「...はい力を抜いて...だんだん眠くな〜る...」
催眠術講師を名乗る男が独特の抑揚で唱える。声に合わせて、隣に座るいつもうるさい奴の頭ががくりと項垂れた。スタジオの空気がざわりとうねって、俺も思わずうわ、と小さく声をあげてしまい慌てて口を閉じる。
バラエティ番組の収録。新曲の宣伝のためにTHE 虎牙道でゲスト出演させてもらったのが、催眠術を検証しようという企画の回だった。催眠術なんてまるきり信じていなかったから、演技でもかかったふりをした方がいいんだろうかなんて心配をしていたのだが杞憂だった。その筋では有名らしい催眠術講師は、聞いていると頭がぼんやりしてくる声音とゆらゆらした手の動きだけで、椅子から立ち上がれなくしたり腕が勝手に挙がったりと俺たちを見事に術にかけてみせた。特にコイツは催眠術にかかりやすい体質らしく、コーナーの最後に一人だけとっておきの術をかけられているところだ。
「...では、牙崎さん。あなたが次に目を覚ますと...ユニットの仲間が動物に見えてきます...」
「えっ」
「ねこ、うさぎ、いぬ......かわいい動物に見えます......」
急に水を向けられた俺と円城寺さんが顔を見合わせている間に、講師は「ハイ!」という掛け声とともにパン!と手を叩く。それを合図にコイツはパチリと目を開けた。
「さあ、どうです牙崎さん?」
「アァ? どうってなにが......」
きょろ、とスタジオを見回したコイツの目が円城寺さんに止まると、途端に椅子から勢いよく立ち上がり距離をとる。
「ハァ!? なんでこんなとこにクマがいんだよ!」
「熊!?」
円城寺さんのリアクションにワッとスタジオが沸いた。笑いと感心がこぼれる中、本物の熊と対峙しているつもりのコイツだけは真剣な顔で迎撃の構えをとっている。
「漣〜。よく見てくれ、自分は熊じゃないぞ〜」
「近寄んじゃねえ! これ以上来るなら...」
声も届いていないのか、円城寺さんに向かって鋭い蹴りが入る。円城寺さんは咄嗟にガードしたが、素人でも見てわかる本気の攻撃にスタジオから悲鳴があがる。
「うわ、漣! ストップストップ!」
「やめろバカ! 暴れるな!」
「オレ様の前に現れたこと、コーカイさせてやるぜェ!」
収集が付かなくなって、撮影は一時中断した。俺たちとプロデューサーと、あと催眠術師の人とでスタッフの皆に平謝りしてなんとか事なきを得たが、暴れた張本人は「なんでオレ様が...」とずっとむくれていた。
***
「すみませんでした師匠...」
「いえ、道流さんたちの謝ることでは。こちらも段取りの事前確認が甘かったです。今後は気をつけます」
「アンタは悪くないと思うが...」
プロデューサーが運転する車の中でも、ずっと反省会のような雰囲気だった。帰り際、講師は俺たちにも申し訳なかったと謝ってくれて、悪い人じゃないのはわかった。最も反省すべきだと思うコイツは車に乗り込んで早々に寝入ってしまって、それにも腹が立つ。
「コイツ、催眠術でも寝てたのにまだ寝るのか」
「はは。暴れ疲れたのかなあ」
「催眠術なんて初めてですし、気疲れしたのかもしれませんね」
「師匠、今日は漣をうちで預かります。タケルも泊まっていくか?」
「いいのか? ...じゃあ、そうする。ありがとう円城寺さん」
その方がプロデューサーも寄る場所がひとつで済むだろう。円城寺さんちの前で車を降りる。円城寺さんは寝こけたソイツを担いで、俺は円城寺さんの分まで鞄を持って家に上がった。
「荷物ありがとうなタケル。そのへんに置いておいてくれ」
「ああ」
「漣、よく寝てるなあ。もう布団も敷いてしまうか」
言いながら円城寺さんは和室にソイツを下ろして、押入れから布団を出してくる。そのタイミングで、円城寺さんのスマホが鳴り出した。着信画面を見た円城寺さんはすぐに応対する。
「師匠? おつかれさまッス。どうしたんスか...はい...」
プロデューサーからの電話のようだ。寝ているコイツを気遣って円城寺さんは別室へ移動していく。俺も出ていくか一瞬迷ったが、敷きかけの布団が目に入って足を止めた。コイツをこのまま放っておけば、顔にはっきり畳の跡がついてしまう。いい気味だと思わなくもないけれど。
「......まったく。世話がやけるな」
ぐーすか寝てる奴には聞こえてないだろうが。ほんの少しだけ良心が勝った俺は布団を敷いて、枕と掛け布団も整えてやって。準備完了の「よし」と一緒に手を払ったら案外大きなパン!という音が出た。
「おい。布団敷けたぞ。寝るならこっちで寝ろ」
「んぁ...」
寝ぼけた返事だけで起きてこない。いっそ引きずって布団に入れてしまおうかと側にしゃがみ込んだところで、ぼんやりと目を開けたコイツが俺を視界に入れた。
「......イヌ?」
「は?」
よく聞き取れなくて顔の近くに寄ってみたら、不意にコイツの手が伸びてきて俺の頭を撫でた。予想していなかった行動に俺は固まってしまう。コイツは、俺を撫でる手をそのままに部屋の中をキョロキョロ見回す。
「ここ、らーめん屋んちか...? いつのまにイヌなんて飼ってんだよ」
「い、犬...?」
ハッと気付く。さてはコイツ、まだあの催眠術にかかったままなのか? 俺のことが犬に見えているってことか。
どうしたらいいか戸惑っているうちに、コイツは起き上がってじっとこちらを見つめてくる。なんだ、と口に出して問う前にぎゅっと抱き寄せられて、俺は再び固まった。
「なにシッポ振ってんだオマエ。オレ様に撫でられてうれしいのかよ、くはは」
尻尾を、振って。そんなふうに見えているのか。頭やら背中やらをぐしゃぐしゃ豪快に撫でられながらそれを振り払えないのは、実はうれしいと俺が思っているからなのか?
ドッドッドッて跳ねる心臓がうるさい。頭がこんがらがってされるがままになっていた俺を正気に戻したのは、円城寺さんの声だった。
「漣? 起きたのか?」
「! 円城寺さん! これ、どうにかしてくれ」
「あっ! テメエさっきのクマ!」
円城寺さんの姿を認めた途端、コイツは俺を後ろに庇うように円城寺さんの前に立ち塞がる。
「コイツ、まだ催眠にかかってるみたいで」
「キャンキャン騒ぐなイヌっころ! このクマはオレ様が倒す!」
「ははぁなるほど...。わかった、漣!来い!」
てっきり止めてくれると思っていた円城寺さんから出た言葉に驚きを隠せない。そのまま腰を落として構えた円城寺さんに、コイツが飛びかかる。拳がぶつかる直前、円城寺さんがコイツの眼前でパン!!と両手を合わせた。
「ンが...」
どさ、とコイツが床に倒れ伏す。猫だましで倒れるって、どういうことだ? スピー、グガー、って耳を澄ますまでもない騒がしい寝息も聞こえてきて、ついていけずに目を白黒させる俺に円城寺さんが苦笑いを向ける。
「驚かせたか? 実は師匠からの電話がまさにこのことについてでな...」
曰く、スタジオでコイツが暴れた際に催眠術を解いたが、なにぶん慌てていたため不完全だったかもしれないと催眠術師からプロデューサーに話があったらしい。アフターケアのやり方をプロデューサーが円城寺さんに伝えるために電話したのが、ついさっき。再び眠り込んだコイツを今度こそちゃんと解術するため、円城寺さんが何やらブツブツ唱えている。
「...次に手を叩いたら、あなたは元どおり...はい!」
パン!と円城寺さんの大きな掌が鳴る。音に合わせて目を開けたコイツは、きょとんとしたまま体を起こした。
「...どうだろう。漣、自分のこと見えるか? それともまだ熊に見えてるかー?」
「ハア? こんな目の前にいて見えねえわけねーだろ。つーかクマってなんだよ」
「おお! よかった、成功みたいだ!」
胸を撫で下ろす円城寺さんにコイツはずっと首を傾げている。催眠術にかかっている間の記憶ははっきりとは残らないらしい。ふと目が合って、俺もおそるおそる聞いてみる。
「......俺に尻尾、見えるか?」
「ハ??」
「見えないならいい」
おいコラどういうことだチビ、とうるさくまくし立てる奴から顔を背けて、こっそり安堵の息を吐く。正直すぎる尻尾がコイツに見えてしまうのは、困る。