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    トオオキ トキ

    旧)トオキ トキ
    いろいろなパワーが序盤雑魚な人。
    ピクシブに載せるに至っていないキョロちゃん、カービィ、ホロウナイトなどのらくがきを置いておきたい。ホロウナイト多め。
    2023/11/17~スーパーマリオRPGによりマリオ熱UP。

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    トオオキ トキ

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    ニムのはじまりを、ニムの一人称で書いたおはなし。

    ※捏造と妄想の塊。
    ※キーパーソンとしてOC出演。
    ※悪夢の王が出ますが、『悪夢の王』とは呼ばれていません。
    ※ハロウネストではありません。
    ※団長は存在していない時代。

    ##夢想グリム

    ニムの揺籃

    ……“山の底で 震えていた 朝日を羨み 闇を嘆いた
     わたしの山の 煙は黒い どうして命を見いだせよう
     貴重な輝き わたしからは遠い 産声の 温かさ

      お前が示してくれた 卵の時から わたしは触れた 貴重な輝きに
     わたしは懼れた 煙が卵を黒くした そのソウルまで濁さないか
      お前は孵った 純粋な声を上げて そのソウルの清さを示した
     教えてくれた 新しい生命というものが いかに輝き いかに美しいか
     力強いか
      お前は山から引き出した 卵の時から その貴重さで
     呼んだのは煙 風 そして火

      ああこの火が お前を穢すことのないように
      わたしの山の 火は緋い この火が お前を害なう ことのないように
      お前の目は夜明け 緋色の灯ることなかれ
      黒い煙は雨雲となれ お前の目がより澄むように
      雨と共に踊りたい 生命の喜びの 純粋さのまま
      それを教えてくれた お前は黒いウィルム
      いかに孵って 生命の素晴らしさを教えたか
      いかに愛らしく 鳴いてわたしをとらえたか

      朝日より暗く 闇より弱き 孤独な火に お前は息を吹きかけた
      焚火の爆ぜる 音であれ この焼けた声の 守歌の”……




     隣の山の冠雪が噴煙で黒くなっていた。その中だった。
     山頂付近に洞穴があった。その中に卵があった。どんなムシの卵より大きな、黒ずんだ卵。冷えた溶岩の塊か巨獣の卵の化石のように、似た形状の石の数多から成る岩壁から食み出て在った。
     小さい身体を形作って卵に触れた時を、思い出す。強いソウルの気配。そっと寄せた耳に届いた、ゆっくりと確かな鼓動の音。
    「ぃ、む? ぅういぃむ」
     なんとも不確かな発音で健気に言葉を紡ごうとしているそれは、黒い卵から孵った大きな幼いウィルム。その孵化を、わたしは手伝ったのだった。
     分厚い陶器のような殻を破って現れた、大きな大きな幼虫。
     雫型の黒い頭部は後頭部が尖っている。ここで卵を割っていた。頭部の外殻は硬い。片喰の葉に似た形の顔面は、蒼褪めた白。卵のあった山の、山頂ほど黒い冠雪を思わせる。身体は灰色。ウィルムと呼ぶには寸詰まりで、尾の方は頭部と似通って尖っている。胴部は頭部に比べて軟らかかった。二対の黒く細い翅が生えている。目は一対。それぞれの目の中央部を縦に突き抜ける黒いラインが特徴的な顔に、檸檬の実に似た形の眼。
    〈…まだお前には… 難しい音だ… …呼びやすいように…〉
     暁の幽婉さを宿すその青の差す黒い目に、一瞬、蒼天の色が六花に輝く。
    「ィ、ム……ニィム、ニィムゥ……」
     ひと月と経たぬ齢で鳴き声とも言葉ともつかない声を懸命に紡ぐその目に、わたしはどのように映っているのだろう。その耳に、わたしの声はどのように聞こえるのだろう。わたしより言葉を紡ぐのが上手くなったら、話すだろうか。訊いてみようか。
     訊く、という考えにいつもの怯弱さが持ち上がる。以前よりはましになったのだが。お前が純粋な愛情を向けてくれるから。
    「ニム、ニム」
     愛らしい声は、いい塩梅の音を見つけたようだ。
    〈…ニム、か… では、そのように…〉
     山の末を焦がす噴煙のようなわたしの声は、柔らかい音さえささくれさせてしまう。仮面の効果で、多少はまろくなっているはずだが。
     それでもわたしがその音をなぞった時、その目に蒼天の光が輝き、“笑う”ように小さく喉を鳴らす幼子。お前の喉では雷すら愛らしく鳴るのだな、とその顔の端を撫でる。触れる度に怯えと愛情で身体の芯が震える。
     この震える心臓を抱くように、お前は愛らしく賢く鳴くのだ。
    「ニム」


     親愛なる者よ、お前の翅がどこまでも自由にお前を連れて行くように。
     群小なるムシの爪が、獣の爪が、お前をそこなうことのないように。
     地の果て、天の果てまで行き巡れ。
     死の山のみが世界でないと知るように。
     大いなる海を知るが良い。花の咲き誇る地を知るが良い。
     それでも……
     灰に眠る種の、雨に芽吹くこともあろう。
     あたたかな雨を携えてゆけ。
     かがやきの雨と共に……




     黒い噴煙の中を赤い稲妻が走った時、わたしはそれを“怒り”だと思った。禁域に足を踏み入れたムシけらを罰する火だと。
     どうしてその時腰が抜けなかったのか不思議だが、その光景から目を離さなかったのは、勇気があったからではない。恐れのあまり、目を背けることも、閉じることもできず、固まって、その光景が脳に刻まれるのを感じ取っていただけ。
     そしてその雷鳴の響きに、怒鳴り声ではなく“悲鳴”に近い響きを感じたこと。そして、その稲妻が上へ上がり、風下側へ噴煙の中を巨大な赤い火矢のように飛んで行ったこと。あらゆる不思議に、わたしは里を追われたことも食べ物も何も持っていないことも忘れ、噴火のおそれすら忘れ、ただ一つ定めていた当初の目的、『山を登る』そのためだけにぼんやりと脚を動かしていた。
     ……あるいはあれが、“雷の神”か。
     わたしは稲妻が彼方へ消えた天を、呆然と仰いでしばらく固まっていた。長時間でも、一瞬でもなかったように思う。すると、風下の彼方から、赤い稲妻は戻って来た。気のせいか、火の山より放たれた時より、速度を落として戻って来たように感じた。まさかどこかでUターンして戻って来たのだろうか、と見ていると、それは最初の轟きより遠雷に近い響きを立てながら、元来た噴火口の中へ入って行ったのだ。
     その正体を確かめたいという思いと、恐ろしいという思いをお手玉しながら登る。火口を覗く位置まで登るつもりはあった。しかし、あの赤い稲妻。あの光景を思う度にたてがみがざわつく。この“おそれ”に関しては、いやそれを筆頭に何もかも、わたしの見通しは甘すぎた。
     見晴らしが良くなり渇いていく黒い礫地を登りながら思う。きっと、わたしの確かな居場所など、どこにもない。
     里に居場所をなくし、ムシ気のない場所を目指し、“神”の姿を見続けてしまった。この恐れ知らずめ、と不敬を問われそうだ。わたし自身は、常に恐れと共に生きているというのに。
     それでも登り続ける。自分がそれを許される、そんな自信があるわけでもなかったが。
     ただ、せめて、“神”には許してほしかった。もしや、“神”ならば、その存在が大きいがため、わたしのようなはしたの存在を無視に近い形ででも、認めてくれるかもしれない。
     これは弱虫の自分の、挑戦でもあった。もし、どうしても恐れで登り切れないならば、諦めても良いか。そんな甘さも捨てられないまま。つまらない意地なのだろう。向き合うためにこの山を目指すのは、愚か極まりないことかもしれない。
     それでも足を向けたのは、里の信仰を“不思議”と思ってしまったから。
     火の山の裾にはいくつも集落がある。集落ごとにムシも違えば考え方も違う。
     わたしは里が嫌いなわけではない。しかし、他の集落の話を聞いて、妙に思った。
     他の集落は、何故“雷の神”を恐れているのだろう。
     その疑問に気付き、そして里で生まれ育ったために疑問に思わなかった問題に気が付いた。
     わたしの集落は、何故“雷の神”を敬っているのだろう。
     信仰について考えたことなどなかった。それは、光輝くモノを見ると自然惹かれるように、“そうあるべきモノ”の一つだと思っていたからだ。
     話を聞くのには手間取った。わたしのように、信仰に関して何も考えないでいる者がほとんどだったからだ。
     しかし、確かな手がかりはあった。迂闊なことと言えたが、それはわたしの生業に関係する、歌い継がれた“詩”にあった。
     それは、“雷の神”と“雨の神”に関する詩だった。
     この詩の真偽が知りたい。風に立ち止まって登ることを忘れそうになる度に、わたしはこの思いを反芻した。
     しばらく根を詰めて登っていたら、息が切れてきた。登るほど風は強く、岩地ばかりになり、緑もムシもない土地が天へ尖っていた。ただ、確かに何より巨大な“生命”が、この山の火口の中で息を潜めている。あの赤い、稲妻……
     恐れと疲れで、身体が重くなってきた。わたしは思いついて、楽器を手に取った。歌いながらゆっくり上ろうと思った。より息は上がるかもしれないが、しばらく体の悲鳴を無視できる。
     曲目は、やはりあの歌だ。“雷の神と雨の神”。

    「――洞穴に籠ってしまったのは誰?
      昨日のかくれんぼで いなくなっちまった影の一つ?
      それとも 𠮟られて泣いてる 幼子か?
      おお それは確かに 泣いていた
      大きな大きな 幼きウィルムが 泣いていた
      脱皮したての 黒いウィルム
      涙が洞穴に 泉を作る
      それでもウィルムは 泣き止まぬ
      おお どうしたのか 巨きな存在よ
      その巨体ゆえ 脱皮が辛かったのか?
      それはちがう ウィルムはしゃくりあげる
      愛する者を がっかりさせたと
      叱られて泣く 幼きウィルム
      おお 泣かないでおくれ 幼きウィルムよ
      おお 洞穴が溢れる 涙は川になる
      黒いウィルム 暗い洞穴
      そこに 赤い光が……」

     わたしは息を呑んだ。
     今、泣き声が聞こえなかったか?
     歌っていた詩が詩だ。空耳かもしれない。そう思いつつ、息を整えるついでと、耳を澄ます。
     ……やはり、聞こえる。
     泣き声だ。心に直接響くような、足から伝わる火山性微動のような、むせぶ声。
     わたしのような物好きなムシが近くにいるのだろうか? もしや、登ったはいいものの恐れか災難によって、下りられなくなった、など。
     わたしは風の中耳を澄まして、山を登り続けた。
     登るほど、妙な悪寒を覚えた。
     ムシの姿はどこにもない。徐々に泣き声ははっきり聞こえてくる。つまり声の主に近づいてはいるのだ。
     ただ、泣き声がはっきりするほど、それは尋常のムシの声ではない、と感じるようになった。何か、巨きな存在の、声ならぬ声。
     確かなことは、それが“泣き声”であること。
     声の主は悲しんでいる。奏でることを生業とするわたしの耳は、そこに疑念を挟むべきでないと告げていた。しかし、こわい。
     いよいよ山頂が近づいた。おそらく、間違いなく、声は火口を発生源としている。
     ここに来て、火口を覗ける位置へ行くのが怖くなった。
     泣き声はいよいよはっきりとしている。同時に恐ろしい熱気も伝わってくる。
     どうしよう、下手に同情の声をかけるのは不敬だろうか。いや、ここまで登って来てしまったことそのものが不敬ではないか。ムシの来ない場所で密かに泣いていたのだ。理由など知りようがないが。このまま、密かに泣かせてやるべきではないか。わたしは、こっそり下山しようか……
     迷って、考え立ちすくんで、疲れのあまりよろけた。
     火口付近は特に斜面が厳しかった。足元は崩れやすい礫だった。
     思わず短く悲鳴を上げ、とっさに岩を掴んで滑落を免れた。
     坂を転がり落ちていく石の音が、遠のいていく。誰もいなくてよかった。
     息をつき、そして、泣き声が止まったことに気が付いた。
     “相手”が、こちらの存在に気が付いた、のか?
     頭が真っ白とはこのことだ。鎮魂曲も何も風に吹き飛んだようだ。
     弁明をすべきなのかもしれない。しかし上手い言葉など出てくるはずもない。
     火口を抱えた山頂へ目をやる。黒い岩地と黒い煙。境目のはっきりしないそこは、ムシが立つべきでない禁域と見て取れた。
     その黒い噴煙の中、赤い光がふっと揺れた。
    「……泣かないで……」
     思わず声に出し、やってしまったか? と固まった。
     相手は幼子ではない。“巨きな幼子”の歌に引きずられてしまったか。
     わたしなどが、そのようなこと。
     心臓のみが焦って手足はびくとも動かない。

     煙の中に、確かな火が見えた。
     火は、成虫の様となり、煙の中に現れた。
     緋色の一対の目。蒼褪めた白の顔。それぞれの目の中心を通るような、額と頬の縦のライン。纏う翅はまるで火だ。羽根の一つ一つが燃えかがやいている。
     その特徴をしっかり確認できるほど見つめて、急に全身の力が抜けた。
     相手がムシに似ていたからだろうか。それでもムシではないと、確信したからだろうか。
     わたしは瞬きをした。

     何かが爆ぜた、音がした。
     誰かに抱き留められ、目を開いて息を呑んだ。
     真正面に緋色の目がある。近い。
     離れていたのに。相手が一瞬で巨大化したようにも錯覚した。
     石が転がり落ちていく音が耳に入った。
     どうやら一瞬気を失い、再び滑落しかけたらしい。
     わたしは、緋色の目の“ムシ”の、腕の中におさまっていた。
     ……わたしは、“雷の神”に助けられ、抱き留められた?
     理解が追い付かない。謝るべき口も動かない。
     緋色の目に脳が焦がされているかのようだ。
     その緋色の目の上縁が、明るい。火の粉がちりと上がった。
     ああ、確かに“雷の神”だ、と思った。
     そしてもしや、この火の粉は“涙”ではないか? わたしはようやく瞬きした。
    「……あ、の」
    〈…だ… 大事、は…?〉
     それぞれが、戸惑い上ずった声を、絞り出した。
     わたし自身はまだしも、この者も戸惑っている?
     とりあえず生きているし、怪我もしていないのだ。必死の思いで小さく頷く。
    〈…何故… このような… 所へ…〉
     泣いていた声と同じ声色だ。と思ったが、こわいので確信は胸に秘め、弁明を考える。なんだか頭が回らない。焦っているせいだろう。熱いせい、もあるかもしれない。
     抱き留められたままの自分は、どうやら火傷も何もしていなかったが、形を持った火に抱かれているような心地だ。いや、きっと、まさにそうなのだろう。
     困っているうち、どうやら相手も困っている、と気づいた。
     相手はわたしを抱えたままおろおろし始めた。(不敬な表現をお許しいただきたい) とりあえずわたしを地面に降ろそうとした。幼子を降ろすかのように。この者はわたしの倍以上の背丈があった。どちらにせよ、わたしはこの者にとって幼子と変わりはないのであろう……そんな幼子同然のわたしとしても、その働きに応えたかった。が、足が地に着いて手を離された途端、三度目の滑落をしそうになり、わたしは二度も抱き留められることになった。腰が抜けてしまっていた。
     相手は抱きかかえたわたしの顔を見て、目を上げて辺りを見回し、歩き出した。何歩か歩いた所に大きな黒い岩があった。その岩に片方の手を突き出した。
     岩に指先が触れると、縦に一筋赤い光が走り、まるで岩に擬態していた幕がそのすき間を開けたかのように、柔らかな木陰色の光の差す“入口”が現れた。
     相手は私を抱えたまま幕を潜り、“岩”の中へ。
     “岩”の中は不思議と明るかった。黒い火山岩や火山礫ばかりの周りの景色が、境界越しに見えている。境界は内側から見ると、赤い紗を天の一点で結わえた、ある種の幕屋の仕切りのように見えた。重たく硬そうな“岩”の中に入った一瞬前の記憶を疑いたくなる。
     しかしここは、こんな所がこの火の山の上にあったとは。
     里で一番大きな集会所の広間ぐらいの空間。地面は均してある。境界の山頂側は黒い礫と岩の壁となっている。隙間から見た限り。
     “岩”の中は、緑で溢れていた。赤い紗の交わる天の一点には、白色の明るい灯火が吊られている。その灯火に届かんばかりに伸びた木や、わたしを抱えたまま歩く相手の足に、絡んでしまいそうに這う蔓草、丸く分厚い葉の鉢植え、柔らかく美味しそうな葉の鉢植え、水を張った鉢に浮草を浮かべたものまである。進むこの者の燃えるような翅がいくつかの葉先と触れ合ったが、葉は焦げることも萎れる様子もなかった。
     緑に囲まれた中央に、上面が鏡のように磨かれた黒い石が大小二つある。ガーデンテーブルとガーデンチェアのようだ。
     わたしはその“ガーデンテーブル”の上にゆっくり降ろされ座らされた。相手は立ったまま、わたしの身体を左右から乗り出すように眺める。縮こまって見られるがままになっていると、相手は俄かに机に肘をつき、顔を覆い呻いた。
    〈…神経…〉
     相手は、そう口にしてすぐハッと顔を上げ、わたしが何か問うか反応するより早く、何かを否定するように首を横に振った。
    〈…すまない…〉
     謝罪の言葉を耳にして、いよいよわたしは混乱した。
     わたしはこの者に何かされただろうか? 滑落を救われ、この安らぐ場所に避難させてもらっただけだ。何かあったとして、謝られるような立場ではない。
    「なぜ……あやまられても、え……わたしは、なにか、とても悪い状態なのか」
     掠れた声で最後の一音を口にするかしないうちに、相手は慌てた様子で首を横に振り、わたしに触れようと出した手を、引っ込めて、自らの口元で空を掴み、顎を引いた。首元を覆う炎の翅の端が、ゆらゆらぼうぼう揺れている。
    〈…驚かせた… …腰が抜けたこと… 身体に問題は、ない… すまない、あ… …落ち着いて… 立てるまで… …話を… 良いか…?〉
     わたしは頷いた。安堵の唾を呑もうとして、軽く咳く。
    〈…喉… 渇きか…?〉
     わたしは喉を押さえてうんうん頷いた。だいじょうぶ、という意味もこめてのものだったが、相手は口元の近くに控えさせていた右手に奇術の様で小さな“鍵”を出現させ、その鍵で机上の空間を“開いた”。見えない布を左右に押しやると、中には棚の段があった。机上にとても高度な擬態の布で、棚を隠してあったらしい……とりあえずわたしはそう捉えた。棚の一番下には大小の透明な瓶が並び、それぞれに澄んだ水が満ちている。相手は最も大きな瓶を取り蓋を開けると、上の段にあった白い地層色のティーカップに水を注ぎ、差し出した。
    「い、いえ、そんな……」
     隠しきれない渇きにつっかかりながらも遠慮を示すが、相手はそれを引っ込める気はないようだ。わたしは頭を下げながら、恭しくカップを受け取る。手の中の揺れる水面に夢心地を覚えながら、口をつける。
     あらゆる雑味のない、透明な味だ。この庭の空気を液体にしたものをそのまま飲んでいるようだ。空気と同じ温度の水であったからかもしれない。それゆえに優しかった。一息で一杯の水を飲み干してしまった。
    「ハア。ありがとうございます」
    〈…温くなかったか…?〉
     相手は返答を待つことなくティーカップに二杯目の水を注ぐ。次が欲しそうにカップを差し出していたせいかもしれない。返そうと思ったのだが。遠慮しようとして、自分の身体はまだ水分を必要としていると気が付き、本心から断れず注がれるままになる。
     二杯目を注ぎ終わると、相手はわたしの持つカップに手を添えた。ほんの一息の間。離された手を見送ると同時に、わたしは手の内の冷気に気が付く。
    「あれ」
    〈…冷やしたもの… 良ければ…〉
     どういうことだ、と思いながらも二杯目を口にする。味は変わらず透明だったが、予想もつかなかった衝撃に背筋を伸ばす。
    「つめたい! え、つめたい? ええ……?」
    〈…勝手に… すまない… 戻そうか…? 温度…〉
    「い、いや、いえ。びっくりしただけ、です。研がれた釘のように冷たい、これほど冷えた水は、飲んだことがなく」
    〈…冷やし過ぎたか…?〉
    「いえいえ! ありがたく、味わいます。あ、と、びっくりしたのは、もう一つ。あの……」
    〈…なにか…〉
    「……なぜ、冷たくなったのだろうと。さっきと同じ瓶の水、ですよね?」
    〈…わたしが… その水の熱を… 取った…〉
    「熱を、取った?」
    〈…水の持つ熱… それを奪えば… 熱が減る… つまり… 冷える…〉
    「へ、え。なんか、すごく、意外で」
    〈…手を触れた時… …湯になると… 思ったか…?〉
    「いや、そこまでも何も予想しませんでした。ウム、わたしの想像力の、限界です。わたしはただの、ムシですから。あなたは……」
     わたしは言葉を飲み込んだ。わたしのような者が指摘するには、不敬になる相手だ。わたしは相手の緋色の目を見た。恐れを覚える火の色。この方は、カップに触れて水を冷たくすることはもちろん、熱くすることもできるはず。わたしなど、その目で見るだけで灰にすることもできるだろう。今、こうしてもてなしてもらっているのは、相手の気まぐれか? 好意か? それとも、その厳しい炎を宿す目の底は、厳しさばかりではないと?
     わたしの里では、この者を敬っていた。あの詩に詠われていたのは、厳しい神ではない。
    「……雷の神。山の、主。ですよ、ね?」
     相手は鉄瓶に水を注いでいた。その鉄瓶を右手に下げ、その下に左手を添えながら、わたしを見て、下を向き、無言でゆっくり頷いた。
    「どうして、わたしのような、ムシに……」
    〈…こちらも… 訊きたい… 何故… ここに来た…?〉
     相手は持っていた鉄瓶を鍋敷きの上に置いた。鉄瓶の中がぐらぐら言っている。
    「すみま、せん。不敬にも、こんな所まで、登ってしまい……」
    〈…それより… 危険だ…〉
     相手は、空になったカップを指差した。差し出すと、それをカップと揃いのソーサーの上に置き、空のカップの中に銅線を編んだ小さな籠のようなものを置いた。
    「すみませ、ん。危険はわかっていたはず、だったんですが、想像した危険は熱さに関してで、地形の危険まで、しっかり予想してなくて。改めて、ありがとうございます。助けていただいて、こんな素敵な場所に来れて、水までくれて……」
     相手は下を向いて、頭を横に振った。そして机を離れ、生い茂る緑の奥へ身を滑らせた。
     何か気を悪くするようなことを言っただろうか。何をしに行ったのだろう、と、不安が形になる前に、すぐに相手は戻って来た。手に草の葉を何本か持っている。
    〈…思慮が浅い…〉
     ぼそりと呟くように口にして、相手は手の中の草の葉を千切り、カップの中の籠の中に入れていく。
    〈…そればかりでは… なさそうだが…〉
     相手はカップに鉄瓶の湯を注ぐ。白い湯気が溜息の形に思えた。
    「そうです、ね……きちんと話すべき、ですね。ちょっと、でも、上手く話せるか……だらだら長くなってしまいそうで」
    〈…構わない… わたしよりは… 良い喉のようだ…〉
    「え?」
    〈…お前が… 急ぐのでなければ… 話を…〉
    「……はい。わかりました。でも、本当に、きっとあなたからすれば、つまらない話です。きっと、あなたの言う通り、思慮が浅いのですし」
    〈…気をつけてほしい… という意味だ…〉
     その声に、登っている最中に聞いたのと通じる震えが混じっているように思い、その目を見る。その緋色の目はお湯に浸った草の葉を見つめながら、どこか憂えているように思えた。
    〈…お前なりに… 考え… そうしたはず… それを… 聞かせてほしい… …責めるつもりは… ない…〉
     相手はカップの中から草の葉の入った籠を引き上げ、もう一つ出してあった空きのソーサーに置く。ティーカップの中には、淡い緑色をしたお湯が残った。
    〈…熱いままか… 冷たいものか… どちらが良い…?〉
    「え、これは?」
    〈…お茶、だ… 癖のない葉を… 選んだつもりだ… …茶は好まないか…?〉
    「いえ! あまり口にする機会がないので、その、あの、いただいていいんですか?」
    〈…そのために… 用意した… …温度は…?〉
    「あ、え、えっと、ウム……さきほど、冷たいものをいただいたので、冷えすぎないように、熱いものをいただきます」
    〈…火傷しないよう…〉
     相手はソーサーとカップに触れつつ茶を寄こす。わたしはその取っ手を取り、空いた手をカップに添える。温かい。
    〈…その温度なら…〉
    「ありがとうございます。いただきます」
     わたしはカップに口をつけた。穏やかな草地の匂いがする。冷たい水で目覚めさせられた体内に、温かく優しい。
    「なんだか、ほっとします。やわらかくて、爽やさがあって、ほのかに甘くて、おいしい」
     相手の目を見上げると、一瞬その目がふわと和らいだ。そしてすぐ顔を背け、相手はゆるりと石の椅子に腰かけた。椅子に腰かけた相手の目線と、机上のわたしの目線とは、ほとんど同じ高さであった。
    「お茶、ありがとうございます。こんなふうに、もてなされたこと、なかったので、本当に、嬉しいです。わたしは、こんなふうに、もてなされるような存在ではありません。わたしは、小さくて、弱い、はしたのムシなのです」
    〈…そのムシの価値… 体躯や… 力によって… 決まるのではない…〉
     諭すように雷の神は言う。その響きに、怒りや悲しみに寄った音があり、わたしの毛は立ち震えた。
    「でも、わたしは……その、孤児、なので。貴い血でもなんでもありません」
    〈…孤児…〉
    「親のことはわかりません。わたしがわたしについてわかっているのは、この奏者としての本能のみ。そして奏者であったこと、それが、孤児としても、というか、里の孤児院の仲間でいるには、目の上のコブだったようです。いや、奏者であることは、言い訳にすぎないです、ね……ウム。わたしの行動が、あんまりためにならなかったというか、追い出されて冷静に考えると、やっぱりわたしが悪かったのかも、と……里は、貧しくなってしまって、孤児院だって大変だったのに、わたしはのんきにしていて……やはり、わたしが悪かったんです……」
    〈…順に… …まずは… …貧しくなったこと…〉
    「ああ、はい、すいません……少し前のことです、里を、盗賊が襲いました」
    〈…盗賊…〉
     地を這う風のような声に、わたしの毛がぞわぞわ震える。当時の感情を忘れたまま事だけを追うつもりだったが、不意に蘇った当時の“恐怖”に、補充したばかりの水分が目から逃げようとするのを感じる。
    「……はい。幸い、わたしの里は特別な守護を持っていたので、里のムシは一匹とて失われませんでした。守護の力に退けられ、盗賊たちも早々と退散していきましたが、里の食糧や家財のほとんどは奪い去られてしまいました。それらを守ろうと戦う勇敢なムシは、わたしの里にはいなかったのです。いえ、いなくて良かった、のかもしれませんが……そのためにただ、ひたすらに守護され、命は皆助かったのです。わたしの里は被害が少なかった方です。そう、でも、生活は厳しくなってしまいました。孤児院にも影響は出ました。孤児院の保護者らは、それでも優しくしてくれました。彼らも生活が厳しかったはずなのに。孤児院の、仲間たち、も……不安だったはずです。みんな、必死に生きて行こうと……。わたしは、そのころ……、……」
    〈…真実を…〉
    「え……」
    〈…お前は… 誠実だ… ゆえに… 言い淀んだ… …真実を明かす… 恐怖… …それでも… 嘘を避けている…〉
    「は、い……里の教えの、一つです。わたしは、そういったものを、調べていました。それで、ある意味、怠けていることに、なったのですが……」
    〈…よく残っていた…〉
    「え?」
    〈…よく調べた…〉
    「……あ、はい。あ、ありがとうございます。ええと、でも、時がふさわしくなかったのかもしれません。みんなは畑を耕したり、収穫したり、建物を直したり、いろいろ忙しくしていました。のに、わたしは、自分の知りたいことを調べていて、きっとそれは彼らにとって確かに『怠け者』に違いなかったのです。だから、わたしは仲間外れにされた。わたしは鈍かった。しばらくはそれに気づきませんでした。いや、気付かないようにしていたのかも……でも、気付かざるを得なくなった。孤児院では平等に食べ物を分け合うことになっていましたが、ある時からわたしの分が減らされ、ついには無くなっていた。『奏でる者なら、その業で稼いで食べるといい』と言われました。孤児院のルールに反している、とは思いましたが、わたしはその勧めに従って、里の近くへ出て演奏をすることにしました。しかし、わたしの里も周囲の里も、豊かではない。腕のせいもありますが、わたしは自分が食べる分も稼げないまま、孤児院に帰りました。すると、仲間は保護者たちに……わたしが、『自分だけ稼いで食って、自分たちには何もくれない、イヤしいムシだ』と告げました。そんなに稼いでなんかいない、と言い訳しようとしました。『ちっとも稼いでないっていうのか?』それには、言葉を詰まらせました。ほんの微量、稼ぎがあるにはあったんです。わたしは、嘘を吐けなかった。ちょっとはある、と口ごもると、『つまり、お前はもう自分で稼げるってワケだ。それなら、こんなトコにいる必要はない。そうだろう?』 言われて、わたしは、その通りかもしれない、と思いました。いくら稼ぎが微量と言っても、全く稼ぎのない孤児もいる孤児院の食い分を減らしてしまうのは、確かに良くないのかもしれない、そう思って、わたしは孤児院を離れることにしました。わたしはまだ未熟です。孤児院だけじゃなく、里全体の食い分が良くない……わたしは負担をかけないようにしようと、里を出ました。吟遊詩人としての生業は、確かに、一つ所に留まるよりは、旅に出た方が良いのかもしれない、と」
    〈…しかし… わざわざこの山を… 登らずとも…〉
    「ムシ気のない場所を求めて……」
    〈…?〉
    「ちょっと、恐くなってしまって……彼らに敵意と呼べるような悪意はなかったかもしれない。それでも、仲間外れにされたってわかった瞬間、彼らが急に冷たく見えてしまって。ムシの前で明るい曲を奏でるには、心が、なんだろう、怯えてしまって……わたしが彼らの仲間外れになったのには、わたしが雷の神について調べていたこともあったのかもしれない」
     ハッと目を上げる。緋色の目は、どうやら驚きの色を灯している。
    「いや、あなたのせいじゃないです! もちろん! あの、でも、一度ちゃんと向き合いたいと思って。ムシのいない所に行って、ムシ頼みで生きる他ない生業の自分と向き合う、そんなこともあって。何か、得るものも、あるかもしれない。あるいは、不要な部分を、捨てることを。漠然とした期待と望みと、ちょっと投げやりな気持ちで、登って、しまいました……もう一つ、盗賊への恐れ、があります。里が貧しくなったのも、盗賊の襲撃があったからです。幸い、里のムシは誰も殺されずに済みましたが……この山の風下側、が、盗賊の巣になっていると、聞きました。だから、里を出て旅をするにしろ、彼らの住む地はできるだけ避けたい。山にはきっと盗賊も寄り付かないだろうし、きっと遠くまで見通せる。自分の進むべき、安全な良い道を探すためにも、いいかと思って。風下側がどうしてもだめだったら、そちらは諦めるつもりでした」
    〈…事情はわかった…〉
    「あの……わたしは、どうなのでしょう……」
     漠然とした問いに、相手は首を傾げた。
     自分でも尋ねたいことの焦点が定まらなかった。わたしのことを怒っているのかどうか。許してくれるのかどうか。わたし自身の行くべき道は。わたし自身に本当に価値はあるのか。そして、あなたが雷の神であるならば、わたしにとっての神であってくれるのかどうか……
     手の中の空のティーカップを見つめながら、ちゃんとした文章にもならないような独り言のようなぼんやりとした問いを、解けそうな結び目を連ね伸ばした紐のように、それでも口から出してしまう。
     わたしの纏まらない“問い”を、相手は静かに聞いてくれた。
     わたしの口がようやく問いの末尾を出してしまって、閉じる口、訪れる沈黙。問いと同じぐらいの沈黙が過ぎようとして、不安になってきたところで、相手は独り言のように呟いた。
    〈…必ずしも… 明るい曲のみが… 必要とされて… いるわけでも…〉
    「え?」
     相手は首を横に振り、わたしが言葉を出した例よりゆっくりと、真剣に言葉を探ったらしく口を開く。
    〈…まず… わたしは… “神”ではない…〉
     驚いてしまった。思いもよらない部分の否定から入ってしまった。
    「え、でも……信仰を異にする里でも、たいてい、あなた……山の主である火のことは、“雷の神”としてみんな、そう思っていますが……」
    〈…お前たちにとって… 手の出しようのない… 力を持つ存在… それは等しく… 神と呼ばれる… そうであろうと… …それは… わたしにとっての… 神と同義では、ない…〉
    「では、あなたにとっての神も、存在するのですか?」
     相手は、頷いた。
    「ということは、もっとずっと、力のある方なのですか?」
     相手は、しっかり頷いた。
    「想像もつかない、です。あなたの威力でさえ、ムシたちに畏怖の念を起こさせるには、充分すぎるほど……」
    〈…それで充分… そうだった…〉
    「え」
    〈…しかし… 知恵は与えられた… わたしも… 業を… そのために… “火”となった…〉
     ほとんど理解できない言葉が紡がれた。それは、“神聖さ”の一端であるような気がして、わたしはそれについて問い直しはしなかった。
    「……でも、しかし、“雷の神”と、もし、呼ばれることが本意でないなら、あなたのことは、なんとお呼びすれば?」
    〈…グリム…〉
    「……グリム?」
    〈…わたしの名だ…〉
    「……グリム……そう、名前で、お呼びしてよいのでしょうか?」
    〈…もちろんだ…〉
    「えっと、じゃあ、グリム、様?」
     平凡な敬称しか添えられず、これでいいのだろうかと問うように相手を見ると、きちんとその名を発音したはずなのに、相手は俯いた。
    〈……“様”は… …こそばゆい…〉
    「え」
    〈…呼び捨てで… 構わない…〉
    「ええ、でも、いやあ、ウム……じゃあせめて、グリム、さん?」
    〈……ま、あ……〉
     相手の蒼褪めた顔が、赤らんだ、ように見えた。
    「じゃあこれで、グリムさん」
    〈…よ… …呼び捨てで… 頼めるか…?〉
    「ええっ」
     相手は俯いた。炎の翅がぞわぞわ揺れている。
    〈…“雷の神”は… たいがい… 呼び捨てのはず…〉
    「え、うーむ、そういえば。でも、それは“神”が敬称になるからでは?」
     相手はウゥムと唸ってすっかり下を向いてしまった。妙なところに羞恥を覚えるものだ。これは、こちらの“常識”を押し付けるべきでない、と、わたしは考えた。
    「……わかりました。呼び捨てをお許しいただけるのなら、グリム。そう呼びます。そう呼んでいいのですね?」
     相手は、『グリム』は顔を上げ、頷いた。これではどちらが上位の立場かわからない。なんだかわたしもこそばゆい気分を毛の根に抱え込み、ふわふわと妙な笑みを顔に浮かべた。たぶん。
    〈…ところで… …雷の神について… 調べていた、と…?〉
    「ウム、そうです。もっと余裕のある時期に調べれば良かったのですが……わたしの里は、周囲の里と違って“雷の神”を敬っていました。他の里も敬っていなかったわけではないですが、他の里が雷の神を恐怖を土台に敬っていたのに対し、わたしの里では恐怖以外の、もっと温かみのある存在として敬っていました。里の外に出て演奏したりしているうちに気付いたことで、不思議に思って。こうやって実際にお会いしてみて、虚言でも妄想でもなかったと安心しました。このように会ったことがあったから、あの“詩”が歌い継がれてきたのでしょうか」
    〈…あの“詩”…?〉
    「『雷の神と雨の神』という詩です。固く守られてきたのはその内容で、歌い方は歌い手によって違ってきます。よろしければ、あの、今演奏してみましょうか?」
     グリムは頷いた。この詩に歌われている当事者の前で奏でる……思ってもいなかったことに、わたしは演奏しようとしているリズム以上に早くなる鼓動を懸命に忘れ、詩に集中した。
     震える手でティーカップをソーサーに置き、愛用の蛇腹楽器バグドネオンを背から降ろして両手に挟む。自分の手に最も馴染んでいるそれは、程よい高揚と平安をもたらしてくれる。
     詩にある悲しみ、温かさを、できる限り最善の演奏で。

    「――洞穴に籠ってしまったのは誰?
      昨日のかくれんぼで いなくなっちまった影の一つ?
      それとも 𠮟られて泣いてる 幼子か?
      おお それは確かに 泣いていた
      大きな大きな 幼きウィルムが 泣いていた
      脱皮したての 黒いウィルム
      涙が洞穴に 泉を作る
      それでもウィルムは 泣き止まぬ
      おお どうしたのか 巨きな存在よ
      その巨体ゆえ 脱皮が辛かったのか?
      それはちがう ウィルムはしゃくりあげる
      愛する者を がっかりさせたと
      叱られて泣く 幼きウィルム
      おお 泣かないでおくれ 幼きウィルムよ
      おお 洞穴が溢れる 涙は川になる
      黒いウィルム 暗い洞穴
      そこに 赤い光が射した
      洞穴を訪ねた 火のようなモノが
      ウィルムを見つけ その眼が光る
      火のようなモノは 黒いウィルムをかき抱く
      捜していたのだと
      もう怒っていないよと
      お前が見えなくなって 心配したと
      黒いウィルムは涙を流す 清い水を
      火のようなモノも泣いた 火の粉の上がる目で
      黒いウィルム 頭を上げる
      晴れやかに からり 笑う
      洞穴の外へ 再び空を舞うために
      火のようなモノ われらに贈り物をくれた
      あの子を慰めてくれてありがとうと
      火のようなモノ 黒いウィルム
      ふたつの巨きな存在は 洞穴の外へ 空へ
      それらは “雷の神” “雨の神”
      彼らに向かい合った この僥倖
      なんというものであっただろう
      そして我らは そこに共感と 安心を見出す
      彼らにも ムシの家族のような 愛があったのだと」

     演奏を終える。
     控え目ながら温かい拍手に、わたしは頭を下げた。控え目に思えたのは、相手が照れていたからかもしれない。顔を上げて見たグリムの蒼褪めた顔は、明るい色を灯していた。
    〈…ブラボー…!〉
    「こちらこそ、聴いていただき。あの、拙い演奏で、お耳汚し……」
    〈…そのようなことは、ない… 演奏、ありがとう…〉
    「いえ、そんな」
    〈…腰… 治ったな…〉
     え、とわたしはわたしの足元を見た。二つの脚が“机の上”で、何事もなかったかのように胴を支えている。
     わたしはいつも立って演奏する。さきほど詩に集中したまま演奏に入った時、無意識に立ち上がっていたらしい。
    「あ、本当だ。ありがとうございます」
    〈…わたしは何も…〉
    「演奏の際、無意識に立てたみたいですね。いろいろ、気にかけて下さり、落ち着いた場を下さり、ありがとうございます。それできっと立てたんです。あ、机っ! す、すいません」
    〈…いい… ここには椅子が… 一つだ… 机上に居よ… 話もしやすい…〉
    「そ、それなら、甘えさせていただいて……」
     と、座り直しながら、ここに来た時にグリムが言った言葉を思い出す。
    「……まだ、ここにいていいんでしょうか? わたしの腰は治ったようですし、でも……」
    〈…話を… 願えるか…? まだ… 訊きたいことが、ある…〉
    「はい。もちろんです」
    〈…お前からも… 訊きたいことが… ありそうだ…〉
    「実は、はい、そうです。火のようなモノがあなたとして、『黒いウィルム』とは、やはり、度々大空や山の煙の中を泳ぐように飛んでいる、あの大きな影のことでしょうか?」
     グリムは頷いた。なぜか、悲しげに思えた。
    「あなたとは、どういう関係で、どのようなモノなのでしょうか。さきほど演奏した詩、ムシの持つ家族愛に似たものを目撃し、その感銘を詩にした……あなたが、さきほど自らについて“神”を否定したように、“雨の神”も、やはり神ではないのでしょうか……?」
     グリムは頷く。深く。
    〈…神ではない… …わたしよりも…〉
    「それは……?」
    〈…わたしのこの身体… わたしが意図して… 形作ったもの… あの者は… 生まれながらに… 塵の身を… 備えている… …わたし以上に… お前たちに近い… 存在…〉
    「そうなのですか」
    〈……ゆえに… ムシらに… 関わらぬ… 高き空を… ゆけ、と…〉
    「え。それは、その……もしや、あなたに近い存在であるように、と……?」
     やはり、わたしのようなムシは卑しいものであり、本来この目の前の存在とも関われるような立場ではない。そして卑しい立場の者から距離を置くことで、黒いウィルムの高貴な身分を保とうとしたのだろうか。考えに違和感を覚えながらも、問うてみた。
     グリムは頭をゆっくり横に振った。
    〈…“近い存在”… それは確かに… 望んだ… それはしかし… おそらく… お前の考えと… 違う…〉
    「え」
    〈…ムシらの命… ウィルムの命… 共に尊い… …ゆえに… 互いが… わざわいにならぬよう… 災いを呼ばぬよう… ……〉
    「互い、に?」
     グリムは俯き、静かに深く息を吐いた。火のような翅の揺らぎが萎れたようになり、消えかけた蝋燭の火のようにひとつ爆ぜた。
    〈…今となっては… 過ぎたこと…〉
    「過ぎた?」
    〈…あの者は… 黒いウィルムは… …もはや… この地の空を… 飛ぶことは… ない…〉
    「え……」
     グリムは重い頭の俯きに耐えかねたように、机に肘をつき、拳で額を支えた。炎の翅が、不安定に爆ぜている。
     わたしは続きを聞くことを恐れた。悪い予想が頭に浮かんでいた。
     黒いウィルムは、もはやこの世に“いない”。
     まさか、と続きを聞くことをためらっていると、グリムはわたしの考えを見通したらしい。閉じていた黒い瞼を薄く開けた。
    〈…最悪の事態は… 免れた… …彼は未だ… 生きている…〉
    「そ、あ、そう、なのですか」
     わずかにほっとしたが、疑問は残る。
    「しかし……戻らない……?」
     グリムは頷いた。
    〈…彼は今… “光の地”に、いる…〉
    「“光の地”……」
    〈…我が山より風下… 草原を超えた先… 崖の向こうに… “光の山”… そう呼ばれる… 美しい山が… ある…〉
    「草原の向こう……」
     山の風下側の草原は、“盗賊の巣”だ。わたしなどが行くには難しい、彼方の地を空想する。
     そういえば、昨日見た山からの赤い光は、風下の彼方へ走り、その方向から戻って来たのだった。もしや、“光の地”へ行っていたのだろうか。
    〈…緑に溢れ… 花々の満ちた… “光”の住まう聖地…〉
     わたしは周りの草花に目をやった。この限られた空間に再現されているものは、もしやその地の風景なのだろうか、と。
    〈…彼はそこに… 墜ちた…〉
    「おちた」
    〈…近寄り、過ぎて……〉
     グリムは再び目を閉じる。
    〈……すぎるなと… …言った… …に…〉
     泣き声と同じになった言葉をこぼし、グリムは両肘をつき、顔を覆って声を殺し、震えた。
     わたしは、声を掛ければいいのか、触れて慰めたらいいのか、どうもできないまま宙を泳ぐ手を出したり引っ込めたりした。
     そうこうしているうちに、グリムは泣くことをなんとか耐えたらしく、片腕を机上に休ませて、零れそうな火花を湛えた目を開く。
    〈……彼は… ウィルムとしては… もう飛ばない… 別のモノに… 姿を変えている…〉
    「別のモノ、とは」
    〈…“光”を拝するモノ… …“蛾”となる… はずだ…〉
    「蛾……」
    〈…羽化がいつか… わからないが… …彼には… …“光”を通し… …『帰らぬように』… …伝言を… …預けた…〉
    「帰らぬように? え、あなたから、帰ってこないように、と? 何故……」
     わたしはあの詩を思い出す。黒いウィルムは、叱られて泣いていた。
    「……“怒り”……?」
     グリムは、瞼を下ろしながら頷いた。
    「え……また、何か、あの詩のようなことが……? 黒いウィルムが、何を……」
     グリムは、首を横に振った。
    〈…今… 彼への… 怒りでは… ない… …彼は… …わたしと… いるべきでは… ない…〉
    「どういう、ことでしょうか?」
     グリムは明答しなかった。代わりに、腕に預けていた頭を立てて、目を開けてわたしと目を合わす。
    〈…お前も… ここを出たら… 遠くへ行くがいい… もしくは… お前の里へ… 帰るがいい…〉
    「え……」
    〈…旅を望む… なら… …頼みたい… こと… も……〉
     風に揺らぐ灯火のように、揺らいで立ち消えそうな声。目を伏せてしまった。
    「……何を、頼みたいのでしょうか?」
    〈……〉
     炎の翅が不安定に揺らぐ。
    「……わたしに、できること、でしょうか?」
    〈…可能… そう考える…〉
    「……とりあえず、話だけでも聞かせてください。ここで休ませてもらったお礼もありますし」
    〈…そこまでの… ものでは… …… …では… 頼みを… 聞いてくれ… 判断は… 任せる…〉
     グリムは指をパチンと鳴らした。同時に、鳴らした指を中心に赤い煙が爆ぜる。奇術の要領で、赤みがかった蝋でできたような、六角形の薄く透けた板が指に挟まれ現れた。
     グリムはそれを机に置き、右手に擬態された“棚”を開く時に使った“鍵”を持つ。……その鍵は短い持ち手の先に、菊の花を象ったような円形の飾りが付いており、持ち手の沿線上の飾りの先の何もないところをどうやら“鍵”として用いた……その“鍵”だった物を、グリムは飾りを外側にして右手のスナップでくるりと大きく円を描く。すると、持ち手の部分が延長し、どうやらそれは“ペン”になった。
     グリムは六角形の板に、その“ペン”で何か綴り始めた。インクも何も使っていないようだったが、ペンを走らせた跡がグリムの目とよく似た緋色に輝いている。見える位置で書いているが、覗いても失礼にならないだろうか。迷うより正直に、わたしの目は逆さの文字を懸命に読もうとしていた。
     古い文体の文字だったが、なんとか読める。というのも、さっき演奏した“詩”は文章としても残されていて、今彼が用いているのと同じ文体で保存されていた。今流行っている文体とそれほどかけ離れていないため、無学なわたしでも歌を参考にして詩を読むことができた。
     彼の書き出したのは、短い言葉、そして次は、どうやら固有名詞だ。

     ――親愛なるドラクスへ。

    〈…黒いウィルムに…〉
     本文を書こうとした手が止まった。考えているらしい。
    〈…届けてほしい…〉
     本文の最初の一文字さえ書き出せないでいるが、わたしがまじまじと見つめているのがいけないのではないだろうか。
    〈…この… 手紙を…〉
     判断は任せる、と言ったが、わたしが頷く前に手紙を書くことに着手している。わたしによらず届ける手段もあるのかもしれないが。
    「……わたしが……できない場合は……?」
    〈…届くこと… 必要では… ない…〉
    「え、でも、手紙、ですよね?」
    〈…わたしの… 小さな慰め… それだけと、言える…〉
     本文を書き出せずに止まったままのペン。
    〈…彼が… …安楽ならば… それで良い……〉
     グリムは書き出そうと構えていたペンを、持つ手に拳を作り握る。
    〈……忘れたほうが… …なら……〉
     板を押さえていた左手の指に、力が入る。あ、と止める間もなく、板に稲妻のようなひびが入った。
     彼は、迷っている。彼はどうやら、自分と関わらない方が、相手の幸福になると思っている。それが確かなことなのかどうなのか、わたしにはわからない。
    「でも、あなたは……彼を愛している、のですよね」
     詩に記録された彼らの間の“家族愛”。
    「彼も、あなたのことを慕っていた、はずです。『愛する者をがっかりさせた』と泣いたウィルムは」
     俯いてしまった彼の翅が揺れた。
    「……ためらう理由があるなら……わたしは口を出せる身ではありませんが……とりあえず、書いてみてはどうでしょう。もし、相手に忘れられることがあなたの本望でも、残した言葉が『帰ってこないように』では、逆に相手は気にかかって、忘れられないかもしれません。相手があなたを忘れようとしていても、あなたを覚えていたいと思っていても、どちらにしても、また別の言葉を用意することが、助けとなるかもしれません。結局あなたが手紙を送らないことに決めても、手紙を書いたことは、なんの無駄にもならない……そう、思います……」
    〈……〉
     グリムは板のひびを、ペンを握る手の食指の爪先でなぞる。白く入ったひびがなぞった先から融け固まり、ひびは“傷跡”のようになって、板が修復されていく。
    〈…たすかる…〉
    「え」
    〈…お前は… 思わぬ佳客だ… ……書くことにする… 助言… ありがとう…〉
    「い、いえ、た、助けになったのでしょうか?」
    〈…もちろん… …書くのに少々… 時を要する… その間に… もう一つ… 頼まれては… くれぬか…?〉
    「はい、えっ、なんでしょうか?」
    〈…演奏を… わたしが… 書き終わるまで… …そう長くならぬよう… 心掛けるゆえ…〉
     やはり、書いているのをじっと見つめられるのは居心地が悪かったのかもしれない。それとも純粋に、音楽があると書きやすいということがあるのだろうか。両方かもしれない。
    「わかりました。えっと、リクエストとかありますか?」
    〈…賑やか過ぎないもの… 速過ぎないもの… であれば… 自由に…〉
    「わかりました。歌、は要りますか?」
    〈…無い方が… 良い…〉
    「はい。といっても、わたしは“詩”の方はそんなに蓄えがないんですけどね。曲の方はよく思いつくんですが」
    〈…演奏している間… お前も… 考えておくといい… …“光”の地まで… 旅をすること… …ムシの脚では… 近いとは言えない…〉
    「……わかりました。でもあの、根本的に、わたしは自身が弱いことを知っているのですが……」
     光の地は“盗賊の巣”となる草原を経由するらしい。体力や資力の不安より、里を襲った連中のような荒くれ者に捕まったり殺されることへの不安が大きい。
    〈…助けは… 用意する… …おまえの里に… 与えたものと… 似たものを…〉
     え、と問いかけようとして、すい、と控え目に向けられたペンに気付き、わたしは油を売っている自分を自覚し、口を閉じて蛇腹楽器バグドネオンを構え直した。
     わたしのような生まれついての奏者はきっと皆、得意な楽器が決まっていて、その演奏方法を誰かに教わる必要はない。メロディは単純なものなら卵の時分から持っている。生きていくうちに、誰かに教わったり、自分の知の証明として懸命に作ったりして、演奏できる曲が増えていく。
     懸命に作らずとも、なにかのきっかけか風や水の音に教えられてか、いつのまにか新しい曲目が増えていることがある。あるいは地層に眠る古代の生き物の記憶かもしれず、あるいは夢でなにかしらの歌を聞いたりと……そうしてわたしはいろいろな曲を演奏することができ、奏者の端くれとして生きている。
     奏者でない者には不思議な感覚なのかもしれない。わたしは奏でる度に、見えない場所に足跡を残している気分になる。それは風かもしれない。夢かもしれない。聞いた者の記憶の中かもしれない。見えないわたしの分身が、踊るようにそうやって足跡を残していく。
     わたしはまず、『雷の神と雨の神』に使った旋律をアレンジして演奏する。もとより賑やかでも速くもない曲だ。ちょっと寄り道して違う角度を。違った景色を。
     洞穴の外へ出たふたりを、今度は共に追いかけるように。明るみへ出た旋律。仲直りのダンスをイメージする。噴煙と雨雲に潜って、地のムシの知らぬ場所で、もしかしたら踊っていたかもしれない、と。暗い雲の中を恐れもせずに、くるくる回って上昇する。雲の上はどんな景色だろう。きっと開けて、どこまでも清く、静かな平原。雲の中を泳ぐ黒いウィルム。暗い雲の細かな粒一つ一つを喜びで包んで雨粒にしていく。静かな色で満ちた平原に一つ鮮やかな炎の翅は、貴重な花のようだろう。雲の上の平原なら、穏やかに静かに歌う喜びも、良く通るだろう……。
    〈……それは……〉
     わたしは息を吸う速度で手を止め、グリムの方に目をやる。どうやら本文も五、六行ほど書けていたが、その文の途中でピタリとペンの動きを止めている。見開かれた緋色の目が呆然とわたしを見上げている。
    「なに、なんでしょう?」
    〈……今の… 旋律…〉
    「今の、って、どこでしょうか? 途中までは先ほど演奏した曲のアレンジだったのですが……」
    〈…その後の…〉
    「その後、ちょ、ちょっと待ってください。ちょっと、ど忘れしました。すいません、また、ちょっと始まりから」
     やってみますね、と言いきらないうちに、グリムは鼻歌の要領で、んー……とその旋律を再現した。
    「……ああ、その歌! ご存じ、なんですか?」
     グリムは目を逸らしつつ、頷いた。
    「どこかで、わたしの演奏を聞いたことがあるのですか?」
    〈…そうではない… その曲… どこで拾った…〉
    「どこ、えーっと、ウムム…………ああ、たぶん、あれです。雨です」
    〈…雨…?〉
    「はい。わたしだけなのか、他の奏者も同じか知りませんが、わたしはムシから教えてもらったり、夢で拾ったりした他に、自然の音にメロディを感じることがあります。この曲は、雨から感じ取ったものだったと思います。喜びと恵みの雨。その感じ取った旋律をぼんやり考えながら眠って、夢の中で同じメロディが、もっとはっきり聞き取れる形で雨となり降っていて、それでしっかり覚えて、演奏できる曲の一つになったのです。夢の中の雨は、何か詩を歌っているようでしたが、そこまでははっきりと分かりませんでした。雨に芽吹く命を喜ぶような、そんな旋律が美しく、優しい歌です」
    〈……そ……〉
     ウム? と続きを待つ。グリムは止めたペンを引き上げ、わたしに何か指示をしようと指しかけた指を引っ込め、顔を横に向け翅を不安定に揺らめかせる。
     やがて、何か諦めたのか決意したのか、顔を正面に戻しながら下を向いたまま、権威を持つ者の命令ではなく、消え入りそうな“お願い”の声色で求めた。
    〈……その曲… 今一度… 演奏を… …途中で止めぬよう、に……〉
    「? はい、わかりました……」
     わたしは正確に曲を思い出すための序奏をつけて、『雨の歌』を奏でる。

    〈…山の底で
       震えていた
        朝日を羨み
       闇を嘆いた…〉

     息を呑む。緊張が演奏に影響しないよう、全力で手に気を配る。
     首を垂れて机の上で手を重ね、祈るように言葉を綴るグリム。
     風に似た、擦り切れてしまいそうな声だったが、大きな声を出しているわけでもないのに、蛇腹楽器バグドネオンの音にかき消されることなく、全ての音がはっきりと聞き取れた。
     ――あの夢の中の雨に包まれていたのは、これだ。
     雨粒一つ一つに火花のかがやきを包んでいる、不思議な雨の夢だった。その夢を、今はっきりと思い出す。その雨粒の芯で歌っていた声を、今はっきり聞いている。

    〈 わたしの山の 煙は黒い どうして命を見いだせよう
      貴重な輝き わたしからは遠い 産声の 温かさ
      お前が示してくれた 卵の時から
      わたしは触れた 貴重な輝きに
      わたしは懼れた 煙が卵を黒くした そのソウルまで濁さないか
      お前は孵った 純粋な声を上げて そのソウルの清さを示した
      教えてくれた 新しい生命というものが いかに輝き いかに美しいか
      力強いか
      お前は山から引き出した 卵の時から その貴重さで
      呼んだのは煙 風 そして火
      ああこの火が お前を穢すことのないように
      わたしの山の 火はあか
      この火が お前をそこなう ことのないように
      お前の目は夜明け 緋色の灯ることなかれ
      黒い煙は雨雲となれ お前の目がより澄むように
      雨と共に踊りたい 生命の喜びの 純粋さのまま
      それを教えてくれた お前は黒いウィルム
      いかに孵って 生命の素晴らしさを教えたか
      いかに愛らしく 鳴いてわたしをとらえたか
      朝日より暗く 闇より弱き 孤独な火に お前は息を吹きかけた
      嘆きの欠片の 火花を包み
      かがやく雨粒となる 温かな雨となる
      水面を笑わせ 草木を輝かせ
      穏やかな眠りを誘う
      死の火さえ安らぐ
      悪夢に疲れた魂に
      灰の地に開いた花のように
      ああお前は わたしの喉を開かせた
      歌うことなど 諦めていた
      わたしの号叫さけびは 災異へ嗄れた
      こわくなった 恐ろしくなった
      胸が痛い 声が痛い
      山の底で 震えていた 朝日を羨み 闇を嘆いた
      朝日より暗く 闇より弱き 孤独な火に お前は息を吹きかけた
      囁きほどの やわらかな風を
      祈りほどの 小声ならばと
      歌うことなど 諦めていた
      お前はわたしの 喉を開かせた
      黒いウィルムよ 新しき生命よ
      焚火の爆ぜる 音であれ この焼けた声の 守歌の
      痛みを忘れよう 今は許されよう
      覚えていよう 痛みも 喜びも
      焚火の爆ぜる 音であれ この焼けた声の 守歌の
      かがやく雨粒とならんことを
      温かな雨とならんことを……〉

     演奏を終える。
     グリムは下を向いたまま、歌う途中で閉じた目の端から、火の粉を浮かべる。離れた火の粉は天へ舞い上がる。あの夢の雨に包まれていたかがやきに似て。
     そうしてゆっくり顔を上げ、ゆっくり目を開けたグリムに向かい、わたしは深く一礼した。体内に満ちたかがやく雨が、目から零れてしまいそうだと思った。
    「……ありがとうございます。ほんとうの歌を教えてくれて」
     グリムは微笑んだようだった。幻と思える微かさで。気のせいでなければ良いな、と思った。
     グリムは立ち上がり、わたしに向かって深々と一礼した。
    〈…こちらこそ… ありがとう… …この曲を… 他から聴くことに… なろうとは…〉
    「い、いえ! あの」
     つい先程まで“神”としていた相手に、そうでなくとも火山の“火”である者から深い一礼をもらい、狼狽える。
     その赤い二つの角のある頭を見ていて、舞い上がった頭の中に火花が光った。
    「今の、歌。よろしければ、もう一度お願いできますか? もしくは、書いてもらえますか? ちゃんと覚えたいので」
     グリムは頭を上げ、驚いた目を向けた。
    「わたしの他にこの詩を知っているのは、黒いウィルムだけですか?」
    〈…お前のように… 歌の業を持つ者… 断片なら… 拾うであろう… 全文を知るのは… わたしとお前… 黒いウィルム… だけのはず…〉
    「わたしが向こうに着いたら、この曲を奏でたいのです。この曲に聞き覚えのある“蛾”がいれば、この歌を聞かせたいのです。もし確かな反応があれば、姿を変えたという黒いウィルムにちゃんと会えると思って」
     グリムの緋色の目が、一瞬明るさを増した。
    〈…行くと…?〉
    「はい。吟遊詩人として、今の歌は、ぜひとも“届けるべき者”に届けたいのです……若輩者の生意気ですが。今の歌、手紙と共に預かってよろしいでしょうか?」
     グリムは微かに目を細め、再び一礼した。そして椅子に座り直し、書きかけの手紙をそのままに、新たに二枚の蝋板を出す。
     二枚の蝋板のうち一枚は無地で、もう一枚にはすでに文字が刻まれていた。その文字の刻まれた板をわたしに読めるように差し出す。
    〈…この字… 読めるか…?〉
    「あ、はい。え、これさっきの」
     先ほど彼が歌った『雨の歌』が、手紙と同じ文体筆跡で正確にそこに記録されていた。
    〈…昔作った詩を… 記録しておいたもの…〉
     グリムは差し出していた“歌詞”を引き上げ、もう一枚の無地の蝋板と重ねる。
     パチッと火花の弾ける音がした。
     二枚をはがすと、無地だった蝋板に、重ねられた板にあった歌詞が一文字も狂いなく写り、歌詞を記録した蝋板が二枚に増えていた。
    〈…これを…〉
     グリムは無地だった方の板を、布を丸める要領で筒状にして、赤い紐のようなもので留めた。
     それをわたしに渡そうとして、引っ込めて手紙の脇に置く。オリジナルの歌詞は、出した時と同じように奇術の様で片付けられた。そして歌う際に置かれたペンを取る。
    〈…演奏の続き… 頼む…〉
    「あ、はい!」
     『雨の歌』をもう一度、奏でる。祈りの声が静かに止んだ先に、瑞々しく芽吹く命を思い、曲を繋げていく。
     次へ次へと奏でる曲の一つ一つに、『雷の神と雨の神』や『雨の歌』のように、特別な思い、強い思いがこめられていて、だからこそあらゆる形をとってムシたちの傍で残り続けている。夢が世界を形作ったように、化石や雨や風や記憶に刻まれ留まっている。
     奏者として生まれるムシは、それを感じ取り“再生”することのできるムシだ。
     わたしは喜びと誇りを感じた。わたしという存在は価値がないのではないだろうか、その不安をグリムの一礼が断ち切ってくれたようだった。
     そして、誇りを感じることができたからこそ、旅に出る勇気が自然湧いたのだろう。自分でも驚くほど迷いなく『行く』という答えに決まっていた。
     グリムは最後の一行にたどり着いたようだった。末筆を書き終え、頭を上げて深く息を吐く。
    〈…上がりだ…〉
     わたしは緩やかに演奏を止める。グリムは手紙を手に取り、何回か文章を確認しているようだった。そして歌詞と同じように筒にして赤い紐で留め、外側になっている無地の面に、緋色の字でもう一筆書き添えた。
     ――黒いウィルムへ。
     わたしは楽器を背負って机上に脚を折り、その二つの巻物を、恭しさを心掛けて受け取る。
    「『黒いウィルムへ』と書かれた方が手紙ですね」
    〈…そうだ… …もう行くのか…?〉
     わたしは机を降りようとしていた。
    「思い立ったが吉日といいますし、あまり長居しては、失礼かな、と」
    〈…助けも持たず… “盗賊の巣”を…?〉
     わたしは地面に降ろそうとした足を引っ込めた。勇気が湧いたはいいが、慎重さを忘れたらしい。
    〈…それは無謀…〉
     グリムはやれやれと頭を振る。彼に言われた『思慮が浅い』という言葉がよみがえる。
    「なんだか、気持ちだけ先に旅に出てたようです……」
    〈…だから… 登ったのだろうな…〉
    「ウ、ム」
    〈…考える頭は… あるのだ… 勇敢さは良いが… 慎重さを忘れるな…〉
    「はい……」
     言いながらグリムは両手でペンの端をつまみ、ペンを縮めて“鍵”に戻していた。
     そして“鍵”をわたしに近づける。わたしの毛先に触れるか否かの位置で、鍵の飾り部分がぼうと光った。その光る飾りを左手でつまみ、右手でそのまま弧を描く。すると、右手にある元の鍵とは別に、左手にはよく似た新たな光る鍵が残り、熱した鉄が冷めるように確かな物質としての姿を現した。
    〈…これを…〉
    「これは?」
     グリムはわたしにその新しい鍵を持たせ、空いた左手でジェスチャーする。それを真似て、わたしは何もない空間でその鍵を“捻って”みた。
     金属でも木でもない何かが“カチッ”と言った音と感覚がし、鍵のすぐ前の空間に、茶道具の仕舞われている棚のあったのと同じくらいの大きさの裂け目が生じた。
    〈…お前の持つ… “夢”の一角を… 利用するための… 鍵だ…〉
    「え」
    〈…その茶道具の… 棚と… 同じようなもの… …背負う必要のない… 持ち運び可能な… 保管箱と… 思えば良い…〉
    「そ、そんな、便利な……」
     わたしは恐る恐る裂け目に手を入れてみた。冷たくも熱くも無い、体温ほどの温度の空間。なんだか自分の内部に直接手を入れているような……不穏な考えを振り払う。こう考えたらいいんじゃないか? いつの間にかいろいろな物が絡まっていたりする、わたしの胸部のたてがみのような……そうイメージを変えたら、不思議と裂け目の中の手にも、ふわりと温かく柔らかい感触があるようだった。
    〈…鍵はなくさぬよう… それはお前の… 専用だ… 裂け目に当て… 逆に回せば… 閉じる…〉
     わたしは手を引っ込めて裂け目を閉じてみる。“カチッ”という感覚と共に、裂け目が収束し、鍵を中心に一本の縦筋の光になり、それが鍵の中に収まっていくようだった。
    〈…そこに… 今の巻物と… これを…〉
     わたしは鍵を開け直し、二つの巻物を恐る恐る中に仕舞う。グリムの方を向き直すと彼の手に、棚にいくつかあった水入りの瓶の、最も小さなものがあった。
    〈…お前にやる…〉
    「水筒? 水まで、いいんですか?」
    〈…この水筒の… 蓋の内側には… 黒いウィルムの… 卵の殻が… 取り付けてある…〉
     カラリと回し開けられた蓋の裏側には、かぎ状の突起と突起に付属して黒い石の薄片のようなものがあった。グリムは瓶に満ち満ちていた水をティーカップへ空け、三分の一量の水の残った瓶の縁に、かぎを利用し蓋を引っ掛ける。
    〈…水が欲しい時に… このように…〉
     蓋のかぎに取り付けられた黒い破片が、水面より離れているにも関わらず、みるみる濡れていく。黒い破片そのものが水を滲みださせているように、水滴がいくつも浮かび、くっついて滑り落ち、下の水面にポンと波紋を作る。
    「水が、湧いてる」
    〈…空気中の… 見えない水を… 殻の破片が… 集めている… 時間を置けば… 満ちて… 蓋を閉めねば… 溢れるまで…〉
     黒いウィルムが“雨の神”とも呼ばれていることに思い至る。
    〈…黒いウィルムの… 鱗も… 同じ性質… …彼は空気中の… 塵を食べ… 雲を生み… 雨を残す…〉
    「雨の神たる、ゆえん、ですね。でも、本当にわたしが持って行っていいのですか? 大切なものなのでは……」
    〈…必要とする者に… 与えるべきだ… わたしには… まだある…〉
    「ありがとうございます。本当に便利な品を……」
    〈…使者には… 必要なものを… 持たせるべき…〉
     ポツンポツンとゆっくり水を満たしていく瓶。さてこの状態で蓋を閉めてしまおうか、水が満ちるまで待とうか、いやティーカップに移された水を戻そうか、それよりカップの水は飲んでしまった方が良いのではないか。
     いろいろ考えた末にカップに手を伸ばす。伸ばそうとした。
     フサ、となにかにわたしのたてがみを触れられる感触。
     目を向けると、グリムの指先がわたしのたてがみに伸びていた。
     互いに目が合い、互いに手を伸ばした姿勢で一時停止する。
    〈……〉
    「……あの……」
    〈……この、毛… ひとつまみ… 良いか…?〉
     なにを言っているのか呑み込めず、ぽかんと口が開く。
    「……えっと、わたしの毛、をですか? ひとつまみ分、欲しい、と?」
    〈…利用したい…〉
     利用? 何を言っているのだろう。
     よくわからなかったが、わたしにとって大した不利益も見つからなかったので、とりあえずうなずく。
    「はい。あの、目立たない位置なら、一向に構いませんが……」
     グリムはうなずく。
     同時に、ブツとなにかを切る音がした。痛みも違和感もない。
     引き上げられたグリムの指に、確かにわたしのものであった、切り取られたひとつまみの赤茶けた毛があった。
     その毛を指と指の間に挟んだまま、グリムは両の手を、自らの蒼褪めた白の顔面の側面に添える。
     わたしの毛を何に利用するつもりだろう、とその行方を自然見守るつもりだったわたしは、その両の手の間のモノが“ずれた”時、何が起こったか理解が遅れた。
     あ、と息を呑む。
     両の目の上下を突き通るラインの特徴的な、片喰の白い葉の一枚という形をしたその“顔”が、外された。
    〈…この“顔”は…〉
     “顔”にやわらげられていた、炎が薪を舐めるような、空行く強い風が尖塔の先端を擦っていくようなその声の、火花の熱のような、風に攫われた砂のような“角”が鼓膜を刺す。
    〈…黒いウィルムの… 顔を… 模った“仮面”…〉
     蒼褪めた“顔”を手の間に残し、上げられたグリムの緋色の頭部に、今までわたしが向き合っていた顔とは異なる、“火”としての顔があった。
     まさに火、といった顔つきだった。赤い頭部の前面に白く燃え上がる切れ長の大きな目が二つ、額の部分に小さな切り傷のような目が三つ。白く光る目の縁は火の揺らぎのごとく揺らめいていて、大きな二つの目が“瞬き”の仕草として一瞬立ち消え、そして灯る。
     わたしは、驚いてしまった。
     だけ、の、つもりだった。
    〈…すまない…〉
     謝意と共に揺れる襟に顔を埋めるグリム。白く赫く目を伏せる。
     わたしはびくっと毛を逆立てた。いや、毛は、逆立っていた。
     わたしは自らの状態を確認しようと頭を下げた。目から熱い雫が零れた。
     涙。逆立つ毛。そして自らの浅い息と、もっと深い所から早鐘を打っている心臓の音を聞く。
     わたしは、わたしが自覚しない内に、“恐怖”していた。
    〈…“恐怖”… 当然だ…〉
     そんな、と言い訳しようとした口が回らない。演奏では滑らかに動いていた関節を軋ませながら、貧弱な外骨格の内で悲鳴を上げている心臓のあたり、胸の毛を掴む。悲鳴は抑えることができたが、浅い息はドからシの音のどれも鳴らすことができない。
     悲し気に首を横に振るグリムを前に、思惟に反して震えの止まらない身体に、わたしは困惑する。
    〈…少し待て…〉
     わたしの“失礼”に当たる態度を責めることもなく、グリムは手に持つ仮面を自身に向け、その縁に指を滑らせる。そして白い陶器のようなその端をつまむ。
     パチッ
    「あ」
     グリムは仮面の縁から、指先分の欠片を割り取った。
    「く、くろいウィルムの、かお、と……」
     大切なものではないのか。震える喉からなんとか言葉を音にする。
    〈…直せる…〉
     グリムは割り取った破片をわたしの毛と共に机に置き、立って後ろを向き、どうやら仮面の欠けた縁を直し始めた。ざわりざわり、炎の翅の縁が震え揺れている。
     彼の炎の顔が視界から外れ、新鮮な空気がわたしの体内へ流れ込む。わたしは深く息を吸い、逆立つ毛の震えが早く収まるよう、胸の毛を掴む右手をその上から大きく撫でる。
     何が起きたんだ。なお冷や汗が浮かぶ。意に反して暴走する体と感情と感覚。
     仮面を外した“真の”彼の声を聞き、顔を見た。それだけだった。
    〈…違和感は… ないかな…?〉
     聞かれ、自らの異常に注意を向けていたわたしはびくっと顔を上げた。
     そこには“仮面”を着けたグリムがいた。ついさっき割った仮面の端は、どこを割ったかわからないほど綺麗に直されていた。
     わたしは自分の毛が綺麗に落ち着いていくのを自覚する。
    〈…お前は… 正常だ…〉
     何かしら謝意を言わねばと構えたのを察したように、仮面に濾された声で。
    〈…わたしは“恐怖”… …“火”としての… わたしは… ムシに恐怖を… 覚えさせる… …本能と同じ…〉
    「本能……?」
    〈…地に生まれる… ムシにとって… わたしが、恐怖である、こと… 必要でもある…〉
     ひつよう、とわたしは震えの収まった手を見下ろす。演奏することに関してわたしの意のままに動いてくれるこの手は、まさに“わたしのものである”。しかし、先ほどのわたしの知らない恐怖に震えるこの手は、まるで“わたしのものではなかった”。
     わたしが音楽を好み、演奏できる腕を持つのは、わたしのために備えられた本能だった。同時に、わたしが親しくありたいと思った相手に、理性の声の届かない恐怖を覚えることも、本能だという。
     本能とは、ムシが生きるために必要なことを教える、天からの祐けだと。
     “火”を恐れることは、『正常』だと。
    「どうして……」
     疑問を口に出すことは恐れなかった。ただ、またしても中身がまとまらない。
     ムシにとっての必要とは。このどうしようもなく覚える恐怖は何のためにあるのか。あなたはただ怖いだけの存在ではないのに。そうだと知ったのに。どうしてわたしは恐怖を抑えられなかったのだろう。
     グリムはわたしが言葉に詰まったのを見て、首をわずかに傾けた。
    〈…仮面… まだおかしいか…?〉
    「なム、えっ?」
     そういえばもう一つ別の方向の疑問があった。『違和感はないか』……これはどこにかかるのか。ひょっとして仮面か? 
    「いえ特に、あの、割る前と変わりなく見えますが……」
    〈…ならいい… …まだ欠けているから… 恐れで言葉… 詰まらせたかと…〉
    「あ、ああ、違うんです。その、えっと、疑問がいくつかあって、頭の中でぐるぐるしてただけです。そういえば、その欠片、どうするんですか? わざわざ仮面を割って、直して……」
     グリムは机に置いてあった仮面の破片と、わたしから取ったひとつまみの毛を取る。それをその左掌の窪みに据え、右手の指をくるりと舞わす。
     グリムの右手に、何か丸くぼんやり光る、赤い灯火のようなものが現れた。“鍵”の飾りに似た形状をしている。繊細な模様が赤く光りながら、シャボン玉の中で車輪に似て回っている。そのリズム。なんだか覚えがあるような。
     その赤い灯火から、何かが聞こえる気がする。気が付けば、音を拾うのは容易だった。その赤い灯火は歌っていた。その歌は、さきほどわたしが、奏でた。
     ――『雨の歌』だ。
     わたしが奏でた蛇腹楽器バグドネオンの音も、グリムの祈るような優しい歌声も、そのまま聞こえている。
     グリムはその丸い灯火を、左掌の上に被せ、そのまま右手でそれらに蓋をして、左手の縁と右手の縁を触れさせ、中のものを包んでしまう。そして祈るように、手に額を当てて目を伏せる。
     手の隙間から、呼吸一つ分の時間、強い光が漏れた。
     グリムは右手を上げると、左掌の中にあるモノをつまんだ。それの状態を確認して一つ頷くと、わたしへ差し出してきた。わたしはそれを、両手を差し出し受け取る。
     わたしの小さな両掌の上に置かれたそれは、ひとつのチャームのようだった。
    「これは……?」
    〈…チャームだ…〉
    「チャーム……」
    〈…着けたこと… は、ないか…?〉
    「わたしは、ないです。チャームスロットを持っていないので」
     自分にはあまり縁のない代物だったので、超常の力を含むチャームに関しては『チャームスロットがなければ着けるべきではない』ということしか知らない。
     グリムはわたしの言葉を聞くと、例の茶道具の入っている棚に手を入れて、奥の方から化石の破片のようなものを取り出し、一つ、また一つと机に置いていく。
    〈…チャームスロットだ…〉
     計三つのチャームスロットが置かれる。
    〈…そのチャーム… スロットが三つ… 必要…〉
    「みっつ? そんなに要るものなのですか? このチャームはいったい……」
    〈…着用者の… 身を守る… 力をこめた…〉
    「身を守る」
    〈…生命を… 害する力が… 外部よりかかる時… その威力から… 完全に保護する…〉
    「つまり、盾や鎧に近いようなものですか?」
    〈…そうなる…〉
    「それは、大変ありがたいです。……」
    〈……?〉
    「あの、そもそもチャームスロットの着け方もわからなくて……無知で申し訳ないですが、そもそも、チャームスロットは必要なものなのですか?」
    〈…まず… チャームの力を… 発揮させるには… 正しい位置に… 身に着けること…〉
    「正しい位置?」
    〈…“気門”だ…〉
    「きもん」
     グリムはわたしの脇腹を指差す。
    〈…お前の腹部の… 側面に開いた…〉
    「ああ」
     普段あまり意識しない自分の『気門』に触れてみる。この窪みを手で塞ぐと、なんとなく呼吸が重くなる気がするのだが。
    〈…古代の“ムシ”は… 主にそれで… 呼吸していた… 現代のムシらは… 口から声を… 発するようになり… 本来の気門の役割… 減退した… …古代の“ムシ”の… 気門の化石を… チャームスロットとして… 加工する…〉
    「これ、もそうなんですか」
     机に置かれた三つの化石に、グリムは頷く。
    「しかし、わざわざこのようなモノを着けて、このような位置に装着するのは、何故ですか?」
    〈…強き力を持つ… チャームは… “寄生”の力を… 持っている…〉
    「きせい」
     たてがみの毛がぞわりと立った。
    〈…ムシに大きな影響を… 及ぼす意味で… …逆に… 寄生の力なくば… 力を発揮し得ない…〉
    「そう、なんですか」
     特別な力を持つ装飾品、としか認識していなかったチャーム。宝飾品の一ジャンルとして、わたしには縁遠いものだった。機会があったとして、知識なく身に着けていたらどうだったか。知らずに呑気にこの小さな装飾品を愉しむのみだったか。どうにも、詳しいことを知っておいた方が良さそうだ。幸い、グリムは親切に、ゆっくりと言葉を染み入らせるようにわたしに説明してくれた。
    〈…直接気門に… 着けてしまうと… 効果が強すぎたり… 外部からの衝撃に… 弱くなるなど… 悪ければ… 生きたチャームには… 乗っ取られたり… でなくとも… 身体に馴染みすぎ… 外せなくなることも…〉
     小気味悪い情報が続くが、知らずに下手をすることなく済みそうだ。ちょっと着けるのに躊躇うが、このチャームの力は旅に出るわたしには必要なものだ。
    〈…化石化した気門を… クッションにし… 効果を得ながら… 安全な着脱が… 可能になった… チャームスロットは… 必要な場合を除き… 着けたままにし… チャームのみを… つけ外す… …チャームのつけ外し… 手数… 休息時などに… おこなうとよい…〉
    「はい。あ、の、チャームスロットを外すことが必要な場合というのは?」
    〈…チャームスロットは… 複数着けられるが… 最低一か所… 気門を空ける… 全て埋めると… 身体に毒だ… ゆえに… どれほど多く… スロットを着けても… ムシの場合… 偶数にはならない… …この空けた気門に… 何らかの異常が… 発生した場合… スロットを外し… 健常な気門を… 少なくとも一つ… 空ける必要がある…〉
    「異常? 例えば」
    〈…中毒… 病… 怪我、など…〉
    「なるほど。あの、でも一つのチャームスロットに一つの穴なのですが、このチャームのように、複数のスロットが必要な場合、どう着ければいいのですか?」
    〈…留め金を… 必要分用いる…〉
    「留め金? チャームの裏の、これですか? 見た所、一つだけなのですが……」
    〈…チャームの留め金… 同じものが… チャームスロットに… 付属している…〉
     グリムはチャームスロットの一つを取り、その窪みにはめられていた小さな金属の部品を取り外して見せる。それはチャームのない、留め金の部品そのものだった。
    「チャームにもついているのに、スロットにも留め金が単品でついているのですか?」
    〈…まず… チャームには… 未加工の… 留め金のない品も… 存在する… …二つ目には… 留め金は小さく… なくすこともある部品… その場合の予備… …三つ目に… …複数スロット… 必要なチャームの… 『共鳴器』とする…〉
    「きょうめいき?」
    〈…『照応器』とも… …複数のスロット… 必要な場合… 空の留め金を… 共鳴器とする… …共鳴器を… 使用したいチャームに… 一度はめ… 外した後… 他のチャームを… はめないようにして… 必要スロット分… 着けておけば… 最後にはめたチャームの… 効果を得られる… そうすれば… スロットを… 着けていない気門から… “寄生”されることも… ない…〉
    「逆にその作業をやらずに着けると、その“寄生”が起きると?」
    〈…チャームは… 強力な物ほど… スロットを多く… 必要とする… 強力な物ほど… 寄生の力が強い…〉
     手の中のチャームを見る。わたしの毛を縁取りに、蒼褪めた白の仮面がある意匠。その仮面は、グリムのものとは似ていない。わたしの顔とも違うが、その間をとればこのような感じかもしれない。スロットを三つ使うこれは、話からするに強力なチャームに分類されるのであろうが、わたしの毛のふさふわ具合が暢気すぎるのか、『寄生』という言葉から感じる気味悪さは覚えない。
    「その付属の留め金もなくしてしまった場合は?」
    〈…他の使用していない… チャームの… 留め金を外し… 使用可能…〉
    「他の……」
    〈…チャームは装着せず… 持ち歩くだけなら… 寄生はされない… 効果も得られないが…〉
    「なるほど。今のところは、留め金をなくさないように気をつけておくべきですね」
    〈…今のうちに… 着け方を…〉
    「はい。手解き願えますか」
     グリムはチャームスロットを手に取って、それをそっとわたしの脇腹に宛がう。くすぐったさはあったが、その石の薄片は、思ったより素直にわたしの気門に馴染んだ。グリムがやったのを真似して残りを着ける。自分で着けるとくすぐったさはない。
     教えられた通りに留め金を用いて、チャームをスロットにはめ込む。『寄生』の件が頭にあり、息を止めながら着けたように思う。カチとはまる。安定して付いている。自分に何か妙な感覚でも走るかと思ったが、際立って妙な感覚はない。いや、何か温かい風に身を包まれたような……気のせいだろうか。
    「着けてみると、自分からは見にくい位置にあるんですね」
     こめられた力の方が優先されることもあるのだろうが、考えてみれば装飾品とはそのようなものか。頭飾りなど、着けてしまえば鏡でしか見えない。わたし自身はこのような装飾品を着ける機会がなかったため推察するしかないが、自らの好む素敵なモノを自らの一部としてしまえることの幸福、誰かにより素敵になったはずの自分を見て欲しいから、ということがあるのかもしれない。ここまで思考を進めてしまうと気恥しさを覚える。そも、身に着けた装飾品が装着者に似合っていなければ、別種の気恥しさを負うことになるのだが。
    「どう、だろうか」
     思わず敬語を組み忘れて問う。具体的には“変じゃないかな”という意味で。
    〈…正確に着けられた… 正常に働いている… 問題ない…〉
     わたしの思惑とはズレたが、いたって“正しい”答えが返って来た。確かにその情報の方が重要でもあり、聞き直すのは不体裁とウムと頷くにとどめた。
    〈…はず…〉
     グリムは小首を傾げるように心許なく頷いた。
    〈…失礼…〉
     わたしが『はず』の意味を捉えようとする前に、グリムは一礼し、その身を捻った。
     その炎のような姿をわたしが認識するのと同時、わたしの身体が浮いた。
    「え」
     視界の全てに赤い紗がかかる。熱も感じる。痛みはない。
     気が付いたら、わたしの身体の下には机が無い。
     気が付いたが、わたしは地面に向かって落ちている。
     ふわ、とわたしの身体が浮いた。地面にぶつかることなく。
     抱き留められている。先ほどわたしが滑落しかけた時のように。
     グリムはわたしを抱き上げて、再び机の上に降ろした。
    〈…痛み… 感じたか…?〉
    「え、えっ? い、いえ、何も」
    〈…よし… 問題ないようだ…〉
    「え、今、何が、あったと、いうか何、をしたのです?」
    〈…驚かせた… すまない… …チャームのテスト…〉
    「チャームの、テスト」
    〈…強い衝撃を… 防げるか… 問題なく作った… そうであっても… 試験は必要…〉
     『強い衝撃』と言うからには、相当の衝撃をわたしに加えたらしい。チャームの効果を知っていたとはいえ、ちょっとぞっとする。
     あまりに一瞬。淀みもなく。もし、この者がわたしに敵していたら……チャームに、あるいはわたしの着け方に“問題”があったら…………
    〈……すまない……〉
     グリムは項垂れた。わたしの顔色を読み取ったらしい。
    「いや、テストは必要だ。当然。試してくれてよかったよ。おかげで、このチャームを信頼して、裏付けのある勇気をもって旅路を行ける」
     とりなすように言葉を紡ぐうちに、言葉についてくる形で気持ちが落ち着いてきた。そもそも、この優れたチャームをくれたのはグリムだ。
    「ありがとうございます……あ、ウッ」
    〈? どうした…〉
    「た、タメ口をきいてしまった、いました……す、すいませんっ」
    〈…構わない…〉
    「いや、しかし」
     落ち着かない毛をざわつかせ、わたしはどうしようと相手の緋色の目を見上げた。
     フ、とほんの少し。
     ふわりと炎の形の襟が膨れ、椿の葉の形の目が柔らかく揺れた。
     『雨の歌』の演奏を終え、礼を言った時に見たそれと、同じ気配。
    (……笑った……)
     ――悲しみが根にあったからかもしれない。怒りの気配がにおうこともあったが、特定の言葉に反応したのみ。そもそもが彼は真面目な気質だ、そうわたしは感じている。
     わたしは鈍くさいところがあるし、無知で考えなしだ。多少なりと相手を不快にさせているのではないかと、心配はあった。高貴な存在ゆえの寛容さがあるのかもしれない。そこに甘えているのではないかと。不安だったことの一つに、彼がほとんど笑わないことがあった。そうと今、気が付いた。
     わたしは、わたしの熱のこもりやすい毛の根の胸の奥、深いところに快い熱が湧き上がるのを感じた。
    〈…本当に… 構わない…〉
     グリムは目を伏せ、ふわりと息を吐いた。
     優しい声音だ。そう感じる。
     わたしは安心を覚えた。わたし自身が“許された”こと、そしてグリムが“笑ってくれた”ことに。
    〈…それの名… どうしようか…〉
    「え?」
    〈…それは… 今作ったモノ… 名がまだない…〉
    「あ、ああ、このチャームのことですか」
     ム、と口を閉じる。また敬語に戻してしまったが、グリム自身が『構わない』と言っているのはつまり、敬語でない方が良いという意味だろうか。それとも、ちょっとした失敗は赦すという意味だろうか。
    〈…敬語でも… でなくとも… 言いやすい方で… 構わない…〉
     わたしの迷いを読まれた。こう気を遣わせてしまっていて、甘えてばかりで良いのだろうか、と新たに迷いを重ねそうになるが、ここで足踏みしている方が問題だな、とわたしは“甘える”ことにする。
    「では、思ったまま口を動かしますが、チャームの名前というと、やはり製作者がつけるのが筋なのでは?」
    〈…お前が所有者となる… その意見、聞きたい…〉
    「ウム、そういうもの、ですか」
    〈…奏者よ… 何か良い案は…?〉
    「え、う、ウムム……思ってもいなかったことなので、今急には、何も、頭が真っ白なそんな、すいません……」
     しどろもどろに両手で何もない宙をこねる。こんな時にこそ『雷の神と雨の神』を調べた時の経験を生かすべきかとも思うのだが、自分が勝手にそう呼ぶ『雨の歌』のように、わたしはモノの名前を単純にしてしまいがちだ。憶えやすさを優先した結果だ。
     自身の単純さが現れてしまう“名づけ”。『雨の歌』の歌詞はグリムが作ったという。きっと、彼の名付けたもっと良い名があるのだろう。
    「あなたは、わたしよりは知る言葉が多いはず。だから、むしろ何か良い言葉とか、思いついたり、何か案とか、あったりするのでは?」
     グリムは頷くというより、思案するように首を傾げ、言葉を一つ。
    〈…屈託なきケアフリー……〉
    「ケアフリー?」
    〈…“盾”、“守護”より… 柔らかい音… それに合うかと… やはり… もう少し深い音… …何かあれば…〉
     そのやわらかな音は確かに、このチャームに使われたわたしの毛に合う。もしかしたら遠慮などせず、わたしらしい言葉を思いつくまま提案してみても良いのかもしれない。
    「ケアフリー……、……“メロディ”……」
    〈……!〉
    「など。奏者ゆえの安直な発想で、ウム……」
    〈……『陽気なメロディCarefree Melody』 …悪くない…〉
    「え」
    〈…お前が良ければ… それが良い…〉
    「……『陽気なメロディ』、か」
     わたし自身からは見えにくい位置に着けたそのチャームに触れる。馴染み深いふさりとした感触と、その中央の滑らかな手触り。いっそスロットなしで着けてもわたしの一部に“還る”だけで問題ないかもわからない、などと勘違いを起こしそうな程、“寄生”という情報から感じた不気味さも、柔らかで温かな耳障りの名前の下に包まれてしまったようだ。
    「ウム。心励ましてくれる明るい曲に包まれ守られるような名前だ。わたしはいいな、これが」
    〈…異論ない… お前のチャームだ… らしくもある… …体裁も… 悪くない… …よかった…〉
     最後の聞き落してしまいそうな声量の言葉に、え、と瞬きする。
     グリムは一瞬目を泳がせ、わたしから逸れた位置に視線を落とした。
    〈…瓶…〉
    「瓶? あっ」
     蓋を開けたまま水の滴るに任せていた瓶の、縁の近くまで水が溜まっている。
    〈…そろそろ蓋を… 溢れる…〉
     わたしは瓶の蓋を回し閉めた。先ほどカップに移した分確かに埋められた瓶の水。カップの水はそのまま変わらぬ量である。わたしは瓶を手に取り眺めた。蓋の下のカギと破片が見える。まだ滴っていないだろうか。
    「これでもう、溢れませんか?」
    〈…外気に触れなければ… 瓶の水は… 増えない… …カップの水は… 飲んでいくといい… …念のため… 蓋に簡単に… 扱いの説明… 書いておこう…〉
     すみません、と頭を下げるのを待たずにグリムは瓶を手に取り、手紙を書いたのと同じペンを出して蓋に書き込んでいく。わたしはそれを待つ間にと、温くやわらかな水を飲む。ゆっくり飲もうと思ったが、わたしが思っていた以上にわたしの身体が水分を欲していた上、温度も透明な味も身体に優しい水。息を吸うかのようにカップの水を飲み干してしまった。グリムの書き込み作業は終わっていない。
     わたしは空になったカップを眺めた。白一色でなく、底の方の灰白色へ三、四段ほどの層となった色合い。カップの縁は水平よりわずかにゆがみ、上から見たカップの円も真円ではないようだ。シンプルながらこの自然なおもむきが面白み……と、カップを傾けたり顔に近づけたりして鑑賞していると、書き込みが終わったらしいグリムが、瓶をこちらに渡しながら、目の縁を震わせ顔を背けた。
    〈……歪で… 恥ずかしい… …完璧を… 作れず…〉
    「えっ、あなたが作ったんですか?」
    〈…ここにあるもの… ほとんど… この手によるもの…〉
     グリムは石でできた机を撫でる。
    「瓶も、机も?」
     グリムは襟に顔を埋めるように頷く。
    「それは、すごい。器用だなぁさすが……このカップ、自然な感じが良いなぁと」
    〈……いるか…?〉
    「え、いやいやいやいやっ、そこまではねだれません! ねだりません! もう充分いただきました」
     と言いながらグリムが説明までつけてくれた水筒を受け取る。蓋には緋色の文字で使い方が簡単な箇条書きで記されていた。
     開きぱなしだった便利な“収納場所”に瓶を収めつつ、わたしは周りを見回した。外からは見えなかったこの美しい小さな庭園。
    「ここの壁も造りも、あなたが?」
     グリムは頷いた。
    〈…かの者にも… 充分に… 観賞してほしかった、が… 彼は幼きより… 大きくてな…〉
    「黒いウィルム? 入れなかった、ということですか」
     グリムは頷いた。
    「もしかして、ここの植物もあなたの手によるものですか?」
     彼自身は否定したが、ムシの身からすると神に等しい存在だ。もしや、植物を創り出す力もあるのではないかと。
     グリムは首を横に振った。
    〈…命の創造… わたしには… できない… …生むということ… それについては… 地のムシにも劣る…〉
    「そうなの、ですか」
    〈…ここの植物は… 趣味と… 研究と… 保存を兼ねて… 収集したもの… …おそらくは… 絶滅種もある…〉
    「本当に、貴重な庭なのですね」
    〈…かの者が墜ちた… 光の山… 素晴らしい植物… 満ちている… この小さな庭より… よほど輝いているであろう…〉
     だからきっと、黒いウィルムもそちらに居たほうが満足だ。と言外に言っているように聞こえた。
    「比べる必要はないと思うのですが。小さな庭も広い庭園も、それぞれに美しく、それぞれに必要があると。わたしはこの庭の植物のほとんどの名がわかりませんが、あなたはきっとわかるのですよね。この庭は、あなたにとって大切な輝きなのだと、感じます。今日来たばかりのわたしですが、ここはとても良い庭だ、と思っています」
     グリムは炎の翅を揺らめかし、緋色の目を輝かせた。
    〈…ありがとう… ……〉
     グリムは首をぐるり巡らせる。
    〈…もうひとつ… 頼めるか…?〉
     言いながら、庭の緑の奥へ分け入ってしまう。
     何だろう、茶の葉でも取りに行ったのだろうか、と待っていると、手に幾本かの花を持って戻ってきた。
    〈…庭の花を…〉
     グリムは花をいったん机上に置き、二つの束に分け、それぞれを手紙に結わえたのと同じ赤い紐で纏める。それぞれの花の種類はほとんど同じだ。薄く繊細な四枚の広い花弁の花と、豆の花に似た、良い香りのするひだのある繊細な花弁の花。片方の束には一本、白い四弁花がある。他の四弁花は赤、豆に似た花は薄紅色だ。
    〈…これは… 黒いウィルムへ…〉
     白い花が一本交じった花束を渡される。わたしはそれを黒いウィルム宛の手紙の横へ収納する。
    〈…これは… お前へ…〉
     もう一つの花束を、グリムはわたしを見てわたしへ……
    「え、わたしへ?」
    〈…花は… 好かぬか…?〉
    「いえ、いえっ! え!? わたしが、いただいて、えっと、あの、それに、貴重な庭の花なのでは」
    〈…気持ちだ…〉
     グリムはわたしの手を取り、そこに赤い花束を置く。わたしは戸惑いながら、壊れ物を持つように頂いた。
    「ありがとう、ございます。でも、どうして……?」
    〈…必要な時に… 慰めを… くれた…〉
    「え?」
    〈…わざわざ山を… 登り…〉
    「それは、わたしの都合なのですが……」
    〈…それでも… お前は違いなく… 佳客であった… …花… 夢の中に… しまえば… 萎れさせず… 保てる…〉
     グリムはわたしの抱える花束の、赤い四弁花をス、と指さす。
    〈…これはポピー…〉
     その指で次に薄紅色の豆に似た花を指す。
    〈…これはスイートピー…〉
    「……ポピー、スイートピー……花の名前、ですか。なんだか、どちらも可愛らしい音をしていますね」
    〈…名を知ると… 鮮やかに… 記憶する…〉
     確かに、さっきまではこれこれの特徴をもった“花”で統一され、ぼんやりしていた花の輪郭が、よりくっきりと鮮やかな色合いとなったようだ。わたしは頷いた。
    「なるほど。新しく曲を覚えた時には、分かりやすく適当な名前をつけておくのですが、それは確かに、思い出しやすいから、というのがあります。あ、あの、あなたが作ったというさっきの曲、勝手に『雨の歌』と名付けてあるのですが……」
    〈…それで覚えているなら… それでも良いが… …わたしは… …『赫きの雨』と… 名付けた…〉
    「“かがやきのあめ”。ウム。そちらのが美しいな。“雨”とついているから、記憶し直すのは容易いよ」
    〈…黒いウィルムは… 『ドラクス』という名だ…〉
     わたしの脳裏に、手紙の『親愛なるドラクスへ』の一文が灯る。
    〈…黒いウィルム… ドラクスは… 知っていよう… 花の、意味を…〉
     わたしは首を傾げた。
    「花の、意味?」
    〈…ところで… 奏者よ… お前の名を… 聞いていないが…〉
    「え、わたしの、名、ですか」
     困ってしまった。
    「名乗れる名前が、ないのですが」
    〈…名前が、ない…?〉
    「みんなは『奏者』とか『奏者のチビ』とか呼びます。でも、孤児のわたしに、名前をつけてくれる親はいなかったので……そのことで困ったことは大してなかったもので」
     へらへらと頬を掻く。緋色の目は笑いに同調することなく、たしなめることもなく、じっとわたしを見る。炎の翅がひとつ、ぼうと揺れた。
    〈…名前… やろうか…?〉
     そう言うかもしれないと、予期はあった。
    「わたしに……名前を……」
     期待がその通りになる時の、踏み台の上に立って眺望が開けるような、角へ抜ける高揚と足元の不安が一緒くたになる感覚は、なんなのだろう。名前がついた瞬間、きっとわたしは新しい自分へ脱皮して、より健やかになり、それでも抜け殻の自分が名残惜しくなる、そんな予感。
    〈…もちろん… お前も考えて、良い…〉
    「ウ、ムム、チャームの名前も、曲の名前もなのですが、わたしはそのへんまだまだ言葉を知らないので」
    〈…好みの傾向… 望む向きなどは…?〉
     グリムの押しつけがましくない物言いに、これから脱皮する古い自分も肯定されているような、安心感を覚える。
    「そう、だな、ウム……この花ほどでなくとも、愛嬌のある音が良いかな。あなたや黒いウィルムの名前もかっこいいのですが、そのあたりの音だと、名前負けしそうで」
    〈…愛嬌… …幼子にも… 呼びやすい… 音ではあろう…〉
     まるで、初めから用意していた名前があるかのような。直感にわたしは口を閉じ、相手の言葉を待った。言葉少なな彼の口からの音を、間違いなく拾うために。

    〈……『ニム』……〉

     それは慎重に発音された。特別な何かを含んでいそうな、その短い音を、わたしは小声で繰り返した。
    「ニム……ニム、か。ウム、覚えやすいし、発音しやすい。愛嬌もある。良い音だね。どうしてこれを?」
    〈…ドラクスが… 幼き頃… わたしをそう、呼んだ…〉
     わたしは言葉の意味を一回受け止めて、二度見の勢いで反芻する。
     “『わたし』を そう 呼んだ”。
    「……あなたの、呼び名?」
     グリムは頷いた。
    「グリムの、あなたの、あなたを、幼き黒いウィルムが、そう呼んだ?」
    〈…ウィルムといえど… 幼きは… 言葉も拙く…〉
    「そ、そうでは、なく」
     『グリム』を指す意味の名を、わたしが戴いて良いものか。
     あわあわと宙を泳がせる手などからわたしの困惑を察したか、グリムは物思うように目を伏せた。
    〈…ドラクスなら… その名を聞けば… お前にわたしを… 見出す…〉
     わたしはハッとして、その思慮深い緋色の目を見つめた。
    〈…わたしからの… 使者と知り… 快く… 接してくれる… と…〉
     それは相手への目印であると共に、わたしへの気遣いだとわかった。
    「……グリム……」
     火の山の主、雷の神と呼ばれる者。彼を意味する『ニム』の名は、音は柔らかかったが、含まれた重みにたてがみが弥立つ。使者としてわたしは、確かな荷を負うのだ。身を守る物も、渇きを癒す物も、贈り物も頂いた。それらを携えて行くに値する者としての、証明ともなる、名前。
     不安になってきた。
    「……わたしは、できるでしょうか……旅と、黒いウィルムに会うことと」
     これではだめだ、と胸部の毛の間に溜まりこんだ“不安”を振り払うように首を振る。
    「いえ、行くべき、ですね。あなたは必要なものを備えてくれました。ウム、その名の重みに、ちょっと気後れしただけです」
    〈…いや… そこまで…〉
     逆に困惑したようにグリムは一つ小さく首を振り、そしてゆっくり大きく首を振る。
    〈…いや… 真面目な姿勢… 嬉しい… …わたしはむしろ… お下がりで… すまないと…〉
    「いやいや、あなたからのお下がりは得難く貴重なモノですから! むしろ、なぜわたしなどにここまで目をかけていただけるのか。わたしが、演奏するより前から……わたしが怪我をしてしまったためとはいえ、それは確かに、あなたの優しさによるものですが……」
     時期が良かったこともあるのかもしれない。わたしのようにこの山を登る“浅慮”なムシは、あまりいないこともあるだろう。
     それにしても、彼から名を戴くまでになったムシなど、今までいただろうか。わたしが知らないだけで、過去にもいたのかもしれないが。
     “雷の神”の印象は、わたしの里以外では“恐怖”だ。“愛情”の物語を持つ里の出身だから、ということがあるのだろうか。
    〈…お前の“火”を… 見て…〉
    「ひ?」
     グリムはわたしに手を伸ばし、胸の毛に触れそうなところまで、その黒く尖った食指を向けた。
    〈…その者の傾向… 善悪… 負う罪過… …本質エッセンス… その者の内に… “火”として見える…〉
     グリムはわたしを指した手をくるりと天へ開く。
     その掌に、ボウと火が点いた。わたしはヒュッと息を呑む。
    〈…罪の傾向… 濃いほどに… あかくなる…〉
     見る間に掌の火が彼の目の色に寄り、それを通り越して熟れ切った苺のような様になる。
    〈…潔白なほど… 白い…〉
     濃い緋色の火が、洗われるように白い火になっていく。燃える雪というものが存在すれば、それはわたしが今見ている火だ。
     目を潰しそうな白い輝きを、グリムは指折り握る。指の隙間から、白い光が漏れている。
    〈…純白はいない… …ムシに“知”は重かった…〉
     その言葉の意味を考えるより早く、グリムは火を握る指を舞わすように開き、そこに灯る火をほんの少し染める。わたしの抱えるスイートピーより淡い紅。
    〈…お前の火は… 桜色… それよりさらに… 白といえる…〉
    「さくら……」
    〈…実をつける木だ… 桜色は… 花の色… 種によるが… 白に近い… 淡い紅の花… …この花の色なら… 罪過は無きに… 等しい…〉
    「……この色をした火が、わたしの内で、燃えていると?」
    〈…お前たちには… 見えない… 熱も… 感じない… …生命力が… ある者ならば… この火はあるのだ…〉
     指先をすぼめて火を消す様を見ながら、神でないという彼はしかしムシでもなく、そしてムシより強力な者であるのだと思い知る。
    「改めて、なんというか、わたしなどがあなたの名の一つを戴いていいのかと、思っているところですが……」
    〈…もちろんだ… 清き火を持ち… 佳客となった者よ…〉
    「清き、火……」
     わたしの内には、先ほど彼が示した“桜色”の火があるという。
     ……今も細く口を開けている“保管場所”の奥を、よくよく覗けばちらりとでも見えたりするのだろうか。先ほど実演してくれたあの色の火が。疑うわけではない。彼は嘘を憎むはずだ、確かなことなのだろう。
     “嘘から離れよ”というのは、里の教えの一つだった。“雷の神”が、そう教えたのだと。
    「そういえば、わたしが真実を語ろうとしていると、さきほど気が付いてくれましたが、あれも、何か火のように言葉が見えている、とかなのですか?」
    〈…嘘を吐くと同時… その者の火は… 赤みを増す…〉
    「それじゃあ、あなたは常に相手の火を見ているのですか?」
    〈…例えば… 花を見ながら… 匂いも感じ取る… それと同じこと…〉
    「はあ」
    〈…嘘という… 言葉の“歪み”… 耳にも違和感… 覚える… 不快に感じる…〉
    「そうなのですか……」
     もし、彼がムシだったなら、とても生き辛かっただろうな、と思った。わたしの里には例の詩やそれと共に伝えられたという教えもあって、嘘を癖にするような者はいなかったが、里の外のムシらは、わたしからすると戸惑うほど嘘をためらわなかった。そのようなムシたちの間で過ごせば、かなりの頻度で不快な響きに悩まされることになる。
    〈…離れていても… 遠くとも… わかる…〉
     え、とグリムを見上げる。彼の目は庭の緑より遠くを見ているようだ。その視線は山の風下側、盗賊の巣のある草原の方向へ、わたしに対しては向けなかった険しい色の目で。
    〈…無数の、緋色… 無数の… ……〉
     グリムはぎゅっと目を閉じる。
     もしかして、今までずっと、今もなお、“不快”を覚えているのだろうか。
     山の麓の、無数のムシたちの“声”と“火”を感じ取り。
    「……なぜ、見えるのですか? なぜ、聞こえるのですか?」
     わたしの質問の真意を汲み取り、グリムはゆっくり目を開けると、自分の胸に手を当てた。
    〈…わたしの役名… …『悪夢の収穫者Nightmare Reaper』…〉
    「悪夢の収穫者……。……」
     聞き覚えがあった。どこだろうと記憶をたどると、それはやはり詩のようだ。わたしの里ではあまり歌われないが、子守唄の一つだったか。
     “悪い子 良い子 悪夢の収穫者が来るよ 逃げよ 逃げよ”
     脅かすような歌詞は子守唄としてどうなのだろう、と不思議に思った記憶がある。その歌にある“悪夢の収穫者”とは、彼のことか?
    〈…わたしは… 見なければならない… 聞かなければならない… ……〉
     避け難い、重い使命を語るように、グリムは言葉を紡いだ。そしてその“果て”に何があるのかを明かすことなく、暗い表情の目をわたしに向ける。
    〈…お前の… 里の伝える… 詩… それを大切に… していること… 有難い、が… …わたしは… “恐怖”でもある… …それを… 忘れぬように…〉
     え、と問い返す言葉は、微笑みとも苦しみとも悲しみともつかない表情でゆっくり目を閉じるグリムを見て、音になることなく空気に溶けた。
    〈…恐怖の詩を… 覚えるには… お前は優しすぎる…〉
     そしてゆっくり目を開けたグリムは、命ずるというよりお願いするという声色で、花束を抱えるわたしの手にその手をそっと重ねた。
    〈…ニム… この名を… 受け取ってくれるか…?〉
     その目の縁が明るくなる。
     グリムはわたしの抱える花束をそっと取り上げると、口の開け放しになっていた“収納場所”にしまい込む。いつの間にか鍵も彼の手にあり、彼は“収納場所”をその鍵で閉じると、花束を渡した時のようにわたしの手を持ち、鍵を渡した。
    〈…幼きドラクスが… その名で呼ぶ時… その時だけは… …わたしはただ… 愛情深いだけの… 親でいられた…〉
     渡された鍵から目を上げたわたしと、チリ、とひとしずくほどの火の粉が上がった彼の目が合い……彼は雨に綻ぶ冬の花の色を目に浮かべ、わたしの方へその身を乗り出し……わたしのたてがみに、彼の頭が触れた、感触がした。
    〈……ニム… …行ってくれ… …そして…〉
     わたしの顔の横で囁く声。揺らめく彼の炎の翅がわたしの真正面にある。翅の下にあった彼の細く長い腕が、わたしに回され、首筋のたてがみにそっと触れる感触があった。

    〈…もう… 来ないで… くれるか…〉

     問い返す言葉は、今度も音にならなかった。

     するりと彼はわたしから身を離し、わたしのたてがみに触れたその手を掲げ、パチンと指を鳴らした。
     わたしの周りの空気が揺らめき、赤く色付く。奇妙な浮遊感がありわたしは言葉を忘れ、代わりに必死の思いでグリムを見る。
    〈…麓まで… 送る… …旅路の平安と… 成功を…〉
     グリムの姿が、美しい庭の景色が、揺れて霞んでいく。不可思議な力によって、わたしはこの場所から離されようとしているらしかった。
    「……ッ、――グリムッ!」
     不敬を覚悟でその名を強く叫ぶ。
     グリムは悲しそうに微笑んだ。この事態を止める気配はない。
     なぜそんな顔をするのか。なぜ“もう来るな”などと言うのか。なぜ、なぜ、なぜ……
     問いかける時間はもうない。
     彼からはいろいろなものを託され、そしていろいろなものをもらった。鍵に保管場所、水筒、チャーム、チャームスロット、花束……黒いウィルムへの贈り物……この安らぐ場所での貴重な時間。そして、名前。わたしは充分に礼を言えただろうか。
     でもそれら以上に素晴らしいものをもらった気がする。時間がない。必死に相手を見る。その緋色の目は、わたしにとってはただ優しい。
    〈…すまない… …して… …ありがとう… …ニム…〉
     風に溶けてしまいそうな声で、そんな大切な言葉を零すんじゃない。
     目が熱くなる。
    〈…その曲… 慰めを…〉
     曲。
     わたしが今身に着けているチャームは、わたしの毛と彼の仮面の一部から作られた。わたしの演奏した曲がこめられ、『陽気なメロディ』と名付けられた。
     ちょっとした閃きだった。時間がない。わたしはチャームを着けたはずの位置を手で示し、滑稽の勢いを構わず叫んだ。
    「この、チャーム! 友情の記念と、しませんかっ?」
     薄れゆく相手の目が見開かれ、炎の翅が揺れたのが見えた。
     『友情』と、言ってしまっていいものか。しかし口に出して、わたしがいただいたものの中で、最も貴重なものの輪郭がはっきり見えた。
     薄れゆく景色と共に遠のきつつある彼との、“友情”。
     優しい方だから、言ってしまえばむやみに否定しまい。
     わたしが叫び声で覆い潰した、彼の囁きのような言葉。
     “そして わたしを わすれてよい”
    (奏者の耳を侮らないでください。そんな悲しいことを言ってしまうあなたを)
    「わたしは、おぼえていたい、からっ」
     彼の姿も、美しい庭も、赤い紗に包まれて、一筋の赤い光に収束し、背景に屹然と座す黒い山の、噴煙に重なるように消えていった。
     わたしは呆然と遠くの頂を見つめる。それが揺らいで見えて、目を凝らすが、わたしの目から熱い水が流れていっただけだった。
     わたしは祈るように嘆くように額を地につけ、小さく言葉を紡いだ。
    「……名前を、ありがとう……」
     わたしはちゃんと言っただろうか。充分に言えただろうか。
     もはやあの美しい庭は遠く、そして彼の意思は、わたしがあの場所に戻ることは望んでいない。
     ちょっとせっかちなんじゃないですか? 喋るのはあんなにゆっくりなのに。
     声に出せない揶揄を浮かべて、わたしは顔を上げて山の天辺を睨みつけるように無理矢理笑顔を作ってみせる。
     まるで山に登ったこと自体が夢であったかのように、わたしは疲れの取れた身体で、草原と礫地の中間地帯で、あの庭が隠されていた岩より小ぶりな黒い岩を背にして座っていた。
     わたしは身に着けたチャームに触れた。今までのことは確かに現実だったと証してくれる、『陽気なメロディ』。温かな記憶と勇気が溢れてくるようだ。
     わたしは立ち上がり、鍵と背負った楽器を確認し、もう一度山の方へ深く礼をして、山に背を向け岩の陰から歩き出した。
     わたしは脱皮したのだ。見えない翅は、旅を求める。
     会うべき者がいるのだ。渡すべきものがあるのだ。
     それでも脱ぎ捨てた殻が全て否定されることはなく、古い殻の一部を身に着けて、わたしはまだ見ぬ地を目指す。
     ……そういえば、グリムは、歌っている時は淀みなく言葉を紡いでいるようだった。彼の歌をもう一度聴きたいものだ……。
     わたしは歩きながら、背負っていた楽器を手に取った。首筋のたてがみを、火のにおいのする風が押し撫でる。
     『赫きの雨』を奏でる。後で歌詞を復習しよう。よりくっきりとした輪郭の赫く雨粒を思い、過ぎ去った優しい時間を想い奏でる。
     その旋律は、『陽気なメロディ』と響き合い、力づけてくれるようだった。
     その旋律が、風の向かう先へも、風の来た所へも響くよう願う。
     わたしの見えない翅は、どんな翅より自由に空を飛ぶ。
     彼の“喉を開かせた”この歌ならば、どんな向かい風でも負けずに遡って、あの山の天辺まで届くことだろう。擦り切れた翅の、風の塵となるような音でも、彼の耳なら、聞こえるかもしれない……。



     ガーデンチェアにぐったりと腰を下ろし、重い頭を腕で支えようとしたその時、あの曲が聞こえた。
     胸の痛みが和らぐ。普段より覚える不快な苦痛と異なり、この痛みはむしろ優しい熱を帯びていたが、不快な苦痛も優しい痛みも共に癒していく、かの奏者の奏でる曲。
     親しい者との別れの痛み。ドラクスとのそれは、突然だった。最悪の事態を免れたとはいえ、わたしは帰ってからずっと、痛みに促されるまま泣いていた。
     稲妻となって噴煙の中を翔けたから、その光景に怯えてどんなムシも山頂まで来ることはあるまいと、ただただドラクスのことを思って泣いていた。
     まさか、あのように優しく穏やかな気性のムシが、登ってこようとは。
     机上に出されたままの茶道具を見やる。その役目が自らの満足の内に留まらなかったことに、巡り合わせの不思議を思う。用心と惜しむ心から多めに作っておいた水筒。新たな持ち主へ渡った水筒があった、その空いた置き場所にむなしさは感じない。
     誰かと茶を愉しむなど考えていなかったことだ。気が向いたら、新しくカップを作ろうか……そんな思考を自覚して、まいったな、と笑い混じりの溜息を吐く。
     誰かと親しくなってはいけないと思っていた。相手にとっても自分にとっても痛みになると。
     臆病ゆえに早々と送り出してしまった。
     それでもこの、温かな痛み。
     追い出すような仕打ちにいっそ失望してくれれば――いや、失望は嫌だ。……矛盾する思いが証すのは、かの者が親しくなって良かった相手だということ。
     ドラクスと過ごした時間に比べれば一瞬の触れ合いだったが、あの奏者とのひとときは、素晴らしく快いものだった。温かな胸の痛みが証している。
     彼の脚では光の地まで何日かかるか。ドラクスに会うまでどれくらいかかることだろう。
     ドラクスの陽気で優しい気性が脱皮と共に失われないことを願う。そうであれば、ドラクスは彼に親切に接してくれるに違いない。ニムの方も、彼が気に入ることだろう。
     願わくば、そのまま、光の地に留まって欲しい。
     わたしを忘れるまで。
     向かい風に逆らってまで、足早に戻って来てしまうことのないため。
     癒される胸の痛みは、温かな記憶となって刻まれる。
     その記憶は、癒され切れない数多の痛みにわたしが応えた後、わたしの助けとなってくれるだろう。
     『友情の記念としませんか』……彼は、事が済んだ後の我が地を見ても、“友”としてくれるだろうか。
     戻って来てほしくない。わたしを忘れてほしい。
     しかし、温かで快い奇遇となった先の貴重なひとときを、憶えておいてほしい。
     この矛盾した願いのうちに、わたしは一つ確かにしたいこととして思うのだ。

    〈…わたしは… おぼえていよう…〉

     彼に与えたチャームを“友情の記念”とするという提案に、同意の証に記憶する。
     例え彼がそのチャームを失くしてしまっても、彼がわたしと会ったことも無かったかのように全て忘れてしまっても……それすら望んでいるのだが……いや、わたしの名の一つを贈っておいて、あまりに内省のないというもの……、その気性が確かなものである限り、彼はわたしの友だと、わたしは覚えておく。
     彼なら、きっと、全てを忘れてしまっても、もう一度“友”となってくれることであろう。
     楽観的な希望も、あのチャームには似合っている。
     わたしの耳にも遠のいた彼の奏でる曲の余韻を追って、小声でその歌を歌う。

    〈…覚えていよう 痛みも 喜びも
      焚火の爆ぜる 音であれ この焼けた声の 守歌の
      赫く雨粒とならんことを
      温かな雨とならんことを

      陽気なメロディを 携えてゆけ
      親愛なる者よ 貴重な魂よ
      風に逆らうことなかれ
      爪に斃れることなかれ
      その旅路の先に 平安のあらんことを
      慰めの歌を 奏でてゆけ
      わたしの嘆きを 掻き消してゆけ
      わたしの名を携え 光へ 雨まで
       親愛なる者たちよ
        平安のあらんことを……〉

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