お前のことは嫌いじゃないコンビニで買ってきたパチスロ雑誌を眺めながら、同じくコンビニで買ってきた漫画をコタツに足を突っ込みながら読む知り合いをちらりと窺い見る。
知り合い、という表現が正しいのかどうかも正直よく分からない。そんな彼がコタツの角を挟んで隣に寝転がりながら漫画を読む姿は何ともだらしない。今では随分見慣れた光景とはいえ、時折自分の記憶の中の彼とのギャップに激しい違和感を思い出す時がある。
今がそうだ。
自分の記憶の中の彼は常に背筋を伸ばして片時も歩兵銃を手放すことなく、孤高との言葉が相応しく凛と佇んでいた。決してこんなダラダラとはしていなかった。
「白石」
仰向けで頭上に掲げ持った雑誌を読んでいた知り合い、尾形百之助という名の後輩が不意に名前を呼んだ。いつの間にか漫画越しにガン見していたのに気付かれたのかと肩が跳ね上がる。
「な、何?」
「喉乾いた。茶」
漫画を捲る手を止めず、紙から目を離すこともなく短く求めるものだけを口にする相手に溜息が漏れた。とんだ亭主関白だ。
「あのさぁ尾形ちゃん。もうちょっと言いようってものがあるんじゃない?」
呆れ半分、嗜め半分にぼやくと、漸く尾形が漫画から目を離した。寝転がったまま、セットもされていないさらりとした長めの前髪の下から、当時と変わらぬ大きな真っ黒い瞳が白石を捉える。
「相応の態度で接して欲しければ金を返せ」
「はーいっ、すぐにお茶入れるね!」
痛恨の一撃に一も二もなく立ち上がる。
手堅いと思っていた馬に所持金全て突っ込んで無一文になり、その月の生活を泣きついて借りたのはまだ記憶に新しい。多分、三ヶ月くらい前。
その後バイトのシフトが減ってしまい、未だに殆ど返せていない。よくよく考えれば、今コップに注いでるこのヤカンに入ったお茶っ葉だって尾形が買ってきたものだ。逆らえるはずもない。
湯呑みなんてものはないので、マグカップに入れた熱いお茶を尾形が寝転がるコタツの上へ置く。どうせ猫舌の彼は暫く口をつけはしない。
尾形が寝転がるのとは反対側の面に座ってついでに入れた自分のお茶を飲みながら、再びだらしなく漫画の続きを読む尾形を眺める。
「ねえ尾形ちゃん。何でいつもいつも俺の家に来るのさ」
何の因果か、同じ大学には杉元もいる。別に白石の家に来ずとも杉元の家でもいいはずだ。確かに尾形と杉元は友好関係だったとは言い難いが、それは白石も大差ない。杉元ほど明確に敵と見做していたわけではないが、白石とて別に尾形に友好的であったわけではないはずなのだが。
大学にいれば尾形と白石と杉元と三人で昼食を取ることもある。立場は同じはずだ。
だが尾形は杉元の家に一人で行くことはない。全員一人暮らしをしているので持ち回りで集まって飲み会をすることもあるのだから、家の場所などは当然知っている。
立地の問題でもないのだろう。単純な距離で言えば、杉元の家より白石の家の方が尾形の家からも大学からも遠い。利便性を求めたところで白石の家を選ぶ理由はない。
独り言にも近い問いかけに、無反応を貫くかと思われた尾形が反応した。漫画を捲る手が止まる。
「……あいつの家は…コタツがねえから…」
「あー…尾形ちゃんにとっては切実だよねぇ…」
寒がりの猫のような男の言葉に思わず納得してしまった。彼にとっては死活問題なのかも知れない。
北海道はもちろん、樺太でも寒さを我慢していたのかと思うと少し微笑ましい。
「…それに」
「それに?」
他にも何か要因があるらしい。小さな呟きに気付いた白石が天板の向こうに転がる尾形へ目を向ける。漫画を持つ腕を下ろした尾形が白石を見つめ、目を細めて笑う。
その笑みの意味は何なのか。問うより先に与えられた突然の刺激に白石の肩がびくっと跳ねた。
「お、尾形ちゃん…!?」
「お前とヤんのは、嫌いじゃねぇ」
コタツの中、伸びた尾形の足が向かいに座る白石の股間をやんわり踏みつけた。
やることをやってすっきりしたらしい尾形の寝顔を眺め、大きく溜息を吐き出しながら目を閉じる。
恋人、ではないのだ。恋人なら尾形が白石の家に入り浸り、セックスをする理由も理解できる。だが恋人ではないからこそ、尾形の考えていることが分からない。確かに彼が何を考えているのかなんて、昔から微塵も分からなかったのだけど。
「…これ、もしかしてセフレってやつだったりすんのかな…」
だがヤるかどうかは尾形の気分次第だ。ゴロゴロするだけして帰ることも珍しくない。或いは食材を持ってきて、夕食を食べて帰ることもある。作るのは白石なのだが。
セックスに雪崩れ込むのは3回か4回に一度ほど。セフレ、というには頻度が低い。ヤりたい時に来ているというわけでもないということだ。
「分かんねぇよ…尾形」
所謂都合のいい男に成り果てているのだろうかとぼやきながら目を開いたところで、じっと見つめる尾形と目が合った。いつも通り、感情の色の見られぬその目と顔に白石が飛び起きる。
「お、お、お、尾形ちゃん…起きてたの…っ?」
あまりの衝撃に声がひっくり返る。
「…セフレがいいのか?」
「へ?」
唐突な言葉に再びひっくり返った声を返してしまったが、これは先の独り言が聞かれていたということか。
何が何だかわからないまま、それでも返す言葉を必死に探す。
「セ、セフレがいいというか…」
「お前がセフレがいいんならそれでいい」
「いやっ! ちょっと待って!? 何か違うくない!?」
返答が見つからず言い淀んでいる間にぼそりと呟いた尾形が、もそもそと肩までこたつ布団に潜り込みながら白石に背を向ける形で寝返りを打った。その肩を慌てて掴む。
今の物言いは何だ。その言い方はまるで、尾形本人はセフレだと思っていないように聞こえた。もっといえば、尾形本人は不服だというようにすら聞こえた。
肩を掴まれた尾形が億劫そうに首だけで振り返る。
「あ? 何がだよ?」
「セフレが良いとかそういうことじゃなくて、そもそもセフレって言い方は…」
「セフレが嫌ならヤリ友でも何でも良い」
「それ一緒だからな!? ヤるはセックスだし、友達はフレンドだから! …いや、そうじゃなくて最後まで話聞いて!?」
面倒臭そう、或いは眠そうな尾形の意識を必死に引き止める。
相変わらず全てを拒むかのようでありながら、それでも昔に比べれば随分と緩くなった尾形の視線が白石をじっと見据え、言葉を待つ。
随分と緩くなったとはいえ、それでも何もかもを飲み込むような真っ黒な瞳に思わず息を呑んだ。ついでに唾をも飲み込み、腹を括る。
「お、尾形ちゃんは俺を何だと思ってるわけ?」
聞かれた言葉に驚いたかのように尾形が大きな目を見開いた。そしてゆっくりとした仕草で首を傾ける。
「……知り、合い?」
「疑問形かよ。というか普通知り合い程度の関係性でえっちしないからね?」
こいつは『あの』尾形だと理解しているのだが、どうしても口調が幼い子に言い聞かせるようになってしまう。髪を下ろした姿があどけないせいか、その中身が幼いことに気付いてしまったからか。
何にしてもきちんとした答えは得られそうにはないと嘆息した白石がその坊主頭を撫でながら身体を起こすと、尾形の目がその動きを追いかける。
「まあいいや。尾形ちゃん、そういうの苦手だもんな」
彼の人間関係、というものが壊滅的なのは昔も今も変わらない。
白石とて、人間同士の関係性全てに名前がつけられるとも思っていない。そして自分と尾形は、恐らくその名前がつけられない関係性なのだ。
大学のキャンパスでたまたますれ違っただけ。学年も違えば学部も違う。過去に知った顔だから声をかけた。前世の記憶がなければ声をかけることもなかった、縁のない関係性だ。
腐れ縁ってのが一番近いんだろうかなあと白石が結論付けかけた頃、ひたすら無言で見つめていた尾形が不意に小さく口を開いた。
「そ、の…」
「ん?」
言い淀む、ということをしない尾形にしては珍しく歯切れが悪い。少し待ってみるが続く言葉もない。
「…どしたの?」
本当に珍しい。しかし話が進まないので促してみる。
するとやっと尾形が再び口を開いた。
「…любовник…」
「…………え、それ何語…?」
聞いたことのない言語の単語が出てきた。
「…露西亜語」
「あ、そういえば尾形ちゃんロシア語専攻だっけ?」
心底びっくりした。だが驚いただけで何も解決していない。
「いや、俺ロシア語なんて分かんねえよ。せめて英語でないと」
というより日本語で答えてくれればいいのだが。こいつ、絶対俺が分かんねえことを分かっててロシア語使ったなと思いつつ白石が返すと、何故か尾形が眉を寄せた。
「…面倒臭え。スマホで翻訳しろよ」
「綴りも何も分からないんだけど!?」
チッと舌打ちした尾形が身体を起こし、コタツの上の自らのスマホを取る。画面をタップし、何らかのアプリを起動させた尾形がマイクへと口元を近付ける。
「любовник」
白石には耳慣れず、発音出来るとも思えぬ単語を再び発した尾形が画面を確認し、それを無言のまま白石の目の前に突き出した。
尾形の舌打ちなど今に始まった事ではない。これっぽっちも気にすることなく向けられた画面に目を向けた白石が表示された画面を見る。
ロシア語
любовник
↑↓
日本語
恋人
恋人。lover。L'amant。
ロシア語から日本語に翻訳されたその言葉が、思考停止した白石の頭の中で英語、フランス語へと自動変換された。
頭の中で知る限りの言語を並び立てる中、尾形がスマホを引っ込めて画面を消し、再びコタツの上へと戻した。
「…………ぅえ!?」
心底驚いた。先ほど唐突に露西亜語を告げられた時よりも驚いた。
肝心の尾形はといえば、素知らぬ顔でそっぽ向いている。いや、少し耳が赤い気がする。気のせいかも知れないが。
「お…お…尾形ちゃん…?」
上擦った声が更にひっくり返る。
みっともなく情けないが、それが自分という人間だと認識している白石は動じない。大体そんなことを言っている場合でもない。
「…何だよ」
どこからどう切り出したものか。
素直なんだか気難しいんだか分からない猫ちゃんは、対応を間違えるとすぐ拗ねる。それを重々承知している白石が慎重に言葉を探す。
「…俺、好きだとか言われたことないんだけど?」
もちろん付き合いたいだの何だも聞いたことはない。これでどうやれば恋人関係だと思えるのか。
「…嫌いじゃないと、いつも言っているが」
おっとそうきたか。流石素直じゃない猫ちゃんだぜ。
なんて言葉は間違っても口に出さない。胸の内だけだ。
そういえば何かと「嫌いじゃないぜ」とは言われてた気がする。「嫌い」「好きじゃない」とは言われた記憶がない。「好き」も言われてはいないのだが。
そんなことを思い出し、諸々を思い巡らせていた白石だったが、一旦それらを全て放棄する。
「尾形ちゃん」
改めて尾形の名を呼び、その肩をがしっと掴む。
そして猫のように小さくなった瞳孔を真っ直ぐ見つめる。
「嫌いじゃないと好きは違うからね?」
「…そうなのか?」
尾形の目が驚いたように丸くなる。
嫌いじゃないということは好きということとイコールではないが、その辺の機微を尾形が理解出来るかは怪しい。なので、白石はその説明することを早々に放棄する。
白石よりも頭がいいはずなのだが、感情を伴うことに関しては本当に驚くほど理解が出来ていない。知らない、感情なのだろう。
元々白石は淡白な人間だ。お人好しやお節介なんてものからは程遠いし、庇護欲や母性本能的なものもない。そのはずだった。
だがどうにも前世において杉元達と行動を共にするうち、そのお節介な性質が移ったらしい。
人生も二度目にして、未だに幼いほどに感情を知らぬ尾形が気になって仕方ないし、何なら普段の悪辣な態度とのギャップにやたらと胸を擽られる。
これはどちらかといえば庇護欲や保護欲なのだろうと白石自身認識していたのだが。
「でも俺は、そんな尾形ちゃんが好きだぜ」
危ういほどに幼く、好きという気持ちすら理解出来ていない彼が何故か最近気になって仕方ないのだ。世にいう「絆された」というやつかも知れない。だがそんな理由なんてものもどうでもいい。
いいのだが。
「……え、何なのその顔」
鳩が豆鉄砲を食ったような尾形の顔に、逆に白石が戸惑う。
恋人だと思っていると言われたから、好きだと答えた。何も驚かれるようなことはないはずだ。
「お前は俺をセフレだと思ってるんだろう?」
「それ違う!尾形ちゃんの勘違いだから!」
合点がいった。さっきの勘違いが続いている。
躊躇ったのは一瞬。
伸ばした白石の両腕が尾形の背へと回され、胸へと抱き寄せる。
突然のことに腕の中でフリーズする尾形の顔を覗き込んだ白石がまっすぐに、その黒く大きな瞳を見つめる。
「何て言えばお前に届くのか分からねえけど、でも俺も尾形ちゃんのこと、嫌いじゃねぇぜ」
好きが駄目ならこれはどうだと、白石が尾形の言葉をそのまま返した。途端、尾形の顔がじわじわと赤く染まっていく。
嫌いじゃない、なんて言葉で顔を赤らめるのなんてこいつくらいなものだろうなと頭の片隅の冷静な部分で考えながら、その勢いのまま畳み掛ける。
「だからセフレなんかじゃなくて、リュ…リュボーニク?で…」
先程聞いたロシア語を片言で繰り返すと、頬を赤らめたまま目を丸くした尾形がふっと小さく吹き出すように笑った。
「любовникだ。下手くそ」
「ロシア語なんてわっかんねえよ!」
「お前も樺太に行っただろうが」
「ロシア語を聞く機会なんてほとんどなかったじゃん!」
「いや、あっただろ」
尾形が好きという感情が分からないなら、それで構わない。それを教えるだなんて大層なことが出来るとは白石自身思っていないし、それならば白石自身が尾形に合わせればいいだけだ。
恋人だのなんだのという枠組みもいらないし、二人が居心地の良い関係性であればそれでいい。腐れ縁という名前が一番しっくりくるのであれば、それでもいい。
何故ならば。
「ねえ尾形ちゃん。俺のこと本当はどう思ってるのさ」
「……教えねえ」
こんな他愛も無い問いかけ一つで真っ赤になるのが、何よりの答えだから。