その日は最高気温が三十八度にも達し、立っているだけで焼け焦げてしまいそうなひどい猛暑だった。ミンミンゼミが大合唱し、アスファルトに陽炎がゆらめいていた。音之進は顔をしかめながら、アサガオの鉢を抱え直した。顔にかかるツルが鬱陶しくて仕方ない。一学期の間、ずっと机の中とロッカーに入れっぱなしだった教科書ドリル国語辞典などを一気に詰め込んだランドセルは岩のように重くて、背中にびっしょり汗をかく。斜め掛けにした水筒のストラップが、肩にギリギリと食い込んだ。うだるような暑さ、ひっくり返りそうな大荷物。喉が渇いても、両手はアサガオで塞がれている。深いため息をつく。明日から夏休みが始まるとは思えないくらい、気分は暗く沈んでいた。仲の良い級友は押並べてみんな、車で迎えに来たお母さんにアサガオの鉢植えを渡し、冷房の効いた後部座席に乗って、悠々自適に帰宅した。
お化粧と日焼け止めの柔らかい匂いを纏ったあるお母さんは、ひとりで帰ろうとする鯉登を呼び止めてこう言った。
「音之進くん、送っていっじゃ。おうちが大変やろう?」
それは魅力的な申し出だった。学校から自宅まで電車で四駅もあるし、更に最寄り駅から十分は歩く。しかし音之進は深々とお辞儀をし、丁重に断った。同情されるのは何より嫌いだ。頑張って電車に四駅揺られ、今に至る。
家への道のりはいつになく遠かった。上り坂の傾斜が険しくて、永遠に帰宅できない気すらした。こんな無様な姿は誰にも見られたくない。周囲に全く人気のないことだけが不幸中の幸いだ。空腹も相まって苛立ちがピークに達し、麦茶を飲むために両手に抱えた鉢を一端地面に下ろそうとしたときだった。ブッブー! けたたましいクラクションが、辺り一面に鳴り響いた。
「……!」
驚きにびくっと身が竦む。同時に手から鉢が滑り落ちた。ガシャン! レンガ色の破片が散らばり、湿った土は形状を保ったままボロボロこぼれる。恐る恐る振り向くと、真後ろにいたのは白のミニバンだった。動けずにいる音之進の隣に、車はそのまま進入してくる。ウィーンと運転席の窓が開いて、咄嗟に身構えた、そのときだった。
「フラフラ歩いてんじゃねえよ、ボンボン」
顔をのぞかせた男は、鼻を鳴らして笑った。黒のキャップを目深に被っているが、見知った姿だった。肩の力がするすると抜けていく。
「尾形……」
男が意地悪そうに口角をつり上げたのを見て、音之進は「びっくりさせっな!」と声を荒げた。尾形は軽く笑って車を停め、地面に降り立った。ネコのように大きな瞳を、眩しそうに細める。
「貸せ」
するりとランドセルを抜き取られ、音之進は「ふあ~」と息を吐いた。一気に体が軽くなり、ぐるりと腕を回す。尾形は「随分重いな」と呟いた。燦燦と降り注ぐ鹿児島の太陽は、彼の透けるような白い肌に似合わない。彼もそれを分かっていた。だから彼は高校を卒業してから、この地に寄り付かなくなっていた。
「いつから帰ってきたんじゃ?」
ランドセルを車内に放り込む尾形の背を見ながら、音之進は首を傾げた。
「尾形が帰ってくって、誰も教えてくれんやった」
会えば喧嘩ばかりしているが、仲が悪いわけではない。物心ついたときから傍にいた幼馴染だ。尾形はそんな音之進の気持ちを知る訳もなく、「別に帰ってきたわけじゃない」といつも通り無愛想に言った。そういう態度をとられると、もっと絡みたくなるのが小学生というものだ。
「尾形、車運転しきっとな? 誰ん車? ないごて車?」
「うるせえ、いいから乗れ」
「落としてしもたアサガオ、どげんしたやよかね?」
「ほっとけよ。観察日記なんか適当に書けばいい」
尾形は苛立ちを隠そうともせず、小さく舌打ちした。年上のくせに大人げないのは、上京しても変わらない。地面に散らかったアサガオに後ろ髪を引かれながら、音之進は助手席に乗り込んだときだった。
「何じゃこんた……!」
「すげえだろ」
尾形は自慢げに口角をつり上げた。音之進は「わっぜすごかぁ」と言うことしかできなかった。後部座席があるはずのそこは、フルフラットのマットレスが敷かれていた。カップ麺やポテチの袋が隅に寄せられていて、まるで秘密基地だ。
「旅してるんだ、この車で」
「旅!」
なんという魅惑の響きだろう。顔を輝かせる子どもを一瞥し、尾形はエンジンをかけた。音之進はその仕草から目を離せなかった。ついこの間まで詰襟の学ランを着ていた尾形が車のハンドルを握っている光景はなんだか不思議で、格好良く見えた。カーステレオから流れてくる音楽も、普段家族と乗っているときじゃ掛けられない最新曲で、胸がドキドキと高鳴る。尾形がゆっくりと口を開いた。
「……お前も一緒に行くか?」
それは冗談めいた口調なのに、低くて暗い声音だった。だがそんなのは気にならなかった。
「行く!」
元気な返事に、尾形は「ははあっ」と笑った。音之進はウキウキと弾む気持ちを押さえられなかった。何の予定もなかった最悪の夏休みが、急に素晴らしいものになってしまう。車で旅するなんて、最高だ。
「帰って母様に聞いてみるで、待っちょって」
すぐ荷物用意すっで、と続けようとしたときだった。
「お前の親にはもう言った」
尾形は前を向いたまま、少し大きな声で被せた。音之進は瞬きをする。
「夏休みに何もしてやれないから、連れてってくれるなら助かるって言われたぜ」
「……」
妙に平べったい言葉は、胸の奥底を簡単にえぐった。膝の上に置いた拳を、ぎゅっと固く握る。仕方ないことなのだ。兄が死んで、夏はまだ一回しかきていない。家の中はぽっかりと穴が空いている。終業式のあとの荷物が多くても、夏休みが四十日あっても、それは鯉登家に何の変化ももたらさない。
「このまま行こうぜ、必要なもんは全部買ってやる」
尾形は運転席から腕を回し、な華奢な肩を軽く叩いた。アクセルが踏み込まれ、車の速度が上がっていく。車窓から過ぎる馴染みの景色は何だかもう見たくなくて、鯉登は小さく頷いた。
車は正午を回るまで、一度も止まることなく走り続けた。最初こそ帰宅せずに旅に出る高揚感と緊張でドキドキと心臓が痛かったが、二時間もすれば慣れてしまった。だだっ広い高速道路はいくら走れど光景が変わらず、無味乾燥でつまらない。【熊本県】と書かれた標識を通り過ぎる頃、腹の虫がぐううと鳴いた。
「尾形ぁ、お腹空いた」
音之進は手の中で水筒をもてあそびながら訴えた。尾形はちらりとカーナビに目を落とし、「もうそんな時間か」と低く呟いた。
「何食いたい? 好きなところ連れてってやるよ」
「オムライス!」
即座に答える。しかし子どもっぽすぎたかと思い、音之進は急いで「パスタでもよか」と付け加えた。こういうとき、彼はすぐにからかってくるのだ。しかし今日は違った。
「わかった」
尾形はそれだけ言って、ハンドルを左に回した。肩透かしを食らったような気持になって、音之進は唇を尖らせた。
田んぼと畑に囲まれた道を、車は時速三十キロにも満たない速度で走行する。その中にぽつんと佇むショッピングモールは、見るからにさびれていた。一方で地下駐車場は、施設に不釣り合いなほど広大だった。これだけの面積を車で埋めるのは変そうだ。そんなことを考えながら、音之進は運転席に目を向ける。ピーッピーッ。シフトをリバースに入れて停める彼の手つきは、やたらと慣れていた。
「尾形は車ん運転が上手なんじゃな」
思えば彼は昔から、なんでも一通り器用にこなす男だった。勉強もよくできた。九州で一番頭のいい大学に受かっておきながら、それを蹴って北関東の地方大を選んだくらい、選択肢をたくさん持ち合わせていた。それなのにいつも、つまらなさそうな顔をしていた。
「これくらいできなきゃ、運転する資格ねえよ」
尾形はエンジンを切りながら、やっぱり退屈そうに言った。
昼下がりだというのに、フードコートはほとんどが空席だった。テラスに面した大きな窓ガラスには、誰かの指紋がぺたぺたと白く浮かんでいた。音之進は椅子に座ったまま、脚をぶらぶらと揺らした。そのとき、手の中で握りしめていたブザーがけたたましい音とともに振動した。ぱっと顔を上げた先で、店員が湯気立つオムライスをトレーに載せている。
「とってくる!」
「待て」
音之進が椅子から飛び降りようとしたと同時に、尾形は素早くそれを制した。
「俺が行くから待ってろ」
音之進の頭に手を置き、ぐりぐりと押さえつける。猛暑だというのに、その掌はひんやりと冷たかった。音之進は両手で頬杖をついて、カウンターに向かう彼の後ろ姿を眺める。何だかずっと違和感があった。その正体に気付いたのは、尾形がファーストフード店から自分の食事を取ってきたときだった。
「わかった!」
突然の大声に、着席しかけていた尾形はびくっと肩を震わせた。
「でけえ声出すな馬鹿」
「尾形と二人だけでご飯食べに来っなんて、初めっじゃね」
にわかに焦りを滲ませる彼を気に留めないまま、音之進は声を弾ませた。ご飯だけじゃない。遠出自体が初めてだ。尾形はついこの前まで高校生で、親からは音之進と同じように子ども扱いされていた。
「大学生になったや、どこでも自由に行けるようになっど」
音之進は「うらやましかぁ」と微笑んだ。尾形は何も言わず、ふいと目をそらした。
「いいから早く食え」
「大学は面白てか? 小学校とないがちごっ?」
彼が地元を離れてからたった五か月だというのに、佇まいはあの頃に比べて妙に落ちついているようだった。音之進はオムライスを頬張りながら、尾形の様子を観察する。フライドポテトの先にケチャップをつける動作も、てりやきバーガーにかぶりつく仕草も、鹿児島にいたときと何かが違うのだ。ストローを咥えていた尾形は、コーラを一口嚥下してから、おもむろに言った。
「……休み時間にドッジボールしない」
その答えこそ、全く尾形らしくないものだった。音之進はスプーンを握ったまま、首を傾けた。
「尾形、なんか大人んごつなった」
今までの彼なら、「ガキと一緒にすんな」くらいの悪態をついていたはずだ。意地悪じゃない尾形なんて調子が狂う。
「……この旅行中は、俺がお前の保護者代わりだから」
尾形は早々に食べ終えたバーガーの包み紙を畳んで、呟くように言った。
「尾形が保護者!」
あまりに似つかわしくない組み合わせで、音之進はくすくす笑う。彼は黙ってそのさまを見ていたが、少しの間を置いてから、不意にテーブルの上のペーパーナプキンを一枚とった。テーブル越しに腕が伸びてきて、音之進は咄嗟に身構える。ぶたれる。
「ケチャップついてるぞ、ボンボン」
尾形はせせら笑うように言いながら、音之進の口の周りをごしごしと拭った。ざらついた紙でこするから、皮膚がヒリヒリと痛んだ。同時に胸のあたりも、なぜかきゅううと締めつけられた。衝動的に口を開く。
「……じゃあ……」
言いかけたところで、音之進は言葉を飲み込んだ。底の見えないほど真っ黒な双眸が、まっすぐに音之進を見ていた。ごくりと固唾を嚥下する。視線を外して逡巡する。
「……じゃあこん旅ん間は、尾形がおいん兄さぁじゃな」
迷いに迷って口にしたそれは、たっぷりの冗談を含めたつもりだった。声は不自然に裏返った。薄汚れた窓に反射した自分は下手くそな半笑いを浮かべていて、音之進は顔を伏せた。つまらないことを言ってしまった。だって尾形は、兄と似ても似つかない。きっと笑われる。笑われたら、落ち込んでしまう。ぎゅっと唇を引き結ぶ。尾形はおもむろに帽子を脱いで、坊主頭を撫でつけた。
「……お前がそれでいいなら」