情操教育玄関に荷物を置き、単独リビングに乗り込む。ヨガマットの上でプランクをやっていた影山が顔を上げて「おかえりなさい」と言う。
「ただいま」
「荷物、どうしたんですか?」
「あのさ、影山って動物得意?」
影山は不思議そうな顔をすると筋トレをやめ、居住まいを整えた。
「動物?別に……俺は動物のこと特に何とも思ってないけど……動物が俺のことを多分好きじゃない」
ちょっと不貞腐れたそうな顔をする影山を見て、高校生の時に「俺、なんか動物に嫌われている様な気がします」と呟いていたのを思い出した。帰り道に出会った野良猫が、俺の足にすり寄って甘えてきたときのことだ。未だに和解への道は遠いらしい。
俺は気のせいだよ、と言いながら「喘息とかあったりする?」と続けた。
「ないです。アレルギーもない」
「犬派?猫派?俺はどっちかっていうと犬派」
「どうしたんですか?」
さすがに影山は不審げな顔を浮かべ、「単刀直入に言え」と言わんばかり声を出した。
「うちのクラスでハムスター飼ってんのね。あ、名前はななみちゃんっていうんだけど。いつもはいきものがかりが面倒見てくれてるんだけど、長期休みになると学校閉まるから面倒見てくれる人募集してるんだよ」
「見つからなかったんですか?」
「いや結論を言うとそうなんですけど。最初は希望者もいたんだけど、おうちの人に聞いたらみんなダメで……」
「いいんじゃないですか別に。菅原さんの家だし」
「ほんと?なんか我慢してたりしない?」
「ハムスターって小さいネズミみたいなやつですよね?なんか我慢するようなことあるんですか」
「うーん……臭いに敏感な人はちょっと困るかも……」
「臭いはそこまで気にならないんで。ケージに入れてるんですよね?だったら踏み潰すとかもないと思うんで」
「ほんと?いい?」
影山が首肯すると同時に俺は素早く玄関に戻り、自分の荷物とバレーボールが丸々収納できそうなサイズのケージを持ってリビングに戻った。
筋トレを再開していた影山は俺の手にあるものを見て「え?今日からの話?」と目を丸くした。
基本は俺が面倒を見るものの、夜は影山の方が早く帰宅することもあり、手伝ってもらうことにした。ちょっとだけ情操教育の意図もなくはない。
口頭で軽く説明した後、生徒たちが自分でつくった「ななみちゃんのトリセツ」を手渡す。影山はパラパラとめくりながら「字、汚いっすね」と自分を棚に上げて言った。
ずっとケージの中を眺めている影山に「触る?」と尋ねる。影山はぎょっとした顔を浮かべてわかりやすく狼狽えた。
「いいっス、いらない」
「噛まないよ」
「いや、そうじゃなく……」
「怖いのか」
ニヤリと笑って揶揄ったものの、影山はケージに視線を向けたまま、少し間をおいてからコクリと頷いた。
「握りつぶしそう……」
握りつぶすなよ、と思ったがななみちゃんも知らない環境にきたばかりできっと緊張しているだろう。
さっきからずっと回し車を爆走しているが、きっとそうに違いない。
翌朝、リビングに行くとジャージ姿の影山がまたもやケージを覗いていた。
「どうした?」
「こいつ、一晩中カラカラやってたみたいですけど、眠れないんですかね」
心配そうな様子に、口元がにやけるのを必死にこらえる。
「夜行性だから夜は活動的なんだよ。もう寝てるだろ?昼は大体小屋の中で寝てる」
「そうなんですか……」
小屋の入り口は小さく、外からは真っ暗で様子が見えない。影山はソワソワしているようだった。
「ジャンガリアンハムスターっていうんだよ。小さいけどおとなしい性格だし、ななみちゃんは個体としても結構おっとりしてるっていうか……肝が据わってるからそんなに恐る恐るにならなくても大丈夫」
影山は口を開けたまま「ジャリガンハムスター……」とだけ呟いた。小学生みたいで可愛かったので訂正はしなかった。
影山は出るギリギリの時間まで俺が餌や水を変えたり、砂の取り換えやトイレの掃除をするのをじっと見ていた。
帰宅するとまた影山はケージの前にいた。
影山はおかえりなさい、と言うと「さっき近くまできました」と心なしか嬉しそうに報告してくれる。
「そういうとき餌やってみたら?おやつにひまわりの種とか、ハムスター用のクッキーとか野菜とかあるから。野菜はハムスター用のやつな。玉ねぎとかは毒だから」
影山はコクコクと頷き、俺から乾燥したカボチャを受け取ると、ケージの隙間から差し出す。ななみちゃんはすぐに反応した。少し近くまで寄ってきたが、警戒しているようだ。
影山がいささか前のめりになっているのと、眼力が強すぎるのが気になる。肩をつかんで少し後ろに下がらせると、ななみちゃんは立ち上がって耳をピンと立てた。
「少しじっとしてな」
影山はアドバイス通り声も出さずに、ほんの少し首を縦に動かしただけだった。しかし、その努力もむなしくななみちゃんは巣に帰ってしまうのだった。
「やっぱり嫌われてる」という顔で沈んでいるので「たまたまお腹いっぱいだったんだよ」と慰め、頭を撫でてやる。
「寝る前とかにもう一回チャレンジしてみような」
そう言いながら、「次拒否られたら影山のメンタルがどうにかなってしまう」と心配でもあった。
影山が寝る準備をしているところに声をかける。影山は近づいてきて俺のそばに座った。
「両手出して」
影山が手で大きな器をつくったところに、ななみちゃんを乗せる。
驚いて思わず動こうとする影山を抑える。ななみちゃんは突然知らない場所に連れてこられたことでキョロキョロと周りを見渡し、とりあえず危険はなさそうだと判断したのか毛繕いをはじめる。
初めて間近で見たハムスターの毛繕いに、影山は驚きと喜びが入り混じった顔で俺を見る。
クシクシと顔を洗う姿がなんといっても可愛らしい。その後、髭まできれいに手入れして満足したななみちゃんは、影山の手をチョロチョロと動き回る。手からこぼれそうになるハムスターに慌てた影山は俺に助けを求めた。そのまましらばく見ていたかったが、SOSを出されては仕方ない。ななみちゃんをそっとつかむとケージに戻してやる。ななみちゃんはいつもの場所に戻ったことに気付き、また回し車を爆走する作業に戻った。
「寝るか」と振り返ると、影山は自分の両手をじっと見ていた。
「どうだった?ななみちゃんは」
「やわ、らかかったし、手はヒヤってしてたけど、毛がホワホワで……あとなんかモシャモシャ?してた……」
語彙は相変わらずだったが、興奮していることは伝わってきた。
その日から影山は俺よりもマメに様子を見てくれるようになった。
おやつを差し出しては食べてもらえると嬉しそうにしており、ななみちゃんも影山に慣れてきたのか気軽に近寄っていく。
ご飯を欲張りすぎて頬袋をパンッパンにするのを見て「病院に連れて行ったほうが」と狼狽える姿や、ケージの入り口から恐る恐る手を入れて指先で優しく体を撫でたりしている後ろ姿は、彼女がいなければ一生見られなかっただろう。成り行きで預かったななみちゃんではあるが、想像以上にいい影響を与えてくれている。うちに来てくれてよかった。
ただ先日、行為の最中にリビングから「カラカラカラ……」という軽快な回転音が聞こえて、影山が笑いだしてしまい、失敗してしまったことがあった。
落ち着いてからすみません、と気を取り直した影山だったが、俺は「やっぱ今日はやめておこう」と止めてしまった。
あの軽快な音はなんだか自分の教室や子ども達を思い出してしまい、なんだか気恥ずかしいというか、いたたまれないきもちになるのだ。
終わり