別れた時空の先には意識を戻したときに見えたのは青空だった。
雲は多少あるものの、梅雨の合間に見せた青い空。
そして手にしているのは花束。入院中のおばあちゃんに渡そうと持ってきたもの。
-帰ってきたんだ。
梓はそのことを実感する。
体感的には数ヶ月前に何者かに呼ばれたような気がし、そして次に目を覚ましたときにいたのは異世界。怨霊がうごめく世界でさまざまな人と出会い、そして……恋をした。
だけど、その恋の結末は悲しいもの。
途中想いが通じたと感じたのは気のせいだったのかもしれない。
初めて恋をした相手は何よりも帝都の未来を考え行動する者。その姿勢に惹かれたが、相手にとってはやはり自分の存在はそこまでのものではなかったらしい。
「幸せに」。その言葉が示していたのは別れ。
そして、梓もその言葉に頷き帝都から去ることになり今にいたる。
「行こう、おばあちゃんのところに」
そしてすべてを話そう。こんな結末を迎えたけど、素敵な恋をしたと胸を張ろう。
そう思いながら梓は階段を降りて病棟へ向かっていった。
「お帰り、梓」
病棟に行くとそこにはいつもと変わらない、いやいつもよりも優しさに満ちている祖母の笑顔があった。
そして真っ先に気づいた違和感。そう、それは「お帰り」という言葉。
……そういえば。帝都に向かう直前、祖母の声で「長い旅をする」と聞こえたような気がする。
だとすれば、この目の前にいる祖母は何かを察していたのだろうか。
泣くのをこらえながら祖母を見つめたところ、すべてを悟っているかのような瞳が梓の心の中にある堤防が決壊してくるかのような感覚に陥る。
本当は祖母に何を知っているのか問い質したかった。だけど、今はわんわんとまるで幼い頃のように泣きたかった。そしてそんな梓の頭を祖母は優しく撫でてくれる。ただひたすら、そして優しく。
いつか真実にたどり着くことができるかもしれないけど、今の自分に必要なのは心を癒すこと。
そして、有馬との恋は破れたけど、そんな素敵な人と出会い、好きになれたことに感謝したい。
祖母に触れられているうちにそんな風に思うことができた。そして、梓は病院から帰ることにした。また来ればいいのだから。そんな風に思いながら。
「番号札をお返しします」
病院の面会の際、入り口で簡単な申請をし、それと引き換えに番号札を渡される。
毎日のように来ているため慣れたことではあったが、一方で梓にとって憂鬱となる出来事があった。
それは警備員の中に雰囲気がこわいと感じる者がいることであった。梓が手続きをしているとまるで睨まれているような感覚にすら陥る。そんな風に思わせる者がいた。
不審者の侵入を防ぐという意味では正しいのだろう。だけど、必要以上に鋭い眼光に見つめられると自分が何かしたのではないかと感じてしまう。実際はさておき、梓には心当たりはないにも関わらず。
幸い、その日は苦手な警備員はおらず、梓はほっとしながら家路に着くこととなった。
数日後。
その日も梓は祖母の入院する病院へ行くことにした。
こっちの世界に戻ってきてから高校に通い、病院に通って祖母の顔を見ることで日常生活を取り戻しているものの、一向に有馬との想い出が色褪せる気配は見せない。それどころか会えないとわかっている分、より一層彼への想いが募る気がする。
はあっとため息を吐きながら病院の玄関に向かうと、見覚えのある影が梓の目の前を通った。
ベレー帽を目深に被り、襟に着くか着かないかの緑掛かった髪の毛。似た容貌を持つものを割と最近見た気がする。
「村雨先生!」
反射的にその名前を呼ぶ。
村雨と呼ばれた男も梓の方を振り向く。
そして、目を見開いて、そこに立ち止まる。予想外の出来事に動けなくなっている、と書くのが正しいのかもしれない。
「驚いたな。まさか、あんたとまたここで会うことになるとはな」
また……?
村雨の言葉に引っ掛かることものを感じていたのが顔に出ていたのだろう。
そして村雨もそれを感じたらしい。
「やはりあれは夢ではなかったらしいな。ちょっと時間あるか?」
村雨の言葉に頷く。あまり遅くなると祖母が心配するかもしれないが、多少なら大丈夫だろう。
そこでふたりは人目のない場所-屋上へ行くことにした。
梓にとって異世界へ向かうことになった出発の地でもある屋上。そこで梓は異世界に連れられるまでの経緯、そして有馬との関係を端的に話した。
「そうか。有馬とはそんなことになっていたのか」
村雨とは出会った時期が他の者より遅いこともあり、また行動を別にしていた時間も短い。
もちろん彼は敏い人間であるため梓や他の者の心の機微はとらえていたであろうが、具体的な進捗は知らなかったのであろう。
夜会で想いを告げようと思ったものの、彼の心にあるのは帝都の未来と自分が元の世界で幸せに暮らすことで、自分との幸せを願っている訳ではないことを思い知らされた。
そして、目の前の村雨が驚きの表情をしていたことも、有馬の気持ちが自分に向いていないことを客観的に示しているようにも思えた。
だから次の言葉が自然と出る。
「ええ、帝都のことが何よりも大切だと思いますし、そうであってほしいのです」
そんな深刻に話す梓を村雨は意外そうに見つめる。もっとも梓はそのことに気づかないようであったが。
「いや……」
小さくそう呟く。もっともその言葉は梓の耳には入らないようであったが。
「おっとこれ以上は俺が話すことではないな」
それだけが梓の耳に入ってくる。
この人は何かを知っている。
そうは思っていてもこれ以上は聞いても教えてくれる気がしない。祖母と同様。そのため、梓は別のことを聞くことにした。
「ところで村雨先生はなぜここにいるのですか?」
すると村雨は梓にとって意外な事実を口にする。
「ああ、あんたには話す機会がなかったか。俺はもともとこっちの世界の人間なんだよ」
「ええ!?」
それしか言えなかった。
言われてみれば思い当たる節はある。
高校生という立場を違和感なく受け入れた。
他にも納得する箇所は多々ある。
「あの日、あんたが時空を越えようとしているところに遭遇してな。あんたをこっちに留めようとつかまえようとしたら、俺も連れ去られたんだ。異世界にな」
まさかの事実に梓は唖然とする。
この病院に訪れていたことも今知ったが、連れ去られそうになった自分をつかまえた結果、逆に異世界に連れ去ることになったことも。
申し訳ない気持ちが梓の中を駆け巡る。
「でも、随分と馴染んでいましたが…」
すると村雨は余裕ある瞳で梓を見つめる。そこには異世界に連れ去られたことに対するマイナスの感情は見られなかった。
「まあ、あんたが来る5年も先についていたし、それに他にも理由があるしな」
5年……
自分が帝都に着いたのは確か1923年だったはず。
村雨はおそらく1918年にたどり着いていたということだろう。
そして気になるのは「他の理由」。だけど、聞いたところで話してくれるような気がしない。だから聞かないことにした。
話を終えたふたりは階段を下りる。そして、村雨は同僚の見舞いへ訪れるという。梓は簡単に挨拶をし、祖母の元へと向かう。
……そう言えば。
梓は廊下を歩きながらひとつのことを思い出す。それは以前はよく顔を見ていた苦手な警備員をここ数日は全然見ないと言うことを。
苦手なものに会わなくて済むため本来であればすっきりするべきだろう。だけど、なぜか心の中が晴れない。そうしているうちに梓は病室へと着く。
ふとそこでネームプレートをチラッと見る。
「高塚、千代、と」
部屋が変わることもなく、今日もこの病室にお世話になっている。そう思いながら梓はひとつのことに気がつく。祖母の名前が帝都にいたときに対の存在であったものと同じ名前であること。
その千代は異世界からさらに別の世界へ飛ばされたと九段から聞かされた。それがどこの世界かはさすがの九段にもわからなかったが、自分が元いたこの世界であっても何ら不思議ではない。
はやる気持ちを抑えながら梓は祖母の元へと駆け寄った。
「ねえ、おばあちゃん、本当のことを教えて!!」
「そう、だったのね……」
全てを聞き終えた梓はそれしか言うことができなかった。
千代が自分を守るために祈りを捧げたこと、そしてその結果こちらの世界にたどり着き、それから今日に至るまでのこと。ひとりの女性、それも白龍の神子という立場の女性が過ごしてきた時間は決して軽いものではなかった。
途中、何度も梓は涙が出てくるのを抑えられなかった。
「こっちの世界に行くときに白龍の声が聞こえたの。みっつの願いを叶えると」
帝都の平和を守るために尽力したことに報いたいとのことだったらしい。
祖母であり千代である彼女はまだ帝都を平和に導いた訳ではないので辞退しようとしたものの、白龍は梓や八葉の今後の働き確信したため千代の辞退を聞き入れなかった。
「それで願ったの。ひとつは進さんと結ばれますように、もうひとつは梓ともう一度会うまで長生きできますように」
そして、梓の顔を見つめてにっこりと笑う。その顔には皺が刻まれ、髪の毛の色も変わったが、確かに帝都で自分を優しく温かく、そして強く励ましてくれた瞳は見覚えあるものであった。
「最後のひとつは梓が幸せになりますように」
自分の幸せ……
それを願ったのが千代らしいと思う。どんなときも周りへの気遣いが感じられる。だからこそ、彼女は白龍の神子に選ばれたのだろうと思う。
でも一方で思う。帝都に来たばかりの頃願っていたのは元の世界に帰ることであった。しかし、帝都で有馬と過ごすうちに元の世界に帰ることよりも有馬と結ばれたいと願うようになった。
でも、その恋は破れてしまった。ということは、そ
の願いは叶わなかったということだろうか。
「梓がここにいるということは、有馬さんの意思を尊重したのね」
千代が梓の髪をくしゃりと撫でながらそう話す。
こっそりと千代に打ち明けた有馬への想い。それを時空を越えた世界で数十年の年月を経た千代の口から聞かされるとは思わなかった。
それにしても。
先程も思ったが、姿形は帝都で見かけたときと変わったものの、意思の強い瞳はまったく変わっていなかった。梓はそのことに安心する。
「今は道が別れているかもしれないけど、また巡りあえるはずよ」
千代はそう話してくる。
だけど、梓はそうとは思えなかった。
同じ時空にいるのならともかく、別の時空にいるのであればどうあがいても出会うことはできない。
落ち込む梓に対し、千代はうふふと笑いながら梓を見つめてきた。
「もしかすると近くにいるかもしれないわ」
その言葉を添えながら。
「面会札をお返しします」
何回と通った来客用入り口。いつものように梓はそこで面会札を返そうとした。
「ああ……」
その短い声に梓は聞き覚えがある。
まさか……
そんな訳はない。
いつまでも忘れられないから聞き間違えたはず。
そう、有馬さんがここにいるわけはない。彼は帝都のために生きていくことを選んだのだから。
そう思いながらもどこか期待する気持ちを捨てきれず梓は頭を上げる。
するとまず最初に見えたのはネームプレートにある「有馬」の文字。
そして、次に映ったのは見覚えのある透き通った青い瞳。湖面のように輝き、時として鋭い光を放つものの、時として優しい光が差す瞳。
「まさか……」
梓はそれしか言うことができなかった。
だけど目の前の男性が有馬というのは思い過ごしではなのだろう。
面会札を預かるという単純な動作ができなくなっているのが梓の目からもわかる。
「少し時間はあるか?」
目の前の有馬からそんな言葉を掛けられる。
さっきも似たようなことを言われたな……
そう思いながら梓は頷く。
「もう少しであがるから、そこのロビーで待っていてもらえないか」
「ずっと近くにいたんですね…」
「ああ」
ふたりがいるのは近くの公園のベンチ。
夕暮れの日がふたりの長い影を作っている。
「あれは春先だろうか。黒龍に連れられ、こっちの世界に来た」
しかし、こちらの世界に来たものの、帝都と大きく景色は異なり、鉄道事情も異なっているため地理感覚もあてにならない。
あてもなく彷徨い、腹を空かせ、水分を欲していたところ、ひとりの老女に会ったらしい。
通院帰りだと話す彼女は見知らぬ有馬に優しく接してくれた。水や軽食を恵んでくれただけではなく、住まいや仕事を探すことにも力を貸してくれたとのことだった。
「それが駒野だった。俺たちと別れてから何十年もの時間を過ごしてきた」
それを聞いて梓は先ほど会った千代の顔を思い出す。
千代の中では数十年と経っているが、帝都で白龍の神子として務め、ともに過ごした仲間-ましてや対である自分が恋心を抱いていた相手のため、忘れることはなかったのだろう。そして、彼女や自分の関係を考慮して世話をしたのだろう。
そして、春先と聞いて思う。気づかないだけで、あの世界に行く前に既に有馬は傍にいた可能性があったことに。
同じことは有馬も考えていたらしい。
「この世界のどこかにお前がいるだろうとは思っていた。だけど、肝心の駒野は何も教えてくれない。ただ、『そのうちわかるわよ』と話すだけだった」
事情が変わったのは、その千代が入院してからであった。
見舞い客として梓が訪れたときは心臓が止まるかと思った。冷静に手続きをし、面会札を渡したが、ひとつのことに気がつく。
それは梓が自分のことを知らない風であることを。
恐らく自分と出会う前の時空にたどり着いた。そう判断し、時が経つのを待つことにした。
「あの警備員さんは有馬さんだったのですね……」
「ああ、こわがらせてすまない」
「いえ、事情がわかったから大丈夫です」
怖いとすら思っていた警備員。
だけど、それは自分のことを注視していたからに違いない。いつか自分が別の世界へ行き、そして有馬と出会うのを待っていたに違いない。
「だけど、数日前……」
休憩に入るため院内を歩いていたところ、廊下でひとりの少女とすれ違う。それが梓であった。
この世界で至近距離で会うのは初めてで驚いたが、もっと驚いたのは彼女が目に涙を溜めていることであった。
そのことで時空を越え、異世界に行ったことを察した。そして涙の原因が何であるかも。
しかし、今はその涙を拭う立場でないことも感じ、歯がゆい思いをする。
時が巡るのを待つしかない。そう言い聞かせながら。
有馬の話を聞いていろいろな疑問が解消されるのを感じる。
だけど、納得できないことがひとつある。
「有馬さんはなぜこっちの世界に……?」
あれだけ尽力した帝都を捨て、この世界にわざわざ有馬が来た理由がわからない。
ひとつだけ思い当たる節はあるが、一度彼に別の幸せを見つけるように言われた立場から切り出せるほどの勇気もない。
「その、それはだな……」
目の前の有馬もしどろもどろになっている。
そして、手で隠された頬はほんのりと赤く色づいていることにも気がつく。
そんな彼の様子を見ていると、今すぐ彼の口から無理に聞き出さなくてもいいような気がした。
「大丈夫ですよ。有馬さんの気持ちはわかっていますから」
異世界で別れたときに告げられた言葉で梓は返す。
自分たちが帝都でともに過ごした時間はほんのわずか。だからこの目の前の男性の思っていることを100%理解できているとは思えない。
だけど、器用とは言えない彼が黒龍に連れてこられたとはいえ自分のいる世界から逃げ出そうともせず、むしろ自分との再会を待っていた。
そもそもあれほど帝都を守ることに尽くしてきた彼がここにいること自体、ひとつのことを意味しているようにしか思えてならない。
「高塚、次、駒野の見舞いはいつになる?」
「おばあちゃん、千代のお見舞いですが、ほぼ毎日来ているので、明日も来るかと思います」
「そうか……」
梓の言葉に有馬がほんの少し頬を緩めたように思える。
「もしよろければ、明日来るのであれば会えないか?」
有馬の言葉に梓の心は弾む。
帝都では叶わなかった有馬と同じ未来を見ること。
その願いが格段に近づいたのを感じる。
少なくとも明日は会える。その小さな、でも大きな未来につながるであろう約束を口にされ、希望につながる。
大きく頷きながら梓は返事をする。
「はい!」