水木両親の馴れ初め〜序章〜昭和四十一年三月。調布にある一軒の家の居間には写真が広げられていた。
「まあ、懐かしいわねえ」
白髪が混ざりつつある黒髪を団子結びにした割烹着姿の女性はそれらを愛でるように記録の中の人物達を撫でる。
目尻を柔らかくして微笑む女性に、目玉の化生が小さな歩幅で歩み寄って話しかけた。
「おや? ご母堂よ。なにをされておるのじゃ?」
尋常なる者なら恐れ慄き、金切り声を上げて追い出そうとするが、女性は目玉に手足がついた化生を恐れるどころか友人に接するように気安く答えた。
「ああ、ゲゲ郎ちゃん。お掃除していたら出てきたのよ。写真集が。それでつい夢中になって」
ふむふむどれどれ、と目玉の化生ことゲゲ郎はちゃぶ台ににじり登って女性の手元にある写真を覗き見た。
瞬間、ゲゲ郎は瞳孔をかっ開いた。
「水木?」
写真の中の男性は親友であり相棒である青年に似ていた。
白黒であるため、髪の色と瞳の色は分からないが、髪の分け目は違えども髪型は水木にそっくりで、隣の勝ち気な眦をした女性を愛おしげに見つめる垂れ目には涙袋をこさえていた。
水木と特徴が重なる男性への誰何に、女性は即答した。
「私の夫よ」
「ということは、隣のご婦人は」
「私よ」
その証拠にほら、と水木の母は丸眼鏡を外した。
眼鏡の下の相貌にゲゲ郎は固まった。
(あ、これは確かに親子じゃ)
水木の父ほどではないが、彼女も水木を想起させるほど眉毛や口元や瞳の色が似ていた。
(納得の容貌じゃ)
この二人の間に生まれたのが水木と言われたら納得してしまうのう、と内心頷くゲゲ郎であったが、ちゃぶ台の上に散らばる写真を見て首を傾げた。
どの写真にも水木の父と水木の母と水木しか写っていない。節目節目の行事にも法要にも。
その違和感にゲゲ郎は疑問の声を上げた。
「ご母堂には親族がおられないのか」
水木からは水木の父の親族の話は聞いている。無論、悪い意味で。当然ながら出禁を食らっている。
だが、水木の口から母の親族の話が出たことはない。しかも、お正月になっても水木の母の親族が訪れていない。
どういうことか、と唸るゲゲ郎に、水木の母は淡白に答えた。
「いないわ」
ため息を一つこぼす。
「あの人と駆け落ちして実家との縁をすぐに切ったからいないわ」
瞳には親族への愛着も思慕もなく、熱い冷たい温かい涼しいを通り越して温度さえ無かった。
ゲゲ郎はそれに見覚えがある。
金を返すから代わりに鬼太郎を育ててやる、孤児院経営しているから上手く育ててやれるよ、と鼻息荒く詰め寄ってきた父の親族連中に対して「どちら様ですか?」とあしらった水木のあの瞳に、よく似ている。
二人は親子なのだな、と実感したゲゲ郎は、それにしても、と熱い吐息をこぼす。
「駆け落ちとは……なんと情熱的な」
水木の母か水木の父か、どちらなのかは知らないが、良いところの家の出なのだろう。身分差ゆえか実家が敵対しているゆえか、とゲゲ郎は部外者特有の好奇心から目を輝かせる。
みんなその手の話大好きねえ、と水木の母は頬に手を当てて息を吐く。やれやれといった様子で。
普段なら「よくある話よ」と言って切り上げたが、思い出に浸っていたせいか相手が似た境遇の同居人だからか、水木の母は息子以外に話したことはない過去を話したくなった。
「そういえばゲゲ郎ちゃんには話していなかったわね」
私とあの人の出会いを。
***
どこから話しましょうか。そうね。あの人と初めて会った時から順を追いましょう。
私が十四の時、いつものように屋敷を抜け出して町中逃げ回っていたのよ。使用人や下男から。
結えさせられた髷をほどいて簪やら帯留やら帯締やらを投げ捨てて走っているうちに段々と疲れてきて、そのうちに下駄の鼻緒が切れちまったのよ。
「はあ……はあ……っ、いっ」
痛くて痛くて。親指と人差し指の間が擦れて痛いのなんの。しかも、足袋はだんだん赤くなってしまってねえ。
鼻緒を直したくともそんな余裕は無くてどうしようかと路地裏で立ち往生してたら、声をかけられたのよ。
「どうしましたかお嬢さん?」
のちに私の夫であの子の父になるあの人に。
「あ、えっと、その……」
牡丹柄の黄色の羽織りを着た美形に声をかけられたもんだから、吃驚してね。なんでこんな美男が路地裏にいる女に話しかけたのかって。
答えるのに困っていたら、あの人が路地裏に入ってきて、私の前に来ると、しゃがんでこう言ったのよ。
「お辛いでしょう」って。
懐から手巾を出して、膝を叩いてね。
「さあ、お足を僕の膝の上に。お手も僕の肩の上に置きなさい」
「は、はい」
言われるがままに足と手を膝と肩の上に置いてあの人の処置を受けている間、ずっとドキドキしていたわ。
だって、こんなこと今までに無かったもの。あの人に会うまで、自分と同年代の男性に色のない眼差しを向けられたことなんて。
「さあ、終わりましたよ。お具合はいかがですか?」
「ええ……もう大丈夫です。それどころか前よりもよくなっています」
「そうですか。良かったです。淑女が足を痛めているのは見過ごせない性質なので」
今にして思えばアレはあの人の社交辞令やご挨拶みたいなもので、本気で言ったわけじゃないだろうけど。あの時の私にとっては妙に神経に障るもので酷いことを言ったのさ。
「では、貴方様はさぞ驚いたでしょうね。淑女がみっともなく御髪と帯を乱して足袋を血塗れにする姿に」
令嬢みたく淑やかに赤面して俯く可愛げなんて私には無かったから、こういう返しをされたら、大抵の男は腹を立てて胸倉を掴むんだよ。
けど、あの人は違った。目をきょとんとさせたかと思うと、ふはっ、と笑い出したんだ。
「ああ、失敬。このように言われるのは初めてだったから面白くてつい」
「……ご趣味が悪いですね」
「よく言われます」
なんて言いながら煙管を吹かすあの人は色っぽかったわ。軽く口をつけて吸って細かく煙を吐くあの人に思わず見惚れていたら、あの人が振り向いてね。
「どうされましたか?」なんて言ってくるもんだから。
「どうもしませんわ。自意識過剰ではなくて?」と、返したのよ。
え? 口調が今と違う? そりゃそうでしょう。あの人と結婚してからというのもあるけど、私の実父のせいでもあるのよ。
どんな人かって? そうねえ。
一言で言うならあわれな人よ。
私の冷たい返しにも動じないあの人になんだかムッとして、その澄ました顔を崩してやろうと手を伸ばした時に、使用人達に見つかってね。
屋敷に連れ戻されて実父の前に連れ出された。チビの頃からやられたことさ。
「お父様」
子が父親をそう呼ぶのは当たり前だろう。
ところが、実父は違うのさ。
「そうではないだろう【菊乃】」
杖をついた実父は私を睨んで、私じゃない別の人の名前を呼んだ。
菊乃。その名前に若い頃の私は逆らえる術もなく実父の命令に従うしかなかった。
「……遅くなって申し訳ございません。あなた」
実父の亡き妻、私の母のように振る舞うことが屋敷内の私の役割だった。