろう。それが良いか悪いかを判断するのは、もう少し後でもいい。踏み出したその足が靄を越えて砂利を踏み、パキ、と小石が割れた。
暫く往くと、木々の間にせせらぎを見た。川幅は割と広く見えるが、深さはそれほどではなさそうだ。せいぜい青年のくるぶしを軽く濡らすくらいだろう。木漏れ日のような月光が、白く淡い霧を侍らせながら、ゆらゆらとたゆたう水面で踊っていた。
岩に混じってところどころに突き出ているのは、水草や苔に覆われた、なにがしかの建物の残骸。かつては教会か神殿のような場所であったのか、崩れた円柱に、流れに半分ほど身を横たえた女神像もある。瓦礫に彫られたレリーフは殆ど朽ちており、青年は、鉄靴のつま先が水に浸るのも構わず、そのうちのひとつに手を伸ばそうとして、
「……、ん……?」
青年の頭頂部から張り出した両の獣耳が、ピン、と立ち上がった。
それとほぼ同時に、青年は面を跳ね上げる。アシンメトリーの前髪の向こうで、両目を眇める。空いた片手が無意識的に自身の太股に触れ、そこに括り付けられた鞘を、もっと言うのならそこに込められた長銃を、指で、掌で、確かめるようになぞった。
それは、黒い影。
夜の闇をそこだけ凝縮したように、遠く、せせらぎの向こう――青年のちょうど真正面に佇んでいる。完成した絵画に、誰かが悪戯に垂らした墨染のようにして、ただじっとそこにある。
――なんだ……?
目を懲らすが、その影は、微動だにしない。
ただ、視線は感じる。何かにじぃっと見つめられているかのような不快な感覚――かの影は、目や、それに類する器官は全く見当たらないというのに、強く、見られていると感じる。青年は唇を真一文字に引き結び、影から決して目を逸らさずに、静かに得物のグリップを握る……少しでも妙な動きを見せたなら、即座に迎撃出来るようにと。
……しかし。
「あぁ、やっぱり! ここにいたのか」
突如界隈に響き渡る飄々としたその声に、一瞬、集中が途切れた。
はっと瞬いたその先の風景には、既に、影がない。先ほどと同じように、鬱蒼とした森の水辺が広がっているだけだ。どこかへ行ってしまったのか、それとも最初からそんなものなどなかったのか、せせらぎと虫の声が満ちる界隈のどこにも違和感は存在せず、それは周囲をぐるりと見渡しても同様であり、……青年はふぅっと息を吐いた。徐々に近付いてくるカンテラの明かりに、それが照らし出す人影に、視線の狙いを定める。
「おっと……なんだよ、怖い顔するなって」それは、彼のすぐ傍で足を止め、声を立てて笑った。「折角、迎えに来てやったっていうのに」
男だ。年の頃なら二十歳を少し出た辺りの、若い男。
分厚い外套にその身を覆っていたが、中は随分と華奢なようだ。外套の裾を捌く足を見れば分かる。少なくとも、戦いを生業としているわけではないだろう。右手にカンテラを掲げ、左手には豪奢な装飾の施された杖を持ち、こちらを真っ直ぐに見据えたまま、柔和な笑みを浮かべている。人好きのする笑顔だが、絶対に気を許してはいけない――何故かそういう印象を持った。
「……誰だ」
青年には覚えがない。勿論、男が知り合いか、それ以上の関係かどうかも分からない。
なので、問うた。相手を見返したまま、低い声で。理由の如何によっては攻撃もやむを得ない……そのつもりで。
男は。
けれど、にやりと笑った。
「相手に名前を聞くときは、自分から名乗るのが礼儀ってやつだぜ、兄弟」
まぁ、いいや。今回はサービスだ。のんびりしている時間もないんでね――そう言うが早いか、唐突に、足を一歩引いて恭しく頭を下げ、次いで身を起こして両手を広げた。さながら、カーテンコールに呼ばれた演者のように。
「さぁさ、兄弟姉妹の皆様、どうぞご観覧! お初にお目に掛かります、不肖このわたくし、しがない舞台役者のキリエ・ルイゼと申します! 以後、お見知りおきを!」
当然、聞いたことはない。名前を聞けば思い当たるかといえば、そうでもない。
「キリエ……ルイゼ?」
なので、そう怪訝に返したのなら、男――キリエは、ふっと頬を緩めた。そうか、……良かった、と呟いたようだが、エルーンの聴力をもってさえはっきりした言葉には聞こえなかった。
そんな彼は、茶目っ気たっぷりにウィンクをひとつ、青年に寄越す。
「さて、今度は兄弟の番だ」
――……、……。
青年は、目を瞬く。名前、……なまえ? 俺の、……なまえ、は……?
分からない。思い出せない。脳内に張り巡らされたヴェールが阻んでいる。青年は深く息を吐き、胸を押さえた。衣類がぐしゃりと丸まり、そのただならぬ様子にキリエは不思議そうに小首を傾げたが、すぐに何かに思い至ったようにはっと目を見張り、深く頷いた。癖のある髪が揺れ、彼の耳を飾る装飾が、しゃらりと涼やかな音を鳴らす。
「ああ……そうか。『奪われた』のか。なら、仕方ない」
――『奪われた』……?
青年は顔をしかめる。キリエは、ニッと唇の端を上げ……すぐにその笑みを消した。
「いいか、時間がないから単刀直入に言う。おれに協力してほしい」
「何、……」
「悪いが、拒否権はないぜ。お前は『愛しの君』を探しているんだろ、だったら尚更だ」
「……、愛しの……」
分からない。覚えがない。だが、……その言葉は、妙に胸に引っ掛かる。苦しくなる。
「この《舞台》にお前の《役》は存在しない。因果律とでも言うのかな、このままではお前の存在はなかったことにされ、《舞台》の外に追放される。それは困るだろ? 《観客》とは違う折角の闖入者なのだから、おれが、そこに何らかの意味合いを持たせるのは当然のことさ」
「……、……何をする、つもりだ……」
青年は、呻くように言ってキリエを見る。キリエはただ、笑っている。
道化のようだ、と青年は思った。心からの笑顔ではなく、仮面でも被ったかのような不自然な笑顔。
「話が早くて助かるよ」
彼はますますその笑みを深くする。カンテラが照らす爛々たる彼の双眸は、毒々しい紅玉石の色も手伝って、暗闇でごうごうと燃え盛る焔のようだった。
「おれは、……この世界を破壊する」
ルリアは、はっとした。何度も、その目を瞬いた。
「戻ったのか」その声は、奥の方から聞こえた。「入れ違いになったようだな」
「え……?」
鼻先に、珈琲の香りが過ぎった。ちょうど焼き上がったところなのだろう、クッキーやフィナンシェやらの焼き菓子が醸し出す、少し焦げたバターの香ばしい匂いも。
そこは喫茶店のようだった。ルリアは開いた扉を背中で押さえたままで、目をぱちくりとさせていた。その腕の中には、紙袋に包まれた沢山の材料がある。新鮮なたまご、バターに、近所から分けて貰った牛乳やコーヒー豆のキャニスター、可愛らしい包装紙とカラフルなリボン……。
「あ、あれ……?」ルリアの声は掠れている。「さっきの、……お客様、は……?」
「お客様?」
怪訝な声は、カウンターの向こうから上がった。見れば、そこに青年が立っている。焦げ茶をした癖のある髪と、紅玉石のような赤の目と、すらりとした体躯の美丈夫。
「は、はい……女性の、お客様、で……」
ルリアはたどたどしく話し出した。紙袋を片手で抱えて、震える指で、店内を指す。
「……あそこに、座っていたんです。それで、……昔話を、してくれて、……」
窓際の席には、けれど、誰もいない。卓の上には、パルフェのグラスも、銀のスプーンも、デミタスカップも、何も置いていない。差し込む日の光が窓硝子を通して、妙な模様を描いているだけだ。もう帰ってしまったのだろうか? まだ話は途中だったはずなのに?
「……、そうか」
青年は、ため息と共にそう零し、ホールへと出てきた。狼狽するルリアの傍に立つと、彼女の目を、正面からしっかりと見据えた。
一呼吸置き、ぱん、と柏手を鳴らす。
「きゃっ!」
ルリアは、びくっと身を震わせた。近距離での突飛な行動に、思わずぎゅっと目を瞑った。抱えた紙袋が、腕の中でくしゃりと軽く潰れてしまう。
「んもうっ……! 何するんですか、サンダルフォンさん!」
「目は醒めたか」至って冷静に彼は言い、肩を竦める。「君の《出番》は終わった。そろそろ《舞台》からはける時間だぞ」
「えっ……?」
――何を。
言い掛けた、そのとき。
「ちょっとサンダルフォン! アンタ、勝手に戻ってるんじゃないわよ!」
聞き覚えのある声。金具の擦れる音。鉄靴が路面を踏み、駆けてくる音。
金髪の女騎士は、そうやって、喫茶店に飛び込んできた。ルリアが扉を押さえたままだったので、勢いを殺さずにホールの真ん中までやってきて、そのままカウンターに詰め寄った。
「いきなりいなくなるなんて、アンタまで行方不明になったかと思ったじゃないの!」
「それに関しては、すまなかった。ちょっと、嫌な予感がしたものでね」
青年――サンダルフォンは、全く悪びれずにそう言い、視線を不意にこちらへと遣った。ルリアの視線と噛み合い、一拍の後、金髪の女騎士が振り向く。二つに結わえた豊かなブロンドが、くるりと回った。
「あれ……?」緑青色の目が、ぱちぱちと瞬く。「ルリア、……ちゃん?」
「は、はい……」
あまりの勢いに、声を掛ける暇さえなかったのだ。ルリアは眉根を下げて笑った。
「お、……お久しぶりです、ゼタさ」
言い終わるか、否か。
「全くどこ行ってたのよ、皆心配してたんだから!」
「ひゃいっ!」
金髪の女騎士、ゼタの標的が切り替わった。カウンターから離れ、ルリアに歩み寄る。怒られると思い身を竦ませるルリアに、けれど、それ以上の追撃は来なかった。おそるおそるゼタを見たなら、彼女は腰を屈め、困ったような顔をしていた。
「ああ、でも良かったわ。怪我はない?」
「は、はい……!」
「よろしい」
上半身を起こすと、ニッと笑ってルリアの頭をぽんぽんと軽く叩く。
「あっ、ルリアちゃん、めーっけ!」
カリオストロの愛らしい声が響いたのは、ちょうどそのときだった。戸口に立った彼女は弾むように近付いてきて「もうっ、心配したんだぞ!」とルリアの額を小突き、ぷく、と可愛らしく頬を膨らませてみせる。
「ちょ……、ゼタ、いきなり走り出すなって……」
そこから少し遅れて、ベアトリクス。余程全力で走ってきたのか、ぜぇぜぇと肩で息をしている。その目が上がり、ルリアと目が合い、はっと見開く。ああ良かった、とその顔に、みるみる安堵の色が広がる。
――もしかして、探されていた……?
しかし、当のルリアの気分は晴れない。何かが胸に引っ掛かっている。
――私は、ずっとここにいたのに……?
「君たち、いつまでそこにいるつもりなんだ」サンダルフォンが、はぁ、と息を吐いた。「冷えるから、早く扉を閉めてくれ」
扉のところに溜まり、静かに喜びを分かち合っていた三人は、その一言で解散となった。ルリアも殆ど寄りかかっていた背を離し、扉を開放する。先ほど驚いて潰してしまった紙袋を覗き込んだが、たまごが無事だったのでほっとした。実は、少し心配だったのだ。
ゼタとベアトリクスは手近な長椅子に、カリオストロはカウンター席にそれぞれ腰を下ろした。卓に並ぶのは焼き菓子の食べかすだけが残った空の大皿と硝子のクロッシュ、氷が入った二個のグラス。それらをざっと眺め「さて」とゼタが口火を切った。鷹揚に足を組み、その目で、カリオストロとサンダルフォン――両者を交互に見遣った。
「役者もそろったことだし、そろそろ、何が起こっているのか説明してくれない?」