過去ログ7「エディ」
低く、唸るような声は凶悪に響くだろう。その声が頭の中に初めて響いたときは怯えたものだった。だが、今はその声は優しく親しげなものに聞こえる。
粗末なアパートの一室に置かれたソファーに腰をかけながらエディはその声に応えた。
「なんだよ。腹でも減ったか?」
シンビオートは直接内側から話しかけてくるのだから、自身も内心で語りかけるだけで会話ができればいいのだが。そう思った場面も多々あったが、最早人目を避けて会話をするのは慣れっこだった。適応力が高いのはいいことだ、と褒めてくれたのがエディの内部に巣食うシンビオートだったのが少々シャクではあったが。そんな他愛もない考えも全てシンビオートには筒抜けなのだろう。ソファーに腰掛けるエディの背後から生えるようにコールタールに似たシンビオートが顔を覗かせた。エディの顔を覗き込んだその表情は一目瞭然。不満を感じていることが分かった。だがきっと、この表情を機敏に読み取ることができるのはエディしかいないだろう。ずらりと並んだ如何にも肉食といった牙が立ち並ぶ裂けた口に、表情のない模様のような瞳。
猫は無表情だろ、とアニーに言ったことをふと思い出した。だがアニーは頑なに猫は表情豊かだし、人にだって懐くわよ!と憤慨していたものだった。その度にご機嫌をとるのはエディだったが、決して不満な日々ではなかった。何もかも満たされていた、過去の話。
センチメンタルに浸るエディの感情を汲み取ったのか、不満そうな表情は鳴りを潜めプイと頭をテレビへと向けた。
「アレだ。アレが食いたい」
アレってなんだよ?そう思いながら視線でニュースを追えば。デカデカと映るのは強盗犯。目出し帽を剥がれて憎々しげな視線を辺りに漂わせる、更生しようがなさそうな悪人ヅラ。まだ若いのだろうが、ブロンドの髪は薄く頭皮が透けていた。それに脂汗に塗れ、顔中がテカテカと光っている。オエっとえづきながら感じた不快感を飲み込むように、カップに入ったコーヒーへと口をつけた。ぐっぐっと喉を鳴らして一気に飲み干す最中、警察官によって強盗犯が確保された臨時ニュースが流れていた。
「無理だ」
「何でだ?アイツは悪人だ。悪人は食っていいって言ってたじゃないか」
エディのごつい指が画面の右端を指す。そこに書かれてるのはニューヨークという単語だ。
「……なんだ」
「物分かりがいいな。いいこった」
ここはサンフランシスコ。ニューヨークまで移動はあまりにも遠い。シンビオートは賢いが、一度食欲に駆られればそれしか見えなくなる傾向があるようだ。それを今後どう付き合っていくかが問題になるだろう。空になったカップをサイドテーブルに置けば、ぐんっとシンビオートが前のめりに画面に食いつく。
「じゃあアレだ!アレが食いたい。こいつならここから直ぐだ」
上ずった声は興奮しているからなのだろう。早く早く!と急かすようにぐんっぐんっと引っ張る力のままに、テレビを見れば映るのはCMだ。
それも如何にもな、甘ったるいPOPミュージックが流れるドーナツのCM。
今ならチョコレートサンデーもサイドメニューに!なんて余計なことまでアピールした子供向けのドーナツ屋のCMだった。
そのドーナツ屋はよりにもよって、ここから歩いて十分もかからない場所にある。チョコレートサンデーにフリーズドライのマシュマロが乗るシーンでシンビオートからおお……なんて、人間臭い歓声が溢れた。
「甘ったるいし虫歯になるぞ。虫歯になったら獣医に連れてくからな」
「なら歯を磨けばいいんだろう? 知ってるぞ、エディ。お前、犬用の歯磨きガムをネットで買ったろ」
シンビオートとの間に隠し事は一切できない。それを不便に感じたことは片手では収まり切らない。
分かった分かった、とオーバーな身振り手振りでたしなめながら灰色のパーカーに革のジャケットを羽織ってやってきた。もちろん、二人で向かったのは件のドーナツ屋だ。エディの予想通り、風船を配るピエロに着ぐるみのうさぎが店の前で踊っている。それに客は皆子供づればかりだ。あとはせいぜい、若い女性客がちらほらと居る程度。外観はパステルピンクのレンガに覆われ、内装の床と壁は淡いライトイエロー。ついでに青々とした植物まで飾られている。
あそこにこれから一人で行くのかと思えばうんざりした。せめて指に結婚指輪が輝けば、家にいる我が子と妻のためにと思われそうだが。
「エディ。他人の目なんか気にするな。お前のことなんか、誰も気に留めちゃいないさ。せいぜい……、そうだな……。せいぜいお前が見た目に反して甘党だって思うくらいだろう」
がっくりと肩を落としてため息をついた。それが嫌なんだと言えば、シンビオートでもその感覚は理解できないようで、疑問符が浮かぶ。
「恥ずかしい。そういう感情もあるんだな。覚えておく。」
「そうしてくれ。次からはアニーに頼むからな」
ドーナツが入った紙製のバックを片手にしたエディが唸るように呟いた。
だがそんなことは御構い無しとばかりに、アパートの部屋へと戻ればドーナツへと触手を伸ばし始める。その様はお土産を待ちわびる子供と一緒だ。
なるほど。確かにこれは寄生虫とは言えないだろう。
「わかった。だから早く食おう。じゃないとお前の肝臓を……」
「ああ、分かったよ!ほら!食うぞ」
脅し文句としてテンプレートになりつつある言葉に返事を重ねて黙らせる。
喋り始めないうちにとテーブルに平皿を置き、その上にドーナツを並べた。ご所望のチョコレートにプレーン、ジャムが中に入ったものに。小さなプラスチックの器に盛られたチョコレートサンデー。
どれからにするんだ?と視線で答えを促せば、ぐんっとエディの体から伸びた顔がツンとチョコレートサンデーを突いた。鼻先にチョコクリームがついたのを、長い舌で舐めとる様は犬に近い。
どかっとソファーに腰を下ろし、チョコレートサンデーにスプーンを突き刺した。と同時にエディの白い肌に黒い血管のような筋が幾重にも走った。黒い筋は折り重なり、層を作ってエディの体を包み込んでいく。いいや、呑みこんでいるという方が正しいのかもしれない。
フリーズドライのマシュマロがホロホロと崩れてしまう前に、チョコレートクリームと一緒に口に含もうとしたときには、そこにいるのはエディではなくヴェノムがいた。人の頭を一飲みにできる大きく裂けた口へと不釣り合いなほど小さい匙が収まった。うっかり噛み砕かないように舌先でクリームを舐めとる。舌が竦むほど甘ったるい味だった。
「エディ!最高だ!」
「そいつぁ良かったな。俺は胸焼けがしそうだ……!」
えづきこそしないが、舌にまとわりつく甘ったるいチョコレートクリームと、下地にあるバター風味のケーキが喉を焼く。そこにフローズンドライのマシュマロの甘さが舌にべっとりと貼り付いた。
だが子供が喜びそうな甘ったるさこそ、シンビオートの好みだったようでご機嫌とばかりにサンデーに伸びる。エディの意思と反して伸びる舌から唾液が滴った。スプーンでクリームを掻き込み、名残惜しげにそこに残ったクリームを舌先で舐めとった。
「もう一個買えばよかった」
まだまだ諦めきれないのか、べろりと器の縁に残るクリームを舐めとれば残念そうに呟いた。
それを聞けばうんざりだとばかりにヴェノムは頭を左右に振った。これではエディが糖尿病になるのが早いか、シンビオートが虫歯になるのが早いかの問題だと。
「ところで、エディ」
チョコレートはやめろと言われて渋々選んだプレーンドーナツの穴に鋭い爪を引っ掛けながらシンビオートが口を開いた。
「連続殺人犯っていうのは、釈放される可能性ってあるのか?」
一口でプレーンドーナツを飲み込めばエディへと問いかける。
ドーナツの甘ったるさを流しこもうとミルクの入ったグラスに口をつけた動きがピタリと止まった。そのまま一気に一杯分のミルクを飲み干す。次に口を開くのはエディだ。黒い油絵の具を分厚く塗り込められたような手の甲で、ヴェノムは口元を拭った。
「ほぼほぼ有りえない。……、お前が何を心配してるかは分かる。心配はいらないよ」
数日前に、インタビューとして刑務所で話をした、レッドと呼ばれた男はここを出ると語った。刑務所を出て、大量虐殺を行うのだと。
陰惨なものばかりを映して悪意に濁った瞳。日に当たる回数より、血を浴びた回数の方が多いだろう白い痩けた頰。憎悪さえも友達だとばかりに歪む口元。
エディが殺人鬼と対面したのは初めてではない。だが、奴だけはおぞましいと感じていた。力だけであれば間違いなくエディの方がはるかに上回る。
しかし、そうではないのだ。エディは心臓を絡め取られそうなほどの殺意と悪意に旋戦慄を覚えた。その戦慄は今も忘れることはできない。シンビオートに包まれたエディの体がぞっと震え上がった。
「お前がいてくれるだろ?」
「……」
いつもなら二つ返事で帰ってくる筈の言葉はなく、二人の間に沈黙が訪れた。
不穏な沈黙に耐えきれず、思わずソファーから腰が浮いた。どうして黙っているんだと問い詰める前にシンビオートが口を開いた。
「当然だ。だが……、嫌な予感がするぞ。エディ」
不吉な言葉を述べながらもシンビオートは皿の上のチョコレートドーナツへと手を伸ばす。それをもうやめろとは言えなかった。
「勘は当たる。だがソースがなければ意味はない。つまり心配するな、エディ。俺がいる。それにアニーとダンのことだって守ってやるさ」
皮肉のような言葉選びはエディが食いつくいてくることを期待してのものだろう。最近はシンビオートが考えることも薄々ながら理解できるようになってきていた。勿論、シンビオートが感じた不吉な直感というものも。
近いうちに奴と対面する日が来る予感を押し殺すように、ヴェノムはドーナツをまるでスナック菓子のように口へと放り込んだ。
「この後は歯磨きだぞ。ドギー」
「俺は犬じゃない!」
不穏な予感への対処方法はない。今はまだレッドは刑務所の中で、窮屈な拘束服を着せられて厳重な監視に置かれている。
ならば、今エディがやれることは二つだった。まずはシンビオートに歯磨きガムを噛ませること。もう一つは連続殺人鬼クレタス・キャサディのインタビュー内容をまとめ、原稿として完成させることだった。
正義のためにやれることは少なくはないのだと、外から響くパトカーのサイレンに耳を傾けた。
「歯磨きの前にメインディッシュを食わせてくれないか?」
舌なめずりをしながら、窓へと歩みを寄せるヴェノムがにんまりと微笑んだ。