ルーナは夏の熱気が苦手だった。否応なしに流れる汗や蒸し暑い湿った空気に奪われる思考が不快でならない。黒衣森は生い茂る木々のおかげで照りつける日光こそ遮ることができるが、一方で雨の多い土地でもある。湿った空気が肌に纏わりつくのが何歳になっても慣れないものだ。だからこの季節になると早く過ぎ去らないかと思ってしまう。
「うぺぺ? 旦那さんどうしたっぺ?」
ぼうっと日の落ち始めた窓の外を眺めていると、どことなく間の抜けた声が下から聞こえてきた。丸い目がこちらを見上げている。アジムステップでナマズオの祭りの手伝いをしていたとき、気付いたら荷物袋に入り込んでいたナマズオだ。そのまま家に居座っているが、装備品の修理や簡単な掃除などなかなかに甲斐甲斐しい。同居人(ナマズオは人と呼んでいいのだろうか)は他にも居る。ナマズオと同じくアジムステップで出会って呪術を習いたいと強引についてきて弟子となったアウラ・ゼラの少女である。今は庭の木人相手に奮闘しているところだろう。
(いつの間にか賑やかになったものだ)
冒険者になる前は長い間ひとりで人里から離れて暮らしていた。なるべく人に関わりたくなかったのが理由だが、冒険者になってからは一変した。
「旦那さん? 暑さでどうにかなったっぺ?」
「いや、大丈夫だ。なんでもない」
すっかり暗くなった外の様子に、そろそろ弟子を呼びに行こうかと立ち上がったときだった。ばたん! と開かれた玄関から熱風が吹き込んでくる。そこに立っていたのは件の弟子だ。
「メルコレディ、玄関は静かに開けなさいと……」
「ねぇ! 変なのがいるの!」
興奮した様子で弟子ことメルコレディが腕を引く。思わず顔をしかめるルーナのことも意に介さず外へ連れ出そうとするのを、ナマズオが興味深そうに間に割って入った。
「うぺぺ、お嬢さん変なのって?」
「光が飛んでるの! とっても小さいのがたくさん!」
玄関から出ると湿気った夏の空気に包まれる。瞬間じわりと滲んだ汗にルーナはため息をついた。
「一体なんだって……」
「ほら、あれ!」
メルコレディが指差したのは川の辺りだ。水辺にちらちらと瞬きながらいくつもの光が揺らいでいる。ナマズオがひょこりとルーナの後ろから顔を出すと、ちょこちょことメルコレディのところまで歩いて行ってない肩をすくめるような仕草をした。
「なぁんだ、あれはホタルっぺよ」
「ホタル?」
「お嬢さん見たことないんだっぺ?」
「初めて見た……」
感心するメルコレディにナマズオが得意そうにホタルの説明を始める。ようやく腕を解放されたルーナは庭のベンチに腰かけた。ぬるい空気の中、夜の冷たさを孕んだ風がかすかに髪を撫でる。
「……」
はしゃぐ少女とナマズオを眺め、頬杖をつく。あとで軽く説教でもするか、と思いながらルーナの心境はどこか穏やかだった。不快だったはずの夏の空気が少女達の笑い声に紛れて気にならなくなる。不思議な心地にふっと口角が上がった。
「ねぇ、湖の近くならもっといるかしら」
「ホタルは綺麗な水辺にいるから、いるかもしれないっぺ」
「! ほんと? じゃあ行きましょうよ!」
きらきらと目を輝かせるメルコレディがルーナの前に立つ。ルーナはため息をひとつ吐き出すと、やれやれと立ち上がった。