神様の石 九井一は神様に成りそこねた。
九井一は胸に宝石を抱いて生れた。神様になる子供の証である。神様の子は十八になると、神様になる。両親はもちろん、取り上げた医師や看護師もろもろ涙を流し喜んだ。なにせ神様の子を授かったのだ。名誉なこと、光栄なことである。
両親はそれはそれは大事に九井を育て上げた。マンションから一軒家に移り住んだのも、九井に良かれと思ったからだ。相談された不動産屋もとびっきりの好物件を破格の値段で紹介した。九井がかすり傷ひとつでも負えばすぐさま病院に運ばれたし、医者は嫌な顔一つせず丁寧に治療をしてくれた。
神様が一般家庭の子供として生まれるのは、人の世を観察するためだと言われている。九井は大切に育てられてはいたが、けして特別扱いはされてはいなかった。特別扱いしてはならないと暗黙の了解があるためだ。建前であっても、そういうことになっている。成長した九井が市立の小学校に通うことになったのも、そのためだ。
そして九井は乾青宗に出会った。
この国には八百万の神がいる。そして神は代替わりをする。人の腹を借りて生まれ、十八の年になると神になる。神になれば人の世を外れ、高天原で暮らすことになる。高天原で暮らすことになると言われてはいるが、詳細はわからない。神になった子供たちがこちらに戻ってくることはないからだ。
神様の子は十八歳までは人と何も変わらない。病気にもなるし、怪我をする。死ぬこともありうる。
そして神になれば、旅立ち、戻ってくることはない。
神様の子を育てても恩恵は返ってこないに等しいが、いわば名誉職のようなものである。自治体によって、大なり小なりの補助などもある。
九井は大事に育てられていた。血のつながった親子ではあるが、両親との隔たりを感じていたが、九井が神の子である以上は仕方のないことだろう。
小学校では九井が神様の子であることは誰もが知っていた。特に公表しているわけではないが、隠してもいない。教員や職員の九井への接し方を見れば、おのずと知れることだった。九井は常に遠巻きにされていた。もちろんいじめではない。むしろ大事にされていた。過剰なほど大事にされていた。九井の肩を気軽に叩く者などいなかった。ましてやドッヂボールで球を当てようとする者などいなかった。稀になにも知らぬものが九井と肩をぶつけることがあったとしても、後日丁重なお詫びがあるという次第だった。乾青宗とクラスメイトになるまでの話だ。
同じクラスになった青宗と、教室の入り口でたまたま出合い頭に頭をぶつけることになった。
「いってぇな!ちゃんと前見ろよ!」
怒鳴られるなど初めての体験だった。九井は親にさえ怒られたことがない。九井がまともに反応できず、ぽかんとしていると、クラスメイトが青宗の服の裾を引っ張った。
「九井くんは神様の子供だから」
「だから何だよ。いてぇもんはいてぇだろ」
尚もぽかんとしている九井に青宗は顔をしかめる。
「なんだよ。こいつ変なところを打ってアタマバカになったのか?」
さすがにカチンときた。
「僕も不注意だったけど、乾くんも前を見ていなかったんじゃないかな。バカはきみの方だろ」
九井は神様の子だ。暴言など許されない。下手なことを言おうものなら、土下座されたこともあった。両親とて例外ではない。だがこの時は口が滑った。
青宗はちょっとびっくりした顔をした。
「ユートーセイかと思ったけど、神の子も意外と口わるいんだな」
そう言って、青宗は席についた。それだけだった。青宗は九井が神の子と知ってなお、謝罪はなかった。泡を食った教師が現れて、事情を聴いたが青宗は「オレは悪くない」と頑として譲らなかった。「謝ってもいいけど、そいつもオレに謝るべきだろ」と主張する。神様の子供とはいえ、特別扱いはしないことになっている。校長まで出てきて、その場はお互いに謝罪して、解決したということになった。翌日になっても青宗からの反応は特にない。九井の今までの経験からすると、青宗の反応はあまりにも異常だった。あまりにも異常だったので、本人に聞いてみることにした。余計な邪魔が入らないよう、乾がひとりになるのを見計らって、声をかけた。
「乾くんは僕が神様の子供だって知ってるんだよね」
「……オマエ、変な喋り方してんな」
「は……?」
「乾でいい」
今まで九井は名字を呼び捨てしていいと言われたことなどなかった。なにせ神様の子供だからだ。
これはますます可笑しなことだ。九井はくちびるを舌でしめらせる。
「えっと、乾く……乾はオレが神様の子供だって知ってるんだよね」
九井がクラスメイトを呼び捨てにしたのも、自分のことをオレと言ったのも、はじめてのことだった。まるでふつうのこどもみたいだ。九井は胸を高鳴らせたが、乾からの反応はあっさりとしたものだった。
「しってる。先生が言ってた」
「……なんて言ってた?」
「九井くんは神様の子供なので、みんな仲良くしましょうってさ」
当たり障りのない言い方だ。九井の予想の範囲内である。
「オマエさ、昨日のこと怒ってんの?」
「えっ、あ、あれはお互い前方不注意だっただけだろ」
「だよな」
青宗がへらりと笑う。なぜか肩の荷が下りたような気がして、九井も笑った。
「オレの姉貴、赤音っていうんだけど、神様の子供なんだ」
当然ながら神様の子供は九井だけではない。青宗の姉が神様の子だとしても、不思議なことではない。
「赤音はなにしても怒られねーし、叱られねー。オヤジもオフクロもオレにはめちゃくちゃ怒るくせに、赤音にはなにも怒らねー。なんかちょっとカワイソウなんだよな」
「……」
「だからオレはふつうにしてる。みんなからは神様の子供になにをするんだって怒られるけど、赤音がいいって言えば、いいことになる。へんだよな」
「……そっか」
青宗の言いたいことはなんとなくわかった。そして彼の姉である赤音の言うことも理解できた。九井の両親も九井を叱ったことが一度もない。だが九井には兄弟がいない。九井を「ふつう」にしてくれる兄弟はいなかった。
「……オレにもふつうにしてほしいな」
「じゃあ、今日からココって呼ぶな。ダチはそういうもんだろ」
その日から九井の世界は激変した。乾が九井を友人としたのだ。クラスメイトたちもぎこちないながらも、九井を友人とするようになった。なにせ神の子供を特別扱いしてはならないという暗黙の了解がある。大人たちも理解を示すようになった。
赤音さんにも会わせてもらった。九井が初めて会う神様の子供だ。彼女はまもなく神様となる年齢だった。十八となれば高天原に行ってしまう。九井は高天原がどんなところであるかを知らない。その年になればおのずとわかると言われているだけだ。
「怖くないんですか……」
「うーん。いまはそうでもないかな。はじめくんも高天原に来てくれるんでしょ」
「はい! 必ず行きます!」
高天原がどんなところなのかは知らないが、知り合いがいてくれるのは心強い。赤音さんであるなら、なおさらだ。
「イヌピー、オレ、赤音さんのことが好きかもしれない」
九井は神様の子供だ。十八になれば神になる。人であったころの何もかもを捨て、高天原に行かなければならない。いづれ青宗とは別れなければならない時が来る。だが、赤音さんとは高天原でも会える。それはとても素晴らしいことのように思えた。だからオレは赤音さんをすきになる。そう決めたのだ。その代わり。
「オレが神様になったら、イヌピーが幸せであるようにずっと祈っているよ」
青宗はすこし笑った。
「赤音とおなじことを言うんだな」
だが、そう上手くはいかなかった。
十八になるまえに、赤音さんは亡くなってしまった。彼女はまだ十七歳だったから。あと一年だった。十八歳になれば乾赤音は神様になることができたのに、十七歳の乾赤音は人間のまま亡くなってしまった。
由々しき出来事に乾の両親は青宗を責めた。九井も責められた。なぜ神様の子供を、乾赤音を、たすけなかったのか。
そんなことを言われたって九井にだってわからない。九井は赤音を救うつもりだった。だが九井が助け出したのは青宗だった。
責められるうちに、九井の胸にあった石が輝きを失い、ある日ころりと剥がれ落ちた。神様の子供である証しの宝石がなくなれば、九井はただの人である。神様の子供である九井には秘されていたが、神様の子供が成りそこなうことは、わりにあることであるらしい。神様の子供が神になることは稀である。だからこそ大事に大事に育てられていたのだ。
もとより隔たりのあった両親は、神様に成りそこなった九井をいっそう遠ざけた。周囲もすっかりと九井を腫れもの扱いだ。神様の成りそこないほど扱いにくい存在はない。
当然のことながら九井は荒れた。金集めの才覚が神様の子供であった名残ならば、皮肉なことだ。九井はどんどんと堕ちていった。暴走チームにも入った。九井を神様の成りそこないと遠巻きにする連中より、金蔓だと思っているような輩とつるむ方が気が楽だった。やがて九井の名は金儲けの天才として知られるようになる。かつて神様の子供として知られていた九井一が暴走チームの幹部として名を馳せるようになった。
九井が唯一心をゆるし、傍に置いていたのは青宗だけだった。彼だけが特別だった。だがついには青宗とも別れることになった。
やがて関東卍會に加入してから、九井は神様のなりそこないが珍しくないことを知る。灰谷兄弟である。
「オレらも神様だったんだよな~。ある日、突然石がころがり落ちたんだよな。みんな青くなってて笑えたぜ」
「その日からオレたちはただの人間になったんだよな。ウケる」
げらげらと屈託なく笑う灰谷兄弟に、九井はすこしだけ救われたような気持になった。
「九井は石をどうした?神様の石だからな、オレらは加工してアクセサリーにした」
「悪趣味だな」
「だからこそだろ。九井はどうした」
「……捨てた」
「捨てるぐらいなら売ればよかったのに。結構いい値段で売れるらしいぜ」
もったいね~と灰谷兄弟が嘲笑う。
あんなものはただの石だ。マンションから投げ捨てた。それを見ていた青宗が拾いに行っていたことは見ないふりをしていた。
九井が自ら捨てた神様の石と再び巡り合ったのは、皮肉なことに十八歳の年だった。
東京卍會と関東卍會の抗争が終わり、落ち着いた頃合いに青宗が九井の住むマンションにやって来た。青宗がマンションに来ること自体は珍しくなく、九井は快く青宗を迎え入れた。いつものようにソファーに座った青宗は、彼らしからぬ丁寧な手つきでテーブルの上に天鵞絨の箱を置いた。
「オマエに返すよ」
「なに? プロポーズ?」
「似たようなものだ」
この時点では九井はすっかりと自分の捨てた石のことを忘れていた。蓋をあけて、息を飲む。神様の石は光を失い、ただ石ころになったはずだった。それがまばゆく光る宝石に戻っている。
「昨日くらいから、宝石に戻った。もしかしたらココが良心を取り戻したからかもしれねえ。神様になれるのかもな」
良心云々はともかく、石が戻るなんて例は聞いたことはない。隠されていただけで神様に戻る方法もあるのかもしれない。だが今の九井は微塵も興味がなかった。神様などどうでもいい。高天原に行く気はなかった。
「オレは神様にならないよ」
「……赤音がいないからか」
「ちがう。高天原にはイヌピーがいないからだ」
神様とはなんなのだろう。どんな恩恵が与えられるとしても、青宗と別れるのなら、その場所は地獄に等しい。どんなに稀有なことであれ、引き離される孤独を二度と味わう気はない。
九井は宝石を見つめる。いまの九井にとって神様の石は綺麗なだけの石だった。灰谷兄弟は自分たちから剥がれ落ちた石を加工してお互いのものを持っていると言っていた。あんな奴らの与太話でも聞いておくものだった。
「加工して指輪にしよう」
「……いいのか。大事なものなんだろ」
石を加工してしまえば神様の石ではなくなってしまうかもしれない。青宗はしきりと案じているが、あいにくと九井にはどうでもいいことだった。いまとなってはただの綺麗な石だ。それ以上の意味はない。
「イヌピーが持っていてよ」
「えっ」
「オレはイヌピーとずっといっしょにいたい。オレは神様なんかにはならない。どこにもいかない」
ふたりの間にはきらきらと輝く石がある。たしかに美しく尊いものなのかもしれない。けれど九井にとって最も美しいものは、青宗が持つ青く輝くふたつの虹彩だ。
九井一は神様にはなれないし、なるつもりはないが、恋人になることはできる。
九井一の願いを叶えてくれるのは、たったひとり。乾青宗だけだった。