雨に打たれたアスファルトに赤い靄が広がった。踏みつけにされた節々が痛み、げほ、と吐き出した咳には、僅かに血が混じっていた。蹴り飛ばされた拍子に口内のどこかが切れたのだろう。モクマが歯を噛み締めると、鉄錆の味がじんわりと舌に広がっていった。頬が冷たい。水浸しの地面に転がされたせいで、雨水が服にしみこんで気持ちが悪かった。
今宵は、ナデシコから割り振られた、とある「おつかい」――裏社会との繋がりがある某企業への潜入調査の日だった。途中あったトラブルもどうにか片付けて与えられた任務も終え、簡易的な報告も済ませてあとは帰るだけ、といったところだった。「話があります」そういって連れ込まれた繁華街の路地裏にモクマは今、這いつくばっていた。
「いつまで狸寝入りをして過ごすおつもりで?」
上等の革靴が、地に伏したモクマの顔を強引に起こす。下品な後光めいてチェズレイを照らしている極彩色のネオン管が、彼の濡れた髪を爛々と輝かせていた。その逆光のせいで、平静を模して見せる表情はひどく読み難い。けれど、その声色から憤怒だけは明確に感じることができた。
「起きてください。まだ終わっちゃいない」
「……ああ」
立ち上がればまた蹴られると、打ち据えられると分かっていて、それでものろのろと身体を起こす。そういえば、眼鏡はどこにいったのだろうか。無意識に鼻筋に指を伸ばし、軽くなっていたそれに気付く。
視線だけで、左右を見渡すと、チェズレイの遥か後方にそれは転がっていた。遠目にみても蹴り飛ばされてしまった眼鏡は右のリムが外れ、全体的にひしゃげていた。拾ってもう一度使うのは無理そうだった。
「他所事ですか? 余裕ですねェ」
髪をわし掴まれ、無理やりに上を向かされる。微かな痛みに眉を顰めると、その瞬間だけ、チェズレイの薄い唇は満足そうに吊り上がった。
「あなた、本当に不快なんですよ。あれで私を守ったつもりになったんですか? それとも、自分が代わりに死ねたら良いとでも思ったのでしょうか」
チェズレイが尋問じみて取り沙汰しているのは、先ほどの任務での一件だった。構えているのは下っ端ばかりで大した危険はないと踏んでいたのだが、連携の悪さが裏目に出た。有体に言って、隙を突かれたのだ。
先頭の途中、体勢を崩して銃口を向けられたチェズレイの前にその身を躍らせ、代わりに撃たれたのだ。敵が所持していたそれが、大した口径数の拳銃でないことは分かっていた。モクマの潜入服には防弾加工も備えられている。故に、さしたるダメージにはならないと予測できたし、その隙にチェズレイがうまく反撃してくれたら御の字だと考えたのだ。
「今度はだんまりですか? とんだ自己満足だ」
憎悪にぎらぎらと燃え盛る紫眼が、険しく歪んだ。髪を掴む手が解かれ、ぐらつく背中を湿ったコンクリートの壁に押し付けられる。縫うように掴まれた両手首が、軋むほど強く握り込まれた。感謝されるとは思っていなかったが、これほどまでに怒りの呼び水になるとも考えていなかった。
「……なにも、言い返す言葉はない」
だから、好きなだけ殴ればいい。罵倒すればいい。愛する父親を俺に奪われたお前にはそうする権利がある。己の内に絶えず浮かんでいるその感情が、贖罪なのか自罰なのかもわからないまま、それでもモクマは、己の身を差し出す以外の選択肢を見つけられなかった。
「その態度が不愉快だと言っているんです」
怒気に震えた声が、冷たい路地裏に暗く染みつくようだった。手首に、爪の先が食い込む。皮がめくれて血がにじんだ。けれど、モクマは青年の手を振り払うことはしない。できなかった。
「あなたは……結局、父を通してしか私を見ていない。父親を殺されたかわいそうな私。それだけだ。あなたを憎んで痛めつけて、殺そうとしているのは私なのに」
左手を掴んでいた手が、モクマの顎を掬う。疑問に思う暇もなく、親指が下唇を強引に割り開き、その隙間にチェズレイの舌がねじ込まれた。驚愕と押し寄せる罪悪感にモクマは目を見開く。身体を捩り、初めて抵抗らしい抵抗をした。けれど、彼の細い身体の一体どこにそんな膂力があったのか、縫い留められた身体はびくともしない。ぬるついた舌が絡み、上顎を撫でた。ぞわぞわと背筋が粟立つ。いつの間にか腰を抱かれ、口付けは一層深くなっていく。逃げられない。捕食のようだと、普段は自分を責めるばかりの声が呟く。己の口から漏れる淡い嬌声を、冷静な思考の一部が他人事のように聞いていた。
どれほどそうされていたのか分からない。際限なく舌を吸われ、唾液を流し込まれ、情愛と呼ぶにはひどく一方的な暴力を浴びせられた。酸欠でぐらつく口を漸く離され、モクマは青年の身体を力無く押しのける。
「お前、何して――」
「あなたから見て、私はどこが父に似ていますか?」
「はあ?」
言っていることが滅茶苦茶だった。青年はべたつく口元をシャツの袖で乱雑に拭う。鋭さを取り戻した瞳は、青年の問いもあって、死した相棒の姿を嫌でも想起させた。何よりも真っ直ぐで気高かった、宝石めいた輝き。
「……似てるよ、どこもかしこも。そっくりだ」
射貫くような眼差しに急かされ、観念したように答えを返す。そう、似ているのだ。相棒と、その息子たる彼は。だから、罪の意識はより強く澱じみて重なり、あるいはあの日のやり直しをしているかのような錯覚を覚えてしまう。
モクマの懺悔にも似た言葉を最後に、二人の間に、重苦しい沈黙が落ちる。しとしとと降り続く小雨と、離れた通りの喧騒だけが鼓膜を揺らす。わずかな身動ぎで跳ねた水たまりは、モクマの服や靴をじっとりと重く濡らしていく。同じように、チェズレイの上等に仕立てられたスーツも、雨粒を吸って余す所なく黒く色を変えた。
「……私はあなたのことが嫌いだ」
沈黙を先に破ったのは、チェズレイだった。
「あなたは父を殺し、私の幸福を壊した。なのに――血筋とは悍ましいものです。胸を満たす憎しみと同じくらい、私はあなたに惹かれている。誘蛾灯のように」
青年の美しい声が告げる言葉の意味を、モクマはスンの間、理解できなかった。罪業を詳らかにされる覚悟ばかりしていたモクマは、予想だにしていなかった青年の言葉に愕然とする。
その言葉が紡がれた瞬間だけは、チェズレイの感情からすっぽりと憎悪が抜け落ちていた。痛みに耐えるような、迷子のような表情。あるいは、雨のせいか泣いているようにも。
「わかりますか。あなたが憎らしくて仕方ないのに、同時に渇望してもいる。耐えがたいほどに」
「チェズレイ、それは――」
未知の感情を発露して見せるチェズレイに、モクマは静かに息を吐く。お前のそれは、憎しみから生まれた執着心だろう。俺が……かつての俺たちが持ってしまった「間違いの感情」なんかじゃない。そう告げようとした。けれど、聡明な青年はいつだって、モクマが告げようとした言葉の先回りをする。
「間違っても、勘違いなどと勝手に決めつけないでください。そんなことをされたら、この指先は即座にあなたを縊り殺してしまう」
思い出したように憎しみを再び宿らせたアメジストが、月明かりの下でぎらりと光った。力無く首筋に添えられた長い指に、ぞくりと身体が震える。
「ねえ、ひとつ賭けをしましょうよ。モクマさん」
耳元に寄せられた唇が囁く。
「あなたを深く憎んで、また愛しかけている私が、どちらを選ぶか。あなたを許せずに殺せばあなたが勝ち。そしてもしこの感情が愛に転んだら、その時は――」
悪魔の契約だ。あるいは、これが与えられた罰なのだろうか。これまで見たことのない顔で歪み微笑む青年が、空いた右手で強引に小指を絡め取る。
「あなたも、父ではなく私を愛してください」