猫に香料、いちごにヘビ 最近、茨の距離が近い。
だからと言って、何か不都合があるのかと訊かれれば特別そんなことはなく。ただ、過酷なレッスン帰りの休憩だとかステージ終わりの控え室だとか、そういう人気の少ないふたりっきりの空間で、まるで甘えたな仔猫のようにすり寄って来られると、気の抜けたところへの不意打ちも相まってなんだか妙に緊張してしまうのだ。ただでさえ汗っかきな体質なものだから、ピタリと肌が触れ合いそうな距離で話しかけられると、シャワーの時間がなかったからベタついてやしないかなんて、オレはいろいろとぐるぐる考えてしまって、あんまり話を聞いていなくて怒られたりもする。そのくせ向こうは、オレのことなんか意にも介さず、さっさと引き上げて別の人と仕事に戻ったりして、おいおい今のはなんだったんすか?と尋ねる暇もない。気配を消してふらっと近寄ってきてくるりと足元を一周したらまた去っていく、メアリとは違うタイプのお出迎えの儀式に、ここ数週間オレの心は振り回されている。
「ジュ〜ン」
ほら、また来た。
「なんすか〜? オレいま汗臭いんで、あんま近寄んないで欲しいんすけど……」
「いつも一緒になって汗だくになってるんですから気にしませんよ」
誰もいないレスティングルームのソファーでスポドリを呷るオレの肩口に、背後から茨の顎がぽてんと乗せられ、軽くグリグリと押し付けられる。見慣れたワインレッドの髪が耳元でサラサラと揺れてくすぐったい。
「なんなんすか、もぉ〜」
「あっはは♪」
パッと身を離した茨は、おひいさんに叱り飛ばされそうな行儀の悪さで背もたれに腰を下ろし、性格悪そうにニヤつきながらオレを見下ろした。
「今日デオドラント替えたでしょう?」
「でお……? 何?」
「デ・オ・ド・ラ・ン・ト! 制汗剤のことです」
「あぁ〜…。まあ切れたんで新しくしましたけど……。えっ、それだけっすか? 用事があるとかじゃなくて?」
「用事といえば用事ですね、これが。それ、先月契約した会社の試供品でしょう? もうとっくに先方から届いたはずなのに、なかなか匂いが変わらないので、いつ替えるのか気になってたんです」
用事じゃねぇでしょ、それ。確かに茨の言う通り、これはEveでCMに出ている新商品の試供品だ。でも、すぐに試して感想を寄越せ、なんて茨にも先方にも言われていないし、いつ・どのタイミングでオレが制汗剤を替えようが茨にはまったく関係ないはず。なのに、それが気になって? もう半月くらいオレの匂いをこっそり嗅いでたんですか? わざわざ制汗剤使いそうな汗臭いタイミングを見計らって?…………それって、なんか…ものすごく……
「変態………」
「???」
「いやだって……。やばめの変態だろ……。あ、もしかして匂いフェチなんですか…っていたたたたっッ!」
すごい力で鷲掴みにされた顔面の骨が、ミシミシと音を立てる。
「……ジュンは知らない様ですので、教えて差し上げます」
解放されてチカチカする眼前に、ずいっと突き出される薄ピンクのスプレー缶。それは紛れもなくオレのリュックに突っ込まれていた件の制汗剤だった。
「これ表にはイチゴの香りとしか書かれてませんが、側面をよく見るともっと面白いことが書かれてるんですよ」
近すぎて追えない文字列を受け取って、なんとか読み込んでみるとそこには、
“まるで本物⁉︎ 特産いちご『いばらキッス』農家と共同開発!”
白地に濃いピンクで書かれた小さな煽り文句。
「ファンの間では『実質、茨くんの匂い』とまことしやかに囁かれているそうです。自分はこんな甘ったるい香料好みませんが……、よかったですねジュン! これでレッスンの度に茨くんの匂いですよ!」
「は、はぁ〜〜〜〜⁉︎」
いやなんかオレ宛の試供品にしては、ずいぶん可愛いパッケージと匂いだなとは思ってましたけど‼︎おひいさんが真っ赤なりんごの香りを喜んでつけてたんで、まぁ貰い物だし…とか納得してたんすけど⁉︎
「ちなみに頂ける試供品の香りを選ばせてもらったとき『ジュンはいちごが大好きだからきっと喜ぶ』と言ってそれを提案したのは閣下でありま〜す。ジュンは仕事でいなかったので⭐︎」
「とめてくださいよ!」
「ジュンが頂き物を無碍にできない質なのは知ってますが、まさかなんの疑いもなく使うと思ってなかったんですよ。それでも何も言ってこないから、まさか本当に使ってるのか?と気になって確認したら、止め時がわからなくなって…。あとはご存知の通りです。あっはっは⭐︎」
「うぅ〜、がっでむ……。みんなオレで遊びすぎなんですよぉ〜」
がっくり項垂れたオレと満面の笑みの茨で撮った写真は上のふたりに共有され、しばらくネタにされたのは言うまでもない。