「いただきます」
シチューを目の前にして千尋はその言葉を口にする。
ここは橿原の葦原家。
それなりの築年数があるこの家ではかつて那岐を含めた三人で暮らしていたが、大学進学を機に那岐はこの家から出ていってしまい、今住んでいるのは千尋と風早のふたりのみ。
千尋に対し、風早は驚いているとも感心しているとも取れるような表情を見せる。
「あらためて聞きますがせっかくの結婚式前日なのに、シチューでいいのですか? 例えば外食とかいくらでもあるのに」
今日の夕食のメニューであるシチューは風早が作ったもの。
そんな風早に対し、千尋は首を横に振りながら答える。小さな笑みを添えて。
「むしろ風早の作ったシチューだから、今日食べたいの」
ずっとこの味が大好きだったから。
そうつけ加えながら千尋は呟く。そして、スプーンでそっとシチューをすくって口にする。
明日、千尋は風早との結婚式を挙げる。
記憶に残っている限り、自分の傍で常に守り続けてくれた大切な従兄。
それがいつしか恋愛感情へ変化していた。
そして風早も同じ気持ちだとわかり恋人となり、そして千尋が就職して仕事に慣れてきたのを見計らい結婚することとなった。
もっともふたりは引き続き住み慣れた家で暮らすことになり、また名字も同じため、変わるのは戸籍上の関係のみといっても差し支えないのだが。
それでも大切で、そして大好きな人と夫婦になれるのは嬉しい。そんなくすぐったい気持ちが心の奥底にある。
「この間、不思議な夢を見たの」
シチューを口にした千尋が何やら思い出し、そう口にする。
「夢、ですか?」
「うん。こことは全然違う世界で私は『姫』と呼ばれていたり、弓を持って戦ったり、はたまた『王』としてみんなにかしずかれていたりしたの。風早も着物みたいな格好をして、剣を持って戦っていたな」
戦いは恐かったけど、風早がカッコよくて頼りになったな。そんなことをつけ加える。
夢の内容を思い出しているのだろうか。
千尋は心ここにあらずといった様子だった。
「でも、妙にリアリティのある夢だったな……」
戦いの中に身を置き命の危険を何度も感じたこと、目の前で多くの者が亡くなりそのことを陰でこっそりと嘆いていたこと、そして風早と想いが通じたかと思えば目の前から立ち去られ心が引き裂かれるような気持ちを味わったこと。
それらすべてが実際に体験したかのように心に刻まれている。
「ええ、でも所詮夢ですから」
風早は優しい声で話しかけてくる。
「そうだよね。夢だよね」
その声に安心して千尋も自分に言い聞かせる。あれは夢だと。あんな殺戮も風早に対する激情も、この穏やかな世界では起こるわけがない。起こるはずがないのだと。
千尋の表情が和らいだのを感じたのだろうか。風早が笑みを見せる。
「千尋の表情を曇らせるものすべてから守りますから」
「風早ったら大げさだよ」
口ではそう言うが、昔から何かと自分を守ってくれたこの人が改めてそう言ってくれると大きな安心感に包まれている感じがする。
その後、会話をすることもなく夕食は滞りなく進む。会話はなくてもふたりでいるだけで十分だった。
皿が空になり、ごちそうさまと口にする。本当はシチューをもっと食べたかったけど、明日のことを考えて自重する。
「洗い物は俺がしますから、千尋は早めに寝てください。せっかくの花嫁が目の下にクマを作れば大変でしょう?」
「うん、ありがとう」
風早に半分強引にうながされたこともあり千尋は寝室に行くことにする。
ベッドに横たわり明日のことを頭の中で整理する。
親を亡くしたこともあり、結婚式に参列する親戚は那岐を除いていない。互いの限られた交流関係の中で気心しれたほんのわずかの友人が出席するのみとなっている。
だけど、ふと気になるのだ。自分たちの結婚を誰よりも報告したく、そして祝福してほしい大切な『仲間』がいたような気がすると。
窓から見える夕陽は最後の光を残して消えていく。燃えているような赤がなぜだか印象的だった。