「七緒ちゃん、今日はりんごが安いよ!」
東京来て二度目の冬。
新しい年まで数日となったその日、コートにくるまれながら七緒はマンションまでの道を歩く。去年の冬に幸村と一緒に買ったものだが、もこもこした感触が気に入っていて、それを着るだけで寒さが吹き飛ぶような気がする。
そして、商店街を歩いていると、すっかり顔なじみとなった果物屋の店員に話しかけられる。
「りんごか……」
幸村の出身である信濃はりんごの産地として有名だが、幸村が過ごした時期はまだりんごの栽培がされていなかったらしい。
そのため、こちらの世界でりんごを口にしたときはその甘さと酸っぱさが混ざった味に目を白黒させていた。
でも、それは最初だけのこと。その後、りんごは幸村の好物のひとつに加わった。
「七緒ちゃんのところの旦那さん、よく食べているよね?」
「旦那って、私たちまだそんな関係じゃないですよ」
照れ隠しもあり思わずそんなことを言ってしまう。だけど、その答えは想定内だったのだろう。若い店員は面白がってさらに話しかけてくる。
「この間も仲良くこの店の前を手をつないで歩いていたじゃない。ふたりとも嬉しそうにしながら。それに左手の薬指についているそれ、気になるな~」
店員の言葉に七緒はドキリとする。
隠しているつもりはなかったけど、だからといってそのことを聞かれると恥ずかしいものがある。
そして、七緒は数日前のクリスマスイブに起きたことを思い出す。
その日、幸村がディナーとして連れてきてくれたのは都内のレストランであった。
いつもカジュアルな店に行くことが多かったがそれよりも遙かに格が高いことが伝わってきたため、七緒は下ろし立てのワンピースを着ることにした。ベロア生地に花柄が浮かび上がるようなデザインは少し大人っぽい気もしたが、その日はそれが着たい気分であった。
「素敵ですね……」
電車の中で幸村がほんのり頬を染めながらそう言ってくれたのが嬉しかった。
そして、幸村も普段のラフな格好ではなく、スーツを着ている。異世界で過ごしてきた彼にとってはあまり着ない類いのものであろうが、少なくとも七緒の目には着こなしているように見えた。
「素敵なお店ですね……」
「ええ、せっかく二十歳になったのですから、一緒にワインを楽しみたいと思いまして」
その言葉を聞いて七緒は思い出す。
幸村が現代に来てから毎年クリスマスはともに過ごしているが、自分は未成年のためアルコールを楽しむことがせず、幸村が楽しそうにワインを飲む様子を近くから眺めていた。
『あなたが二十歳になったら、一緒にお酒を嗜みましょうね』
その言葉を覚えていたのだろう。些細と言われればそれっきりだけど、そのときの約束を七緒の胸がトクンと音を立てるのを感じる。
食事は粛々と進んでいく。
ドレッシングが味を引き立てる前菜、丁寧に作られたスープ絶妙な焼き加減とソースによるハーモニーを引き出すメイン、そして食後のコーヒーなどなど。
どれもが絶品で、さらに初めて飲むワインも七緒にとって飲みやすいものであった。
そして、気分がすっかり高揚した頃、幸村が神妙な面持ちで七緒を見つめてきた。
「今日は折り入って話がありまして……」
なんだろ。
一瞬、不安な気持ちが横切るが、クリスマスイブにこのような場で食事をともにしているのだから、悪い話ではないはず。
むしろ……
つい期待の気持ちが大きくなるのを七緒は感じる。
「あなたがまだ学生という立場であることは理解しているのですが……」
そう前置きをし、七緒の瞳を真っ直ぐ見つめてくる。出会った頃から変わりがない澄んだ瞳で。
「私と結婚していただけませんか?」
七緒は歓喜の気持ちで胸がいっぱいになる。
異世界にいたときから抱えていた幸村と一緒にいたいという気持ち。
戦国時代では自分の年頃の女性の結婚は珍しくないが、一方、現代でその年頃で結婚する人はほとんどいない。彼との先行きの長さを考えてため息を吐いたことも一度二度ではない。
「卒業後で構いませんが、こうして言葉にしないとあなたは魅力的ですので、他の男性に取られそうで……」
不安げに幸村はそう語る。
その言葉を聞いて七緒はぶんぶんと首を横に振る。
時空を越えて巡り合い、想いを交わし、そうして結ばれた男性。それ以外の人に目移りすることがあるわけない。むしろ令和の世に適応していくに従い、幸村が自分から離れていくのではないかと不安に気持ちすらあるのに。
「嬉しいです。一緒にいたいのは私も同じだったから」
その言葉を聞いて幸村は安心したらしい。
ポケットから何かを差し出してくる。
「少し早いですが、お約束の品として用意させていただきました」
七緒の目の前にあるのはラッピングがほどこされた小さな箱。
話の展開から何が入っているかは想像に難くない。
「開けてもいいですか?」
「もちろんですとも」
七緒はそっと箱に掛けられていたリボンを外す。そして、包装紙を丹念に開く。
箱の中から出てきたのは指輪だった。学生の自分でも普段使いできるシンプルなデザインの。
「さっそくつけさせていただきますね……」
そう言いながら指輪をはめる。まるで幸村が傍で守ってくれるような安心感。それに包まれているような気がした。
「七緒ちゃん、その様子だといいことがあったみたいだね」
記憶を呼び起こしていたら自分の世界に入っていたらしい。果物屋の前でりんごを見つめながら固まっていたことに七緒は気がつく。
詳しいことを話さなくても店員は何かを察したのだろう。
りんごの袋をつかんだ七緒に「よかったね」、左手の薬指を見ながらそれだけを話してくる。
そして、りんごを受け取った七緒は歩を進める。きっと愛しい人が待っているマンションへ。
冬の東京の風は冷たかったが、そんなことを気にしないくらい温かい気持ちになりながら七緒はマンションまでの道を歩いた。