少しだけ背をかがめて事務所のドアをくぐる。いつ来てもこの事務所は綺麗なもんだ、と確かめついでに目を巡らすと、ソファには見慣れたユニットメンバーの青年が先に来ていた。まるい頭をわずかに俯かせ、手元の本に集中しているようだ。
「お疲れさん。早いな北村」
「あ、雨彦さん。お疲れ様ですー」
声をかければ顔を上げてこちらに気づいた素振りを見せる。開かれたページは予想に反して文字よりも挿絵が多そうで、「何の本だい?」と尋ねてみると北村は大きな目をぱちりと瞬かせた。
「丁度よかったー。雨彦さん、マッサージはいかがですー?」
「ん?」
***
誘われるまま位置を取り換えてソファに座らされた。背もたれの後ろに立った北村は俺の両肩に手を添える。背後に立たれるのはあまり落ち着かない、まして相手が北村なら尚更──。わずかな緊張を悟られないように口を開いた。
「ほう。次のドラマの役作りか」
「そうなんだー。マッサージサロンで働く主人公の同僚。チョイ役だけど施術シーンもあるから、知識はあった方がいいよねー」
「それで練習台を探してたわけだ」
「そういうことー。痛かったら教えてねー」
言いながら指を押し込むように揉んでくる。まさか気づかれてはいないだろうが、こちらの緊張ごとほぐされるようなやんわりとした力加減だ。読んでいた本には体の凝りのツボなどが図解されているようで、時折確認するみたいに背中をなぞられた。擽ったくて笑いそうになるのをどうにか飲み込む。
「『ボディタッチが多いから、勘違いされやすいんだよね』」
「ドラマの台詞かい?」
「うん。それで主人公がお客さんに気を持たれちゃって、っていうストーリーなんだー」
「なるほどな」
彼の素とは少し違う抑揚で言われた内容には納得できた。マッサージを仕事にしていたら、どうしたって相手の体を触ることになる。そのうえ凝りがほぐされて気持ちよくなったのを好意と思ってしまうわけだ。想像しやすい筋書きは共感を得るだろう。
「その主人公やお前さんの役には迷惑だろうが、確かにそんな誤解をするやつも少なくないかもな」
「……雨彦さんは?」
ぽつりと零された声は聞き落としそうなほど微かで。思わず振り向こうとしたら肩に置かれた手に力が篭った。
「勘違い、だと思うー……?」
北村の顔は見えない。平坦に紡がれた声音からは、感情は読み取れない。
どういうことだと問い返すべきか、それとも。
「……雨彦さん。あんまり肩凝ってないねー」
それほど長い逡巡ではなかったはずだが、返事の前に北村はぱっと肩から手を離した。あからさまな話の逸らし方。答えは望んでない、と言外に告げられている。
「…ああ。掃除もダンスも体を動かすからかね。あまり凝らない方なんだ」
「ということはクリスさんも同じかなー。練習にならないねー」
「座り仕事の方が肩は凝るかもな。プロデューサーか山村ならあるいは、ってとこか?」
「そうだねー。二人が来たら頼んでみようかなー」
言いながら北村は移動して、俺の後ろから正面のソファへ。視線は再び手元の本へと向かい、決して目は合わなかった。代わりに、なのか、凪いだ声がこちらへと届けられる。
「勘違い、手繰った糸は何色か──」
北村の指先が宙を掴んだ。まるで、糸を摘んで引っ張るような手つきを、目で追ってしまう。
「……ドラマの話だな?」
「ドラマの話ですよー」
白々しく前置きして、顔だけは笑みを作る。俺もこいつも。
「意味深だな。ジャンルはミステリーかい」
「コメディじゃないかなー。まだ結末は知らないけどねー」
気づいていないふりと気づかせていないふり。お互いとっくに分かっている。言わないのは──言えないのは、言葉にして形にしてしまえば、尖った角で相手も自分も傷つくから。
この想いが勘違いであれば、どんなによかったか。