忘らるる花の散るが如く─沢蕪君が怪我を負われたそうだ。
その報せが届いた頃には既に、噂の張本人は回復し執務に就いていると言う。その話を聞いた日、江澄はひと月ぶり程に雲深不知処の門を潜った。
その日は前々から予定されていた。藍氏と江氏の若手達を集めて合同演習を行う事についての話し合いをする予定だったからだ。座学で有名な藍氏だが、それだけではなくこの所じは実技にも力を入れているらしい。提唱者は意外にも藍曦臣で、その補佐としてかつての義兄も一枚噛んでいるだとか。
その流れだか縁だか知らないが、江澄に協力の要請が掛かり今に至る。江澄としても現在大事な甥が座学に参加しているということもあり、協力する事に否はなかった。あの義兄と、ついでにその横の仏頂面と顔を合わせなければならないのは少しばかり業腹であったが。
とはいえかつての義兄との間柄もゆっくりとだが氷解しつつあり、そうなる事が出来たのも間をとり持ってくれた藍曦臣のお陰でもあった。
藍曦臣と江澄は、長い間ただの知り合いと言うには少し近く、友人と言うには少しばかり遠い、不思議な間柄であった。
少年時代からの顔見知りで、戦乱を共に駆け抜け、そして当代の大世家を率いる宗主同士。関わりがない事はなかったが、互いを取り巻く環境、関係性が少しばかりずれていた為、深い交流には至らなかったのだ。
それが一変したのはあの一連の事の後のこと。可愛がっていた義弟を手にかけ、閉関した藍曦臣を同じ宗主として、またあの場で共に全てを知った人間の誼として尋ねたのがきっかけである。
何が藍曦臣の琴線に触れたのか江澄には分からない。気付けば彼は閉関を解き、江澄の隣でにこやかに様々な会合、夜狩で活躍をするようになっていた。
公の場だけでなく私的な場でも交流は深まり、そうして気付けば藍曦臣と共に過ごすことが当たり前になった頃、江澄は告げられた。
『あなたをお慕いしています』
思っても見なかった事に江澄は大いに焦り、悩み、そして逃げようとした。けれど藍曦臣は根気よく諦めず、何度も愛を囁く。
断袖など忌むべきものと考えていた筈なのに、好きだなんて戯言を告げてくる男を一蹴する事が出来ない。そんな自分に気付いて、囲む腕の熱が不快ではない事にも気付かされて、そうして白旗を上げたのはそう古くない記憶だ。
それから藍曦臣と江澄は密やかに恋を進めてきた。
一つだけ江澄が願ったのは、この関係を公にしない事。藍曦臣は渋ったが、各々宗主として一門を率いる立場である。本来であれば妻を娶り血を繋がねばならない。だが互いに互いを選んでしまったのだからそれはもう難しい話で、後継者の問題が出てくるだろう。
例えば遠縁であったり信頼のおける門弟から後継者を選びんだとしても、まだあの事件からそう時を経て居ない今簡単に認められるとも思えない。様々な整備を整えて大丈夫だと確信するまで、この関係は二人だけの秘密にして欲しい。そう説明した江澄に藍曦臣はようやく理解を示した。
だからこの関係は誰にも知られていなかった。二人だけの秘密の恋。会えない時間は多く、共に居られる時間も少ない。それでもゆっくりと恋を育て愛が芽生えていた。
そんな恋人の窮地を、関係性を知られていないのだから仕方がないとはいえ知らなかった江澄の心の内は荒れていた。
なるべく残るような文も交わさないようにしていたし、互いに宗主として多忙であるから頻繁な連絡もしていなかった事を悔やむ。特にこの一ヶ月は邪祟が活性化しているのか嘆願が多く、いつも以上に忙しい日々を送っていた。その上今日の予定は兼ねてから決まっていたので必ず会えると安心していたのだ。
宗主としての文は来ていたし、まさかそんな事が起こっていたなんて知らなかった。早く元気な顔が見たい、そう逸る気持ちを抑えながら雅室へと向かう。
いつもは雲深不知処に招かれる際そのまま寒室に通されるのだが、この日は違う事に少し疑問が浮かんだ。
藍啓仁も話に参加するのだろうか?と思いながら入った部屋に居たのは藍曦臣のみで、会いたかった人が常と変わらぬ涼やかな姿でしっかりと立っている事に安堵する。茶を準備しに来た師弟が慣れた手つきできびきびと動くのを横目に、二人は拱手する。
「江宗主。遠い所をありがとう」
「藍宗主。今日はよろしく頼む」
人目のある時は立場を忘れず、礼節のある態度を。これは兼ねてから決めている事だ。席を勧められ対面に座す。目の前に座った藍曦臣は先月会った姿と変わらず美しく、頗る健康であるようだった。
「どうしましたか?」
あまりにもじろじろと見ていたからか、藍曦臣が小首を傾げている。江澄は不躾な真似をしていた事を恥つつも思った事を告げる。
「あなたが、怪我を負って寝込んでいたと聞いたものだから…」
心配していたんだ、とまではさすがに言葉に出来なかった。視界の端に部屋を辞する師弟の姿を見送る。
「あぁ、お恥ずかしながら修行が足りなかったようで…。江宗主の耳にまで届いてしまいましたか」
そうはにかんで話す藍曦臣の様子に、江澄は少しだけ違和感を覚えた。既に今、この部屋に自分達以外に誰もいない。公の場で関係を示すような事はしない、と決めているとはいえ二人きりなのは明白で、それに久しぶりに会ったというのに。相変わらず呼び名は「江宗主」であり、そして見返してくる瞳にはいつもの熱を感じなかった。
「どうしました?江宗主?」
不思議そうに問いかけてくる藍曦臣に、江澄は嫌な予感がしてくる。なんだか、まるで。
「……藍渙…?」
小さく問いかけた名前に、藍曦臣は美しい瞳を瞬かせた。そしてやんわりと苦言を呈す。
「江宗主。さすがにその、名を呼ぶのは些か…」
その言葉に衝撃を受ける。だって、いつもならこう呼べば大輪の花が綻ぶように笑ってくれていたのだ。
恥ずかしくてなかなか呼べなかった江澄に、何度も何度も呼んで欲しいと強請ってきて、そしてようやく二人きりの時は呼べるようになった名前。それを呼ぶ事を許されたのが本当はすごく嬉しくて、当たり前のように口にできるようになったのが密かに誇らしかった。それが今、否定されている。
よそよそしささえ感じる彼の対応に心が冷えていく。まるで彼が閉関する前のただの知人だった頃のような対応。
酷い悪ふざけや嘘でなければこれは何かおかしな事になっているのだと思う。そして藍氏である彼がそんな事をするはずないと理解できるから、そうなると思い当たるのは夜狩で倒れたという話。
恐らくだが、多分、きっと。藍曦臣は江澄との恋の記憶を忘れてしまったのだ。
そう思い至った江澄は動揺する。本当は胸ぐらを掴んで喚いて、どういう事かと問い詰めたかった。けれど目の前の人は明らかに自分と距離を持って接していて、親しみなんて持っていない。
そんな相手から掴み掛かられたらわけも分からないだろうし、無作法者と軽蔑されるかもしれない。
それは嫌だった。どんな状況であれ、この人から負の感情を向けられたくなかった。それにここは藍氏の公務に使われる部屋で、藍曦臣の寒室のように離れでは無い。すぐに人が来るだろう。
そんな場所でみっともなく取り乱すなんて江澄の矜恃が許さなかった。だからぐっと拳を握り、ツンと鼻が痛むのを我慢する。
「すみませんでした。先程の言葉は忘れてください。藍宗主、話し合いを進めましょう」
謝罪の言葉に微笑みを返され、その鷹揚な姿に胸が苦しい。
石でも飲み込んだように腹の中が苦しくて、喉が痛くなる。けれどその全てを飲み込んで感情を切り離した。江澄はただひたすら江宗主としての責務を果たし、藍宗主としての彼としばし語らう。なんとか話は纏まり、丁寧な挨拶とともに室を辞する。
──酷く疲れて、もう何もする気にもなれなかった。
*
本当ならその日、雲深不知処に一泊する予定だった。けれどこの場に居たくなくて随従してきた師弟達を急かして帰り支度をする。部屋を整えてくれていた藍氏の師弟には断りを入れ、急ぎの用が出来たからと用意されていた客房を後にする。
いつもここに来ると用意される部屋だ。けれど藍曦臣と情を交わすようになってからほとんど使わなかった部屋。ふと、歩き慣れた道の先を見る。
この先を進んで、右へ曲がる。そうすると見えてくるのは藍曦臣の寒室。そこにいる人の事を思うと足が重く、胸が苦しくなっていく。
江澄はその苛烈な性質と不遜な態度から精神的に強く見られる。
勿論、ただ一人焼けた蓮花瑦を見事に復興させた手腕や門弟達に檄を飛ばし夜狩で率先して戦う姿からその認識に間違いはない。
だが何重にも覆われた殻の中、隠された芯の部分には弱く脆い心を隠していた。それは幼少期の環境によるものが大きく、端的に言ってしまうと「自分が一番に愛される事などない」という根の深い思い。
愛されなかった訳では無い。姉からは深い愛を注がれてきた。だがそれも義兄と均等だった。その義兄は長年一番の相棒だった。ずっと共にいると思っていた。けれど彼が選んだのは別の道だった。母は厳しく、時に理不尽と思える程の叱責があった。それでも不器用に愛されている事は感じられた。
けれど父からは。どんなに認められたくて努力しても、認められることは無い。例え同じ成果を出したとしても、優しく抱き上げられて撫でられるのは自分ではない。手を伸ばしても取られることはない。
選ばれるのは必ず自分ではなく別の人間で、それが身に染みて分かっている。
だから江澄は「一番愛される」という期待を抱く事をやめていた。
江澄は身の程を弁えている。己の力は全てを守るほど強くはないから、だからこの手で守れる物を絶対に守り通すと決めていた。それは甥の金凌と雲夢江氏だ。
与える側であれば、与えられない事に苦しまなくて済む。だから愛されなくてもいい、己の大事なものを守れればいい。そもそも愛されるわけが無いのだから。
彼の中で愛は受け取るものではなくなっていた。
それを覆したのが藍曦臣で、彼はその号の如く溢れる愛を江澄に注いだ。乾ききった江澄の奥底に眠っていた心の種に水をやり、信じることを躊躇う彼を優しく包み込み、ようやく息を吹き返し芽を出した気持ちを大事に大事に育てていく。
なかなか素直になれない江澄を、穏やかで時に強引な藍曦臣が導いていく。そうしてようやく藍曦臣への愛を信じられるようになったばかりだった。硬い蕾が綻び、大輪の花を咲かすように。
江澄は胸の内に咲いた花を大事に愛でていた。己の中にもまだあった、愛されたいという想いが他ならぬ彼のお陰で美しく咲き誇るように育ったことが嬉しかった。
今は秘めやかな関係だが、きっといつか実を結ぶと思っていた。そう信じさせてくれていた。
けれどそれを覆すのも藍曦臣となるとは。
江澄は目を閉じて深く息を吸う。実際のところはよく分からない。もしかしたら数日もすれば元に戻るかもしれない。そうしたら怒ってやればいい。けど戻らなかったら?
藍曦臣の記憶の欠損を知るのは己だけで、何も問題になっていないように思う。きっと誰も疑問に思っていない。
ともすれば江澄だけが幻を見ていたかのような気分になる。騒ぎ立てることも出来ず、誰にも話すことは出来ない。
先程の言葉と、視線を思い出す。また親しくない知人を見る視線を向けられて耐えられるのだろうか。耐えられない。
けれどここまで大きく育った気持ちは、すぐに捨てられるものでは無くて。
「宗主?帰らないんですか?」
立ち止まってしまった江澄を不審に思った随従の一人が声をかける。はっと我に返る。
「今、行く」
思いを振り切るように、江澄は力強く踵を返した。
藍曦臣が己を忘れたのならば、今度は自分が彼に愛される努力をするべきなのでは無いだろうか。密やかに胸に咲く思いを、今度は自分が届けたらいい。そう思える位の時を過ごしてきたのだから。