月花前日譚 八賑やかな人里から山に入って幾刻。鳥の声と川の流れる音を聞きながらルチルは歩みを進める。太陽はほとんど真上で燦々と光を降り注いでいた。黄金色の尻尾も光を浴びて靡いている。
「ミスラさーん!あれ?ミースーラーさーん!」
川のせせらぎに負けない声で尋ね人の名前を呼ぶ。上流に向かいながら呼び続けていると新緑の中に目立つ赤色が見つかった。
「ミスラさん!探しちゃいましたよ」
「はあ。あなたいつも騒がしいですよね」
「もう。ミスラさんがいつもすぐに出てきてくれれば私だってもう少し静かにできますよ」
川べりにぼんやりと佇むミスラはルチルを出迎える気があったようには見えないが、かといって追い返すこともなく欠伸をひとつ零しただけだった。ルチルはむくれた顔をコロッと笑顔に変えてミスラの隣に駆け寄る。
「じゃん!今日は手土産があるんです。桜雲街で人気のお店のお弁当なんですよ!」
「街から持ってきたんですか? それにしては温かいような…」
「気がつきました? なんとそのお店、配達もしてくれるんです!さっき届けてもらったばかりなので出来たてですよ」
うきうきとルチルが話す側からミスラは受け取った弁当の包みをバリバリと雑に開けて、おかずの揚げ鶏を手掴みで口へ放り込んだ。ルチルの方は丁寧に弁当を開けて「いただきます」と手を合わせてから箸をつけはじめる。
「わ、美味しい!揚げ鶏って上手い人が作るとこんなに違うんですね!?」
「まあ、悪くないですね」
「ミスラさんもう食べ終わっちゃったんですか?」
あっという間に弁当を空にしたミスラがじーっと見つめてくるので、ルチルは自分の揚げ鶏を半分差し出すことになった。「ご馳走様でした」と食べ終えたあとで、ルチルは青空を見上げながら言う。
「ミスラさんは空を飛べるんですよね」
「まぁそうですね。竜はみんな飛べるんじゃないですか」
「このお弁当、天狗さんが届けてくれたんです。びゅーんって空を飛んで、また山向こうまで行っちゃいましたけど」
ルチルの指先が空中に軌道を描く。真昼の流れ星のようなそれを、ミスラは無意識に目で追った。
「私も天狗さんやミスラさんみたいに空を飛べたらって。想像しちゃいました」
そのまま腕が下ろされて、ミスラの目も下へ向く。ルチルの着物の裾や履き物は見て分かるくらいに土や草に塗れていた。山道を歩いて来たからだ。ミスラに会うために。
「きっととっても気持ちがいいんでしょうね。ねぇミスラさん。空を飛ぶのってどんな気分ですか?」
ミスラはその問いに答えない。ただルチルの顔を見つめて、少しだけ考えてから、ゆっくりと口を開いた。
「毎回通ってくるくらいならここに住めばいいじゃないですか」
「ここって、この山にですか?」
「はい」
「ミスラさんと一緒に?」
「そう言ってます」
ミスラ自身、こんなことを言い出すなんて思ってもみなかった。ひとりで居るのに不満など何もなかったはずなのに。
ルチルの返事を待つ間、ミスラは足元の雑草を小さな虫が登っていくのを見つめていた。なぜか、視線を上げられなかった。
「…ごめんなさいミスラさん。とっても素敵な提案ですけれど、私はここには住めません」
申し訳なさそうに、それでもはっきりとルチルは言う。ミスラはむしろほっとして、無意識に詰めていた息を小さく吐き出した。言い出したものの、誰かと共に暮らす己がまるで想像できなかったからだ。
「弟を置いていくわけにいきませんし。それに私、街での仕事好きなんです」
「瓦版の記者ですか?」
「はい!それに、絵巻を書くのも!」
満面に笑うルチルの輪郭が、川面に反射した陽できらきら光る。やたらと眩しくて、ミスラは目を眇めた。
「文字がそんなに楽しいんですか…。オーエンも最近は絵巻や草紙ばかり読んでます」
「オーエンさんって、お友達の妖狐の方でしたっけ」
「たまに会いに行くと喧嘩を売ってくるので妖術で相手してあげてましたけど、今は読み物の邪魔だって追い返されます」
「ふふふ。そんなに拗ねちゃってないで、ミスラさんも読んでみませんか?」
「嫌ですよ。文字を読むのは疲れます…」
ミスラはその場でごろんと寝転んだ。穏やかな青空と、隣でこちらを見下ろす若い妖狐の顔が見える。眠るには最適な気候だ。
「なので、ルチル。あなたが読んで聞かせてください」
「…まかせてください! では、とっておきの新作を披露しますね」
ルチルの柔らかな声が紡ぐ荒唐無稽な御伽噺を聞きながら、ミスラはうとうとと微睡んでいった。