Blue Period何か、糸が切れたような感覚があった。
ふつと途切れるような、それまで確かに感じていたひとつの繋がりが、不意に見えなくなったような。
ピナックルロックスのほとりに風が吹く。方々から生える木々の間を通って、複雑な音色が響いた。若木の匂いが、空気に混じる。それを割くように、エーコは吹き口に寄せていた唇を離し、再び息を吹き込んだ。澄んだ旋律が流れ出し、それに乗って沸き起こるはずの魔法は、今度こそはっきりと沈黙したままだった。
エーコは呆然と笛を見、そして自分の手を見た。
答えはどちらにもない。それくらいただはっきりと分かることがある。
魔法が消えた。自分の中から忽然と、消えてしまった。
「エーコ、大丈夫か」
少し前を進んでいた巨躯が、振り返りこちらに尋ねた。
事実を伝えたものか迷って、エーコは答えられずにただ男――サラマンダーを見た。
「あの、魔法が」
心が乱れる。言葉は、動揺して形にならない。
「…面倒ごとか?」
「そうみたい」
実際その通りなのだが、サラマンダーの口から出た「面倒」の一言に気持ちが挫けそうになった。
「帰るぞ」
サラマンダーは再びこちらに背を向けた。
余計な言葉もふるまいも削ぎ落とされた最小限の動作が、エーコの心をひどく痛めた。
全てが突然、遠のいたような気がした。虫の音が遠くから聞こえる。ぼうぼうと奇妙な風の音が鳴る。かつての故郷の遠い音。全てを失くしたあの日の夜と同じに。
エーコから魔法が消えたと聞かされたシド大公とヒルダ大公妃は、最初こそ複雑な表情を浮かべたものの、すぐ喜んだ。
「めでたいことだよ。もう魔法などなくても、暮らしていけるのだから」
実際、それはその通りなのかも知れなかった。
失くしたのは、魔法だけではない。召喚獣を呼び出す力も付随して失われたようだった。
愕然とした。失った事実に、だけではない。失ったことで何一つ支障がないという現実に、エーコは打ちのめされた。
かつての冒険の旅の最中ならいざ知らず、平穏を取り戻したこの世界で魔法の力はまったく無用になっていたのだ。時折訪れるサラマンダーに無理を言って、連れ出してもらったときに披露するくらいで、それが、忽然と消えてしまった。
そしてそれが一時的なものか、それとももう一生このままなのか、エーコには知る術がない。強い欠落だけがある。それを埋める術はなく、ただ漠然と、「うしなった」ことがまるで体の一部を失くしたような感覚と共にある。
真昼のリンドブルムは歓喜の光の中にまどろんでいる。一つ一つの建物が身を寄せ合うようにして立ち並ぶリンドブルム独特の建築様式の下で人々は行き交い、それぞれの生活に勤しむその頭上から、陽光は暮らしの一つ一つをあまねく照らし出す。リンドブルム巨大城のバルコニーから、同じ日差しを身に浴びて、エーコは考える。
父と母が言う、このままが幸せなのだろうか。
世界が平穏を取り戻してもう何年も経つ。これからも、この平和は続くだろうし、エーコが戦いの場にでる事はもはやなく、その必要があれば、リンドブルムの将兵が、魔法の力に代わってエーコの身を護るだろう。
手の中に落としたままのゴーレムの笛は、あの日からずっと沈黙している。吹けば音色は奏でるがそれだけだ。やはりこれでいいのかもしれない、とエーコはふと思う。
旅の中でエーコの果たした役目は終わった。平和になった今の世界で、魔法はもう必要ない。召喚獣もしかりだ。名実ともに「普通の」少女になり、父母の惜しみない愛のもとで、引き換えに何を差し出すでもなく、その幸福をただ享受するだけでいい。
幸せなのだ。
そう思うほどに、心がきしむのはなぜだろう。
遠のいた魔法の力が、召喚獣たちの面影がたまらなく恋しい。
自分にはもう必要のなくなった全てがどうしようもなく慕わしかった。
「なんだ、考え事か」
はたと顔を上げると、自室の入り口にサラマンダーの姿があった。
「サラマンダー」
来てくれたのか。なぜか胸が熱くなった。いつでも武骨なサラマンダーの居ずまいの一つ一つが、懐かしく、同じだけ切なく映る。彼は変わらない。いつでも。いかなる時も。ずっと「焔色のサラマンダー」としてエーコの前に現われてくれる。
「出直すか」
「ううん、待って。ごめんなさい」
行かないで。エーコはサラマンダーの服の裾をつかんだ。とっさに、かつていつもしていたように。そしてすぐに、開いた体格差に気付いて決まりが悪くなり、手を離す。
「大公がえらく心配してたぜ」
「おとうさんが?」
ああ、とサラマンダーは手近な椅子に腰を下ろした。卓に肩ひじをつき、持て余し気味に片手を上げる。
「魔法が使えなくなったんだって?」
「…そうなの」
隠すつもりはなかった。ただ、伝わってしまっていたことに少し落胆した。そこで、魔法がかつての仲間と自分を繋ぐ、ひとつのしるべだったことに気付く。
「もう、サラマンダーには着いていけなくなるのね」
「なんでそうなる」
サラマンダーは、卓の上にある小物を一つ一つ気のなさそうに見遣っている。
「だって…エーコはもう、魔法が使えないんだもの。何かあっても、一緒に戦えない」
「別に『戦ってくれ』なんて頼んだ覚えはねえんだが?」
そうなんだけど、とエーコは頭を振った。
「そのほうがいいのかもしれない。魔法が使えない方が、幸せなんだっておとうさんもおかあさんも言っていたし。これからは普通のエーコとして」
「普通ねえ」
サラマンダーは、頭を掻いた。
「お前の言う普通は知らんが」
「普通は普通よ。どこにでもいる女の子みたいに、何事もなく幸せに暮らすの」
「その辺の女の幸せが、お前の幸せか?」
それは、とエーコは言葉に詰まる。サラマンダーは立ち上がって、膝のほこりを軽く払った。
「たまに外までくっついてくるときのお前は、割とよかったぞ」
「え…」
エーコはとっさに、言葉を見失う。胸を突かれたような気がした。
「俺は魔法はよくわからんが」
窓辺から外の様子を軽く伺うように確かめてから、サラマンダーはエーコを横目に見た。
「そう簡単に消えて無くなるようなもんでもねえだろ。そのうち戻るさ」
「…そう、かな」
「どうだろうな。お前が本気で、無くなっちまった方がいいと思うんなら知らんが」
お前はどうしたいんだ、とサラマンダーはエーコに向き直った。
「それは…おとうさんと、おかあさんが」
「大公なんざ知るか。お前の心はどこにあるんだよ」
「エーコの…こころ?」
サラマンダーの指先が、エーコの胸元に触れる寸前の宙で止まる。彼の言う、こころのありかを指し示すように。
――魔法が消えるなんて、考えもしていなかった。
それが当たり前になる日が来るなんて、思いもしなかった。何もかもすべて、当たり前のようにそばにあって、今までもこれからもずっと、変わらずにいてくれるものだと無心に信じ切っていた。魔法だけじゃない。エーコを包む全て。両親も、与えられた環境も、失った故郷も、そして目の前にいる彼という存在も。
答えは最初からあった。たった一つ、間違えてはいけないもの。
「…失くしたくない。もっとずっと、一緒にいてほしい」
サラマンダーの目を見てはっきりと口にした。それが全てだ。サラマンダーは
「そうかよ」
とだけ言ってそっぽを向いてしまったけれど。
なるほど、幸福だとエーコは思う。その在りかを思い出すことができた。
「あのね、サラマンダー」
「なんだ」
「これからも、外に行くときはついていっていい?」
「はあ?」
エーコはにっこりと微笑んだ。
「そうすればきっと、いつか魔法を思い出せる気がするの」
「なんだそりゃ」
一歩身を引くサラマンダーに、エーコはもう一歩身を詰める。
「いつかまた、エーコが守ってあげるわ。」
だからそれまで、また守ってほしい。かつてのように。厳しくそして愛しい旅路の思い出をなぞるように。
「お願い。ダメ?」
「…勝手にしろ」
彼はいつも、決まってそう言う。分かりづらいけれど、肯定の返事だ。エーコは満足の笑顔を浮かべた。
そう。いつかはきっと思い出せる。失ったわけじゃない。全ては思い出とともに確かにあった。気づけばそこ、すぐそこに。
午後の光の中に、ゴーレムのふえが鈍くかすかに輝いた――