イヌピーが女装する話 きっかけはコスプレだった。ハロウィンの行事のひとつとして、商店街をあげてコスプレをすることになったのだ。ドラケンもオレも金も時間もなかったし、衣装は三ツ谷に頼んでいた。デザイナーを目指している三ツ谷だったら、適当になんとかしてくれるだろうと目論んだのだ。オレたちの思惑は正しく、三ツ谷は衣装や小道具を持ってD&Dに来てくれた。
ここまではいい。問題は三ツ谷が凝り性だったことだ。長身でスタイルのいいドラケンは三ツ谷の格好の餌食だった。吸血鬼にされたドラケンは、同僚のオレの目から見てもかっこよかった。商店街の注目を集めること間違いなしだ。
「ここまでするひつようあるのかよぉ」
ご丁寧に爪を黒に染められ、牙までつけられたドラケンは、呆れているようだったが、自分の姿はまんざらでもなさそうだった。ドラケンはノリがよく、あそび心のある奴なのだ。
ドラケンの出来に満足した三ツ谷は次はオマエだとばかり、オレの方に顔を向けてくる。
「次はイヌピーだな」
「オレは適当でいいって……」
「実はオレ、イヌピーを弄ってみたかったんだよね」
手をわきわきさせる三ツ谷は口は笑っているけれど、目が本気だ。嫌な予感がした。というのも、紙袋から覗いているのは明らかに女物だったからだ。
「オレは女物なんか着ねぇぞ」
「でもコスプレは必須なんだろ。割り切ろうよ」
「女の格好は嫌だ」
「女の子って言うよりは、女装の麗人って感じにするつもりだから」
「言ってる意味がわかんねぇよ……ドラケンが女装でいいだろ」
「残念ながらドラケンサイズのワンピースは手持ちになかったんだよな。悪いようにはしないから、騙されたと思って着てみてよ」
三ツ谷とドラケンのふたりがかりでなんだかんだと言いくるめられ、あーでもないこーでもないとコーディネイトすること一時間。
「うわ……オレの才能がこわい」
「なんだそりゃ」
「イヌピー、鏡見ろ。すげえ美人がいる」
三ツ谷に言われて鏡の前に立って、息を飲んだ。
三ツ谷が選んだのは白いワンピースだった。三ツ谷いわく「学校の課題でさ、ロミオとジュリエットの舞台衣装を作ったのをアレンジしたんだよね」とのことだ。
「……なぁ、三ツ谷」
「え、なに」
「この火傷跡って消せるのか?」
三ツ谷がぱちぱちと瞬いた。
この火傷跡が化粧で誤魔化せるというのは聞いたことがあったが、今まで興味はなかった。
ドラケンはなにか言いたげな顔をしていたが、三ツ谷はオレの希望通り、火傷を隠す化粧をしてくれた。手慣れているのもあるだろうが、意外と時間がかからないんだなと思った。オレはもういちど鏡の前に立つ。
「……まるでオレじゃないみたいだ」
そこには乾青宗でも乾赤音でもない人物が立っていた。
鏡の中にいる人物は男にも見えないが、女にも見えなかった。
長い金色の髪は月の光のように淡い色を放つ。すっととおった鼻筋は高く、頬はすっきりとしている。青の虹彩はきらきらと眩かった。
男にしては繊細な顔立ちであり、女にしては色味が欠ける。三ツ谷のつくった衣装は性別を曖昧にさせる効果があった。長くもなく短くもない髪の長さも、性差を曖昧にしていた。
「すげぇ、これがオレか」
「……喋るとイヌピーなのが違和感すげぇな」
要するに口を開かなければいいわけか。
だが、それまで黙ってオレを見ていた三ツ谷がぼそりと呟いた。
「……シャレになんないから、べつに衣装に変えるわ」
「えっ?」
「そのほうがいい」
「えぇっ?」
ドラケンまで同意した。
オレはドレスのままでよかったのに。オレは再び三ツ谷とドラケンのふたりに説得されて、仕方なく衣装を代えたが、乾青宗でない姿に心を捉えられてしまっていた。
ドラケンが吸血鬼に、オレが狼男になったD&Dが大いに盛り上がったのはまた別の機会に話すとして。
オレは女装した姿が忘れられなくなっていた。なんども何度もくりかえし思い出しては溜息をついた。そしてとうとうオレは通販でワンピースを買ってしまったのだ。さすがにショップで買い物をする勇気はなかった。だがこれは失敗に終わった。適当に買ったワンピースは、明らかに男の女装だった。なるほど三ツ谷が「オレって天才」と言っただけあって、服には見栄えがする・しないがあるのだ。
失敗を何度か繰り返し、とうとうオレは似合う服を見つけた。なんてことはない。あの日の三ツ谷が着せてくれた服に似た服を選べばよかったというだけの話だ。
ポイントはいかに肩幅を誤魔化すかで、手首や足首は出す。女らしい花柄とかはかえって逆効果で、シンプルなほうがオレには似合うようだった。女には見えないが、男にも見えない。不思議な人物が鏡の前に立っている。
これはオレの主観だが、意外なことに、赤音にはあまり似ていなかった。赤音はもっとやわらかな輪郭だったし、女らしい体形だった。顔のパーツはたしかに似ているのに、印象が違うので似ているとは思わないのだ。そして乾青宗のトレードマークである火傷を化粧で消してしまえば、見たことのない人物が立っている。もちろんよく見ればオレなんだけれど、ぱっと見の印象というのはでかいものなんだな。
とても不思議な気分だった。最初は家の中で楽しんでいるだけだったが、次第に外に出てみたいという欲求が抑えられなくなった。玄関先に出るだけ。アパートの周りを一周するだけ。公園まで散歩をするだけ。コンビニに行くだけ。どんどん距離は伸びて行って、ワンピースを着たままオレはとうとう駅前まで来てしまった。
ワンピースは足元がスース―して心もとないが、裾がふわふわするのがちょっと面白かった。なるほど赤音がくるくる回っていたのはこれのせいなんだな。
擦れ違った女子高校生がオレの顔を見て立ち止まる。サラリーマンはぽかんと口を開けていた。そんなに変な格好をしていただろうか。いたたまれなさにオレはアパートに逃げ帰った。
でも。それでも。乾青宗ではない人物になるのはちょっと楽しかった。
しばらくは大人しくしていたのだけれど、一か月もするとオレは懲りずに女装に挑戦していた。街を歩く女たちを観察してみたところ、たいていの女が鞄を持っていることに気づいた。あのときはいつもの手ぶらだったのがおかしかったのではないかと思ったのだ。芝大寿の妹である柚葉はいつもちいさなバッグで出かけていた。思い出してみれば、赤音もなにも入んねぇような鞄を持っていた。そういうものかと、似たような鞄を通販で取り寄せてみたのだ。
二度目のチャレンジもやはりじろじろと見られたが、一度目ほど気にならなかった。思い切ってコンビニに入ってみる。なんとなくうろうろしていると、「なにか探していますか」と声をかけられた。驚いたことに店員ではない。客であるはずの男に声をかけられたのだ。
「あ、えっと、飲み物を……」
「ペットボトルならあっちですよ」
オレとそう年の変わらなそうな男は親切に教えてくれた。
本当のオレ「乾青宗」ははガラの悪いヤンキーで、避けられるべき人物だ。親切にされることは滅多にない。
適当なペットボトルを選んで、レジに並ぶと、店員もとても親切だった。
オレはどきまぎしながらコンビニを出た。はなしかけられたので、つい答えてしまった。男の声だったのに、びっくりされなかったことに驚いた。でもそれは一言くらいしか喋ってないからかもしれない。あんまり喋らないように気をつけなければ。
女装をして歩くのはバイク屋が休みになる月曜日の夜と決めていた。
その日も駅前をふらふらと歩いていた。目的は特にない。乾青宗でなくなるのが楽しかっただけだ。
金はないから店にも入らずうろうろしていると、ぽつりとなにかが落ちてきた。雨だ。しまった。雨はまずい。まだ駅前に来て十分くらいだが、今日は退散しなくては。
そのときオレは後ろから肩を叩かれた。振り返ると少年がひとり立っている。年のころは十歳くらいだろうか。黒いリュックを背負っていた。
「これ、あげる」
「えっ」
少年が差し出しているのは傘だ。あっけにとられていると、半ば強引に傘を押し付けられる。
「つかって」
「オ……キミの傘だろう」
オマエの、と言いそうになって咄嗟に言い換える。いまのオレはヤンキーじゃないから、オマエなんか言っちゃいけないんだ。
「オレは走って帰るから」
「えっ、」
「オネーサン、ワンピースだろ」
少年は強引に傘を押し付けると走って行ってしまった。
「……マジか」
少年は紳士だった。
そういえばオレの幼馴染のココもそんなところがあった。思い出してみればココが赤音に惚れて、頑張っていたのも、ちょうど今の少年と同じくらいだ。年上のお姉さん、オレは男だけど、に背伸びしたい年頃なのだろうか。
雨も本格的になってきてしまったので、ありがたく傘を借りることにした。
『……ということがあったんだよな』
次の日、オレはドラケンにラインで相談をしていた。女装していたことは伏せて、少年が傘を貸してくれたことだけを伝えたのだ。
『まぁイヌピーも黙ってりゃ美人だしな』
『オイ』
『で、相談ってなに?』
『傘を返したいんだよ』
相手が大人で、ビニール傘であればこんな相談はしていない。相手はおそらく小学生で、スポーツブランドの折り畳み傘だった。家に帰ったら怒られてしまっているのではないかと思ったのだ。なにせオレは傘を失くす常習犯で、親によく怒られていた。
なるほどね、とドラケンからラインが帰って来る。
『駅前だったんだろ。そいつ、学習塾の帰りじゃねーの。同じ時間帯に行けば会える可能性高いんじゃね』
『ドラケン、天才かよ』
自分が塾に通っていなかったので頭になかったが、いまどきの小学生だ。夜遅くに駅前にいた理由は塾通いの可能性は高い。
『お礼をした方がいいのか? お菓子とか?』
『知り合いならともかく、赤の他人だろ。いまどきのガキは知らない人から貰うなって言われてるはずだぜ』
『厳しい世の中だな』
『にっこり笑って「ありがとう」でいいと思うぜ』
『そんなんでいいのか?』
『イヌピーなら、それで十分だ』
ドラケンの言うことはよく分からないと思ったが、とりあえず頷いておいた。
さて、翌日の駅前である。善は急げとばかりに、だいたい同じ時間帯に駅前をふらふらとしていた。塾が終わる時間なのか、小学生の姿が思ったよりもずっと多い。いまどきの小学生は塾に通うもんなんだなと感心した。そういえばココも塾に通っていた。あんな風にリュックを背負っていた。懐かしく見まわしていると、見覚えがあるリュックに気づいた。
「あ! 見つけた!」
幸いにしてオレは目がいいし、記憶力もいい。リュックについていたキーホルダーを覚えていた。
「ねぇ、キミ」
思い切って声をかけると、少年の一団が振り返る。その中に目的の少年がいて、オレに気づいて「あっ」と声をあげる。
「昨日はありがとう」
「えっと……」
少年の反応は芳しくない。オレが赤の他人であるからか、周囲からの視線も痛い。こういうときはどうすればいいんだ。オレはドラケンの言葉を思い出した。にっこり笑えばいいのか。ほんとうにそんなのでいいのか。
「傘を貸してくれてありがとう」
「べ、べつに……ふつうのことしただけだし……」
少年が真っ赤になって、オレから折り畳み傘を受け取ってくれた。
よかった。
などと油断している場合ではなかった。
刺すような視線を感じて、振り返る。駅前のガードレールの前に立っていたのはココだった。オレの幼馴染で親友で相棒で、離別したはずのココが立っていた。
オレはココを見たし、ココもオレを見ていた。上から下まで舐めるように見えていた。冷や汗が流れる。ココはオレに気づいただろうか。乾青宗だと気づいただろうか。
「オネーサン?」
傘を貸してくれた少年が心配そうに俺を見上げる。
「あ、うん、傘ありがとう」
間抜けなことに三度目になるが、ぎこちなくお礼を言うと、少年はなんどもオレの方を気にしながらも、仲間に促されて帰っていった。
彼らを見送って、改めてココを見ると、刺すような視線は消えていた。ココはにっこりと笑っている。
「いまからお茶でもどう? 驕るよ」
「えっ、なに」
「ナンパしてんの」
「ナ、ナンパ……?」
あまりのことに驚いていると、ココがさりげなく手を差し伸べてくる。あまりにさりげなさすぎて、うっかり手を乗せてしまった。ココが笑う。
「イヌピー、無防備すぎ」
「えっ……、分かるのか」
「そりゃわかるだろ。オレを誰だと思ってんの」
オレの幼馴染で親友で相棒で、離別したはずの男にオレは今エスコートをされている。