教科書は教えてくれない「どう? 解けた?」
「ううん……。分かんないよ先生、こんなの当て嵌まるところ無くない?」
机に広げたプリントの上に突っ伏せば、腕が当たってシャーペンが床に落ちた。頭がパンクしそうで、それを拾う気力も無い。
「ちゃんと教科書見てみなって。3行目から5行目」
苦笑いする先生が、シャーペンを拾ってくれる。私は項垂れた姿勢のままそれを受け取って、彼女の顔を見上げた。
奥沢先生は、現代文を担当する私のクラスの担任だ。見たところまだ若そうだけど、しっかりしていて話も親身に聞いてくれて頼り甲斐があって、生徒からも慕われている先生だ。
国語が壊滅的に苦手な私の為に、こうして一人きりの補習を開いてくれる。私もまた、先生を慕っている一人の生徒だった。
「え〜〜、あっ分かった、ここだ」
「そうそう……あ、ちょっと、漢字間違ってるよ」
指摘にはごめんなさーいって笑って誤魔化せば、優しい奥沢先生は眉を下げて笑って許してくれる。その笑顔が——一回りも歳下の私が言うのも生意気だけど——可愛くて好きだった。
だから苦手な国語も面倒なはずの補修も苦ではなかったし、何よりこの時間だけは“みんなの”奥沢先生を独り占め出来てるみたいで嬉しかった。
「もう大分成績も上がってきたから、自力でいけそうな気もするけどね」
「えー! ダメだよ! 先生が見てくれなかったら絶対次のテストもやばいって」
「それは困るなぁ。そろそろ一年生の子達も試合出してあげたいって思ってるし」
奥沢先生は、たくさん褒めてくれる。難しい問題が解けた時や、テストで良い点を取った時や、簡単な雑用を受けた時とか。
もっと褒めて欲しくて、私は奥沢先生が顧問を務めるテニス部に入部した。ただでさえ中学まで帰宅部だったテニス初心者のうえ、5月という遅れた時期での入部だったのに。奥沢先生は出来の悪い私に、国語と同じようにテニスも熱心に教えてくれた。
私がテニスを始めた動機なんて、こんなに不純の塊なのに。
「……先生ってさ、大変なお仕事だよね」
「はは、なに急に」
「だって国語教えてテニスも教えて、こんな風に出来が悪い生徒の面倒も個人的に見なくちゃいけなくてさぁ」
私だったら絶対に無理、こんな仕事。それでも奥沢先生はいつだって優しいし、私が個人的に勉強をお願いしても嫌な顔しないで受けてくれる。テスト前で先生も忙しいのに、こうして私一人の為に時間を割いてくれるんだ。
——そんなの、もう、好きになっちゃうじゃん。
「こんなに忙しいとさ、恋人とか作る暇ないでしょ?」
「……いやいや、何言ってんの」
「ダメだよ先生若いし可愛いカオしてるのに〜! 勿体無い!」
詰め寄れば、先生の頰がちょっとだけ赤くなる。あ、今の顔結構可愛い。じっと見つめれば、誤魔化すみたいに赤ペンのでっかいバツ印が間違った漢字に付けられた。
「……私は、仕事が恋人みたいなもんだからいいの」
「え〜! 色気ない……」
「高校生が色気とか言わない」
「じゃあじゃあ! それはつまり、私が恋人ってこと?」
「……大人を揶揄わないの。はい、プリント追加しまーす」
「えーーーっっ!?」
◆
「——私は本気なのにさぁ。大人の人って、どうしてそうやって誤魔化すんだろね」
「あはは……。うん、でも、大人は立場とか色々あるしね?」
補習後の保健室で、テーブルに項垂れる。苦笑いしながら優しく話を聞いてくれるのは、養護教諭の松原先生。どんな話も親身に聞いてくれるので、私はよく保健室に入り浸っている。
流石に奥沢先生の名前は出せないけど、その件についてもよく相談していた。奥沢先生と松原先生は歳が近いって聞いたから、なんか参考になるかなって。
「でも言うほど子供じゃないと思うんだよね、高校生。松原先生から見て私ってどう思う? やっぱり子供に見える?」
「うーん……まあ、ごめんね、そうだね……」
お詫び、と言わんばかりに飴玉がころんと机に置かれた。やっぱり子供扱いされてる!
「そっかぁ……。私がもっと大人だったらな……」
そしたら奥沢先生も、もう少し私のこと意識してくれるのかな。教師と生徒で、女同士でなんて、あまりにもハードルが高過ぎる。恋は障害が多い程燃えるって聞くけれど、私は恋に恋がしたい訳じゃない。
「でも——あなたのその言い方だと、まるでその立場の違いさえなければ付き合えるみたい、だね?」
「……え、」
一瞬だけ、空気がピリッとした……ような、気がした。聞き返したかったけれど言葉が出なくて、意味のある言葉を吐き出す前にドアが開く。
「失礼します。松原先生、次の会議のことで相談が……、あれ、まだ居たの?」
保健室にやって来たのは奥沢先生だった。先客である私を見て、驚いたように首を傾げる。
「どうしたの、具合悪い?」
「違うよー、松原先生に“オトナの”相談してたの」
「はは、何それ」
「あはは……。でも、そうだね。そろそろ下校時間だから、帰った方がいいね」
壁掛け時計の方に視線を向けた松原先生に釣られるように時計を見れば、確かに下校時間が迫っていた。
あ、やばい。今日バイトあるんだった。
「じゃあ帰る……。先生さようなら〜!」
「うん、さようなら」
「気を付けて帰ってね」
鞄を持ってひらひら手を振って、保健室を後にする。そういえば、あの二人が揃ってるのなかなか珍しいかもしれない。歳が近いってだけで、別に他の共通点とか無いもんな。
「……あ、貰った飴忘れた」
バイト前の身体に糖分は大事。戻って取りに行こう、と保健室前まで戻ったところで、話し声。
「——じゃあ、よろしくお願いします、松原先生」
奥沢先生と松原先生のものだ。あの二人ってどういう話するんだろ。気になってちょっと聞き耳。
「もう誰も居ないのに、“花音さん”って呼んでくれないの?」
「……まだ、職場なので」
「ふふっ、そうだね。じゃあ帰ろうか、“奥沢先生”?」
(……あれ、)
それはなんだか、聞いてはいけないみたいな会話だった。なんで、どうして。どういう関係?
まるで裏切られたみたいな気持ちになって。……いや、裏切られたも何も、私が勝手に舞い上がってただけだ。
この気持ちはどこにやったらいいんだろう。私はどうすればいいんだろう。きっと、何かの間違いだったよね?
馬鹿な私じゃ何一つ答えが分からなくて、当てつけみたいにわざと足音を立てながら廊下を走って玄関へと向かった。やっぱり、私はまだまだ子供に違いなかった。