14. A-(side:H) ガルグ=マクからミルディン大橋へ行くにはグロスタール領を通過せねばならない。領内を通過するにあたって父親と戦いたくないローレンツは近頃ため息ばかりついている。
「ねえクロードくん、本当にローレンツくんのおうちのこと大丈夫なの?」
育てている薬草の様子を見るため温室にやってきたクロードにヒルダは話しかけた。一応見合いした仲ではあるし親友の好きな人でもある。酷い目にあってほしくない。
「もう手配は済ませたからグロスタール伯は領地の北側に兵を集中せざるを得ない。俺たちの通り道はがら空きの予定だ」
近頃は詳細が分からず不安に苛まれているローレンツをマリアンヌが心配そうに見ていた。瓦礫だらけの聖堂で祈りを捧げる時も食事の時も傍にいる。だが彼女は無言で何もローレンツに語りかけない。マリアンヌが口籠るのは何を言うべきか分からないから、ではなく何を言うべきではないのか分からないから、ということをヒルダは知っている。彼女の中には沢山の言葉が詰まっているのだ。
「ローレンツくんが元気でないとマリアンヌちゃんまで落ち込むから」
「今思うと学生時代はあいつ本当に元気いっぱいだったよな」
女神の塔の言い伝えなど自分は気にしない、何故なら毎日が自分にとって好機だから、と本気で言っていたのをヒルダも覚えている。ローレンツがそんなことを真顔で言っていた頃は温室の硝子にひびなど入っていなかった。放置されていた温室はやはり今まで通りとはいかないようでクロードはヒルダと話しながらしゃがみ込んで周りに生えた雑草を抜き葉を入り込む風や虫から守るため薬草に薄い布を被せている。その横顔は貫禄をつける為に頬髭は生やしたものの学生時代とあまり変わりがない。
「前衛頼むんでしょ?それなら元気でいてもらわないとクロードくんだって困るんじゃない?」
「うわっ!危ない!」
だがリーガン公の葬儀の頃と比べて全体的に筋肉がついたようだ。学生時代なら不意打ちで背中を叩くと地面に膝をついていたが今は堪えている。
「本気出さなくてこの強さなんだからミルディンでの活躍期待してるぜ」
「ええ〜!あんまり私のことあてにしないでよ〜!」
ゴネリル家は反帝国派だが本当にあてにされても困るのだ。何せ親帝国派筆頭のグロスタール家の嫡子とゴネリルの紋章を継ぐ娘が見合いをしている。その絡みでグロスタール家からゴネリル家に何か要請があるかもしれない。だがクロードはそれも織り込み済みで策を立てているのかもしれない。
ミルディン大橋は要衝で帝国軍の守りは固く複数の砦から増援が続々と現れてくる。ここを通せば首都アンヴァルを守るメリセウス要塞が剥き出しになる、と帝国軍も分かっているので必死だ。エーデルガルトのお気に入りで帝国の臣民からも人気が高いというラディスラヴァが直々に守っている。クロードとベレトは流石に母国に攻め込むのは気がひけるだろうということでフェルディナントとリンハルトは前線に出さずガルグ=マクからミルディンまでの補給を担当させた。その二人が前線に出た者たちの話を聞いては首を傾げている。新しい斧と特効薬を受け取るためヒルダは物資を積んだ幌馬車にいたフェルディナントたちに話しかけた。
「二人とも何か気になることがあるならクロードくんに伝えておいた方がいいよ、頼りない盟主様かもしれないけど聞く耳はあるから」
どうやら二人はミルディン大橋を守る将がラディスラヴァだけであることが引っ掛かっているらしい。
「実験みたいな配置だよね。一騎当千は言い過ぎだけどさ、どれだけ普通の兵をぶつければ紋章保持者を確実に仕留められるのか計測でもしたいのかな?」
「何それ……」
アッシュやイングリットが好む騎士物語や戦記で紋章を持つ者が倒れるのは誰かを庇った時だけだ。戦いの最中ヒルダは激った血が身体中を巡り暑くて堪らなくなるのだがリンハルトの言葉を聞いて一気に血の気が引いていく。震えを隠すために腕をさするが残念ながら誤魔化せている自信はない。
「前線に出ていないが私とリンハルトも紋章を持っている。ヒルダさんもクロードもローレンツもイングリットさんもだな?」
「あとマリアンヌも、だね」
「えっ?そうなんだ。何の紋章なんだろ?」
ヒルダは兵種の都合でローレンツと同じく前衛を務めることが多く戦闘中にマリアンヌの背中を確認することはできない。ヒルダは彼女が紋章を持っていることすら知らなかった。
「それは彼女から口止めされてるんだよね」
マリアンヌの件はともかくこれは絶対にヒルダの口からもクロードに知らせねばならない。後に吟遊詩人が紋章を持った英雄たちの勇ましい戦いぶりを讃え薔薇色の大河と謳ったミルディン大橋の戦いは新生軍と称するレスター諸侯同盟の勝利に終わった。散った薔薇の花びらは放置され踏みつけられればすぐに茶色くなる。血と同じだ。そしてヒルダたちの身体に流れる血は紋章を宿している。フォドラの名家に生まれた者たちはゴーティエ家の兄弟のようにその有無に大きく人生を左右されてきた。エーデルガルトはそんな世の中を変えたいのかもしれない。
クロードは勝利に浮かれることなくすぐに皆を集めそれぞれの実家に向けて出立して欲しいと告げた。ラファエルのようにミルディン大橋に残る者もいるが殆どの者が北上するかヒルダやリシテアのように東へ行く。ミルディンから家が近いローレンツやリシテアは街道を使って馬で帰宅する。ヒルダも船の方が早いのだがアミッド大河の対岸から妨害されることを考えると飛竜が一番早そうだった。
当然ゴネリルまでは遠すぎて直接飛ぶことはできないので宿場町で乗り換えていく。激しい戦闘の後なので無傷の飛竜はおそらくいないだろうが傷が軽いものがいないか探しにヒルダが竜舎にやってくると何故かクロードがいた。クロードはベレトそれに家が遠いマリアンヌを伴って馬車でデアドラへ行くのでもう出発していてもおかしくないというのに先ほどの戦闘で自分が騎乗していた白い飛竜の手入れをしている。
「よう、遠いのに手間かけるな」
「クロードくんだけマリアンヌちゃんや先生と一緒なのが羨ましい」
マリアンヌはデアドラ港からエドマンドへ船で戻るのだろう。一度先方へ遊びに行ったことがあるがエドマンド辺境伯はマリアンヌと髪の色が同じで背が高くほっそりとしていた。ヒルダは娘と仲良くしてくれてありがとう、と礼を言われたがローレンツへの当たりはかなり厳しいらしい。
「ええ……そっちかよ!」
レアの代理人であるベレトがいればセイロス教会のお墨付きなので多少は風当たりが和らぐだろう。家臣や他の諸侯との話し合いの際にクロードがベレトを必要とするのはヒルダも分かっていた。
「それに一晩くらい休みたかったな〜。クロードくんたちは馬車で眠れるから良いよね〜」
「でも俺はデアドラに着いたら逆に休めなくなるからなあ」
構ってもらえて機嫌の良さそうな白い飛竜が鼻先をクロードの頬に押し付けている。戦闘中は黒い手袋で守られている褐色の手が白い顎を撫で回した。命を預ける動物は手袋ごしに触っても信頼を得られない。
「うふふ、ご機嫌だね。お留守番なのがちょっと可哀想なくらい」
「ヒルダ、こいつに乗っていってくれ」
クロードが盟主となってからずっと騎乗している飛竜だ。貴重な白子の個体で育て上げるのが非常に難しい。
「でもクロードくんと私じゃ鞍の大きさが違うよ」
「付け替えに来たんだよ。多分あってると思うから乗ってくれ」
踏み台は近くにあるというのにクロードは飛竜の足元で跪いて掌を差し出した。傭兵上がりのベレトがよくこれをやる。踏み台がない出先や踏み台を出すのが面倒な時に跪いて掌を差し出すのだ。レオニーやクロードそれにベレトは本当に身軽で階段を数段飛ばしで駆け上がるように馬や飛竜に飛び乗るがヒルダには自信がない。ちなみにローレンツは足が長いので鎧に足をかけ腕と背筋の力で普通に乗ることが出来る。
「やだ、台を出してよ〜!」
「大丈夫だって!転んでも俺しか見てないよ。転んだら踏み台持ってきてやるから」
ヒルダはレオニーのように数歩前から助走してクロードの掌を踏み鞍に手をかけたつもりだった。しかし姿勢が崩れクロードがどう庇ったのかヒルダには全く分からないが床に尻餅をついて寝転んだ彼の上に乗っかってしまっている。顔を上げれば目が合うが顔を下げていてもクロードの鼓動や身体の温かさがが伝わってきてこれもまた居た堪れない。ヒルダは意を決して顔を上げクロードの顔を見つめた。この角度だと彼の長い睫毛が翠玉の様な瞳に影を落とさないらしい。
「ごめん!クロードくん大丈夫?」
「いや、俺こそしっかり足場を作ってたつもりがこんなことになって……」
「やっぱり踏み台持ってきてね。鞍の大きさが合ってなかったら何度も乗ったり降りたりするんだから」
「異論はないが退いてもらわないと……」
見惚れる前に退こうと思ったがクロードにそう言われるまで赤く染まった滑らかな褐色の肌や太めの眉それに綺麗な鼻筋などからも目が離せなかった。色白なヒルダたちと違って顔色が分かりにくいクロードだがそれでも分かるくらい彼が顔を赤くすることがこの先あるのだろうか。きっとヒルダも顔が真っ赤になっているが上空は寒いから丁度良いのかもしれない。
ヒルダはクロードが持ってきた踏み台を使って改めて鞍に腰を下ろした。腰から膝までの長さが分からなければ正しい大きさの鞍は選べない。
「え、嘘でしょ!クロードくんがどうして私の鞍の大きさを知ってるの?!」
「そんなのよく見てたからに決まってるだろ」
クロードはローレンツから余計なことはべらべらしゃべる癖に肝心な時には口を閉じる、と言われている。だが目は口ほどに物を言うのだ。ヒルダは飛竜の手綱を手に取った。言いたいことも言わせたいことも山ほどあるがそれでも今は急いだ方が良い。
ミルディン大橋を越え帝国の本土へ侵攻していく前にヒルダたちはガルグ=マクに集合し下準備を整えていた。士官学校時代口数の少ないベレトが執拗に言っていた通り事前準備が成否の八割を左右する。ミルディン大橋の奪取に成功しダフネル家とセイロス教会を後ろ盾につけたクロードが諸侯たちとの交渉に成功したおかげで食糧が潤沢になりラファエルの機嫌が良い。ヒルダも実家で高い評価を受けゴネリル家も物資や兵を融通することとなった。その実家ではグロスタール家への義理を果たすために援軍を出したと聞いてヒルダは冷や汗をかいたが父と兄はどうやらクロードの度胸と着眼点を買っているらしい。マリアンヌもエドマンド辺境伯から資金を提供してもらうことに成功していた。
エドマンド辺境伯は久しぶりに戻ってきた養女に色々と持たせたらしくラファエルに荷物運びを手伝って貰っている。きっとお礼の品になりうる干し肉も行李に入っているのだろう。
「荷解きが終わったらヒルダさんのお部屋にお邪魔してもよろしいでしょうか?」
マリアンヌは自力で荷解きをしたら人が招ける状態でなくなることを見越してヒルダの部屋に行きたいと言っている。
「うん、良いよ。待ってるけど無理だと思ったら手伝うから声をかけてね」
やはり夕食の前には間に合わずマリアンヌは夕食後に土産物を持参してヒルダの部屋へやってきた。香水と色を付けた硝子を細かく組み合わせた洋燈は交易で手に入れた物らしくフォドラでは殆ど見かけない意匠をしている。
「わあ!すっごく綺麗……本当にもらっていいの?」
「はい……使っていただけたらとても嬉しいです。義父と二人で相談して選びました」
遊びに行って分かったのだがエドマンド辺境伯はマリアンヌのことをとても可愛がっている。侍女が片付けているであろう部屋は清潔で調度品は高価なものばかりだったし引き取った子供に箔が付くよう進学させ身の回りの品をふんだんに用意していた。
「夜だから少し飲もうか。前線に出たら勝つまでは酔っ払うのも無理でしょ?」
ヒルダは実家から持参した蒸留酒の瓶と硝子の杯を二つそれに錐と空の深皿を机の上に置いて水差しから水を注いだ。察したマリアンヌが掌を皿にかざすと皿の中の水が凍っていく。
「錐を貸してください」
マリアンヌが錐で氷の塊を突いて砕いている間に炒った胡桃を別の皿にあけた。
「この飲み方が一番好きなんだよね。氷ありがと」
ヒルダは指二本分の蒸留酒を注ぎ杯を掲げた。マリアンヌも手元で杯を軽く掲げている。兵たちがいる場では打ち合わせるが杯は打ち合わせないのが正式な作法だ。ひと口喉に流し込むと熱が胃に向かって降りていく。
「ご相談があるのです」
ほろ苦い胡桃を口に放り込みながらヒルダは頷いた。エドマンド辺境伯にも言えないようなことを聞かされるのかもしれない。
「私には秘密にしていることがあって……それをある方に言うべきかずっと考えているのですが答えが出ないのです」
きっとミルディンでリンハルトから聞いた件だ。リンハルトは既にマリアンヌの秘密を知っているのでマリアンヌがいうある方、はリンハルトではない。秘密を告げようとしている相手はきっとベレトかローレンツだ。
「それは私が聞いてもいいの?」
マリアンヌは琥珀色の蒸留酒を飲み干し机の上に置いた。彼女が作った透明な氷だけが中に残っている。
「私すごく狡いんです……。ヒルダさんには絶対に嫌われたくないので聞いて欲しくありません」
「じゃあその人から嫌われたいから話すの?」
酒精のせいで頰を赤くしたマリアンヌが首を横に振った。
「嫌われたくはないです。でも……私を遠ざけて欲しいのです。きっと私に深く関わると望んだ幸せは得られないので」
今はきちんと髪が結い上げられると言うのに入学当初の誰にも馴染もうとしなかったマリアンヌの姿がそこにはあった。
「そんな風に決めつけないで。私マリアンヌちゃんと仲良くなれてすごく嬉しいんだから」
ヒルダがそこを否定しても何の意味もないと分かっていても否定してやりたかった。知っていることを繋げて推理すればそんなことはすぐに分かる。まずマリアンヌの秘密はヒルダの人生には関わりようがない類のことで紋章を持つ名家の令嬢に求められるのは紋章を持つ後継を産むことだ。秘密を打ち明け遠ざけようとしているのはベレトではない。ベレトには領地も門地もないので生まれた子供が紋章を持っていようといまいと関係ないからだ。自分のように紋章を持つ子供が欲しいローレンツに秘密を告げようとしている。
「でも……私、これ以上自分のことを嫌いたくなくて……だから人として正しい行いをする必要があるのです」
言葉を失ったヒルダはマリアンヌの杯におかわりを注いだ。五年前の春の姿が人として正しい行いの結果だと言うなら正しい行いなどしなくてもよい。反射的にそう思ったが自己否定の塊である彼女が自分を肯定するために絶対必要なことなのだと主張している。
「秘密を告げても告げなくてもそれぞれ別の理由で辛いね」
「義父は事あるごとに自分を愛せ、と私に言ってきました。ずっと意味がわからなかったのですがこうなって私ようやくわかりました」
マリアンヌは一人で完結してしまっているがヒルダにはどうしてもエドマンド辺境伯が辛いことがあっても乗り越えられるのだから人として正しいこと、この場合は彼のためにローレンツと結婚しないことを選べ、と言うような人物に思えない。それも含めてヒルダはローレンツがマリアンヌの言葉に動じない方に賭けた。
「マリアンヌちゃんはその人に無理強いはしたくないんだね」
マリアンヌはかつてヒルダと二人で選んだ手巾で目元を押さえている。これが愛情でなければ何が愛情なのか。表面に現れはしないがこんなに深くローレンツを愛する人は今後、他にも現れるのだろうか。
「私はね、どっちを選んでも辛いマリアンヌちゃんの味方をしたいな。だから心の赴くままに決めて欲しいの」
「ヒルダさん、ありがとうございます……」
「あと一杯だけ呑んだらお開きね」
多分マリアンヌの部屋は悲惨なことになっている。明日は少し早めに起きて片付けを手伝ってやらねばならない。帝国本土へ向けて進軍する日が近いからだ。
遠くからローレンツたちが奪取した弓砲台に仕掛けられた罠が燃え上がる様を見てヒルダはリンハルトとの会話を思い出した。まともな神経の持ち主ならインデッハの紋章を持つ外務卿の娘ごと敵を焼き殺そうとしない。今日のヒルダは飛竜に乗ってクロードの副官をしているので戦場にも関わらず彼の舌打ちする音までよく聞こえる。きっと考えついたが実行しなかったのだ。
「くそっ!エーデルガルトのやつ煽りやがって!ヒルダあいつのところに行くぞ!」
クロードが飛竜の手綱を短く持ったのでヒルダも手綱を握りしめる。ガルグ=マクから撤退した時のクロードはエーデルガルトをあと一歩というところまで追い詰めていた。彼は今度こそとどめを刺す気でいる。
「クロードくん、分かってるだろうけどあんなことは出来なくていいの。出来たらダメなんだよ!」
ヒルダが見たところクロードの憤りは他の者たちと少し違っている。いつでもその境地に堕ちることが出来るからこその憤りのような気がした。だからこそクロードがそんな作戦を立てる姿を見たらヒルダは右手の指で丸を作り左手の人差し指で右手の爪を触って級友たちに知らせるだろう。ベルナデッタの死は何故自分たちが戦うのかを分かりやすく示した。あそこまでするのだからきっとエーデルガルトには狂おしいほどの理由がある。だが目的のためならどんな手段でも正当化されるという考え方を否定するためにクロードもヒルダも戦っているのだ。
先行していたベレトがクロードたちの元に戻ってきた。帝国軍が王国軍と交戦している地点へ移動する前にローレンツが率いていた別働隊と合流すべきだと言う。
「ディミトリたちには申し訳ないが潰しあってもらった方が有利になるしあそこに行くなら回復役と魔法職がもっと必要だ」
「あいつらはそれを知ってるのか?」
「もう伝えてきた。行こうか」
これだからベレトはクロードからきょうだい、と呼ばれるほど信頼されているのだ。ベレトが指定した合流地点に向かうとローレンツたちは交戦中だった。ホースキラーを持っている騎兵が多くローレンツは馬から降りて槍を振るっている。クロードは手槍で後方からローレンツを狙っていた騎兵を一撃で仕留めると声をかけた。
「エーデルガルトたちのところへ行くぞ!来てくれ!」
クロードたちの姿を認め完全に数的不利であることを察した帝国軍は本隊を目指して撤退し始めた。だからだろうか、少し油断してしまったらしい。戦記物や騎士物語で紋章を持つ騎士や英雄が倒れるのは人を庇った時だけだ。
ヒルダは自分が見たものを信じたくなかった。回復魔法が使える者はとにかく敵から狙いうちされる。どれだけ敵兵に損害を与えても即死させない限りは彼らが敵兵を回復させてしまうからだ。エーデルガルトの元へ攻め込む部隊の回復役を削らなければ面目が立たないと思ったのだろうか。撤退していく帝国軍の兵士が最後の嫌がらせのように手槍を投擲した。マリアンヌの胸に突き刺さるはずだった手槍がローレンツの背中に刺さっていた。出血のせいで鎧に覆われていない腰から膝まで真っ赤に染まっている。
「ローレンツさん!だめ!だめ!私まだあなたに何もお伝えしていません!」
クロードから副官としてローレンツの様子を確かめるように頼まれたヒルダはマリアンヌの元に駆けつけた。重傷を負って横たわっているローレンツの傍でマリアンヌが絶叫している。いつも静かな彼女が泣き叫ぶのは本当に珍しいことだった。マリアンヌはヒルダが差し出した特効薬にも気付かず必死でローレンツの手当てをしている。彼女の悲鳴を聞きつけたフレンがリブローを使いようやくローレンツの容態は安定した。
「ありがとうマリアンヌさん、面倒をかけてすまなかったね」
「ご無事でよかったです……申し訳ありません、私が手槍に気が付かなかったせいですよね」
「いや、貴族の責務を果たしただけなのだから恐縮などしないで欲しい」
彼女自身は気がついていないようだがずっとローレンツの手を取っている。これは死を看取る時の姿勢でもあるが今頃ローレンツは自分が素手でないことを後悔しているだろう。もう大丈夫だと確信できたヒルダは再び飛竜の手綱を引いた。先行したクロードに良い知らせを伝えねばならない。
三つ巴の戦いは長く激しく続きエーデルガルトに深傷を負わせることには成功したが撤退されてしまった。
副官という話だったが途中から仕事が伝令に変わったヒルダはくたくたに疲れていた。体を拭いてとりあえず休もうと思ったが酷い物を見過ぎて中々眠れない。仕方がないので月明かりを頼りに陣内を散歩することにした。炊事の煙で敵に見つかることを考慮しなくても良いのでそこらじゅうに焚き火の跡がある。それを上手く避けて歩かねばならない。
流石に疲れ果てたようで他の者たちは皆寝静まっている。そんな中ひとつだけ灯りがついている天幕があった。クロードの物だ。きっとまだ考えごとをしているのだろう。だがヒルダが自分の天幕に引き上げようとしていた時もクロードは兵たちを労うと言ってベレトと共に歩き回っていた。一体、いつになったら休む気なのだろうか。そう思ったヒルダはクロードの天幕を訪れた。
「お疲れさまクロードくん」
「わ、どうしたんだ?こんな時間に訪ねてくるなんて」
「嫌なもの見たから上手く眠れなくて。気晴らしに何か楽しい話でもしてよ」
先程の軍議で報告した通りディミトリの最期をヒルダは見てしまった。舞踏会の時に踊ったことがある相手の悲惨な末路が頭から離れない。
「俺も疲れて頭が回らないから今は無理だなあ」
ヒルダが椅子がわりに座っている大きな行李にクロードも座った。いつも着ている大仰な上着はきっと行李の中にしまわれている。
「それにクロードくんは皆のことを労ってたけどクロードくんのことは誰が労うのかな、と思って」
「はは、そりゃありがたい話だな。頭でも撫でてくれるのか?」
「それくらいならここでもしてあげる」
だがその先のことはこんな布一枚で遮られた空間でなど絶対にお断りだ。誰にも物音を聞かれない場所がいい。問題はガルグ=マクにもそんな場所はない、ということだ。