ジャミル、まだかな。
左手首を捻らせ、二本の針のゆくえに目をやる。長い方は十と十一の間、短い方はちょうど八の辺りで立ち止まっている。待ち合わせの時刻まで二十分。このわくわく、そしてどきどきする時間はカリムにとって、最も時の流れが遅いと感じる瞬間だ。
古ぼけた街灯の心許ないあかりの下で、住み慣れた街の夜に耳を澄ます。
りりりり。りりりり。鈴のような音を奏でる虫の鳴き声、それを攫うように吹く風が揺らす草木が生み出す微かな騒めき。昼夜お構いなしに絶えず聞こえる高速道路を車が行く音は、バンドで例えるならベースの部分だろうか。
そんな心地よいミュージックに加わる今夜だけの特別な音。ちゃぷちゃぷという水音が耳に届く。寄せては返す波。しかしそこに浜辺はなく、あるのはコンクリートの地面と鉄の柵だけだ。都会のど真ん中を横断し、縦断し、時に川と交わりながら、やがて海へと辿り着く巨大な水たまり——運河にカリムはいた。
団地から歩いて十分ほど。比較的新しいマンションの立ち並ぶ区画に沿うように整備された遊歩道には、時折、誰かの遅い夕食が柔らかな風に乗って漂ってくる。カリムは石造りの小さな椅子に腰掛けて、仮眠の取り過ぎで食べ損なった夕飯に思いを馳せた。
「腹減ってきたなあ……」
ぱちん。
「あっ」
思考が追いつくより先に右手がふくらはぎを叩き、肉のぶつかる乾いた音が人気のない水辺に響き渡る。ほぼ反射で動いたその手には、叩き潰された蚊の跡がべったりと残っていた。
「やっちまった……ごめんなあ、お前も腹減ってたのに」
「まったく、虫除けくらいして来い」
「うわ! わ! ジャミル!」
突然、背後からかかった声にカリムは飛び上がり、覗き込む形で声をかけたジャミルはその石頭に顎を打ち付ける。
「……った!!」
「うわ! すまん!」
「はあ……良い、俺のことは。というか、あまり大きな声を出すな」
「ああ、そっか」
「ほら、これで拭け」
白いTシャツによく映える、黒のサコッシュからウェットティッシュを手渡すジャミル。両腕にはそれぞれ、バケツと花火セットの入ったビニール袋とがぶら下がっていた。
本当なら先週の今日、二人は近くの花火大会に行く筈だった。
露店で買ったいつもの数倍美味しく感じる焼きそばや、家から持参した半分凍ったままで飲みにくいペットボトルをお供に、夜空を彩る大輪の華を楽しみ、混雑する歩道で揉みくちゃにされて歩き疲れ、ジャミルの家でゆっくりと残りの夜を過ごした。……筈だった。
というのも当日、何ヶ月も前から楽しみにしていたカリム自身が高熱を出し、大事をとって計画はあっけなく中止になってしまったのだ。
横になったまま、額に汗、瞼にはうっすらと涙を浮かばせながら「せっかく色々準備してくれてたのに、ごめんな」と呟いたカリムを前にジャミルは、いつかの”何もしてやれない無力な自分“と今この瞬間とを重ねずにはいられなかった。
「(どうしてお前はいつも、謝るんだよ)」
命を狙われることのない、平穏そのものとも言えるこの世界でも、そう思わされることに一周回って腹が立ってしまって。だから、前世からの幼馴染の泣き出しそうな顔にこう言ってやったのだ。「花火なら、俺達二人でやればいい」と。
「うわあ……! 見てくれジャミル! これ、すごい綺麗だ!」
「俺のだって変わらないだろ、ほら」
「へへ。ぱちぱち光って、魔法みたいだなあ」
「火薬に火を点けるだけで魔法が起こせるならこの世界、苦労しないさ」
「オレは結構好きだけどな! 確かに、魔法がないと不便だけど、その分、自分の力で“生きてる”って感じがしてさ!」
「まあ、わからなくもない」
「それにきっと、魔法なんてすごいものがあったら、こうやって夜中に集まって近所迷惑とか、通報されないか気にしてコソコソ花火することもないだろ?だからオレはこれで良い……いや、これが良いんだ! 魔法がなくても、オレはジャミルと一緒に居られれば、それだけで幸せだから」
さあっと木々の揺れる音がして、湿気を含んだ潮風が二人の間を通り抜ける。
最後のひと光を放って、カリムより一足先にジャミルの花火が燃え尽きた。
「おま、お前な……よくもまあ、そんなことをつらつらと……」
「ええ!? 嫌だったか?」
「そうじゃない。お前にはこう……恥ってものはないのか」
「ふふ、だってさジャミル!オレ、今すごく幸せなんだ。そりゃ、花火大会の花火はこれと比べものにならないくらいでっかいし、綺麗だったかもしれないけど、この花火は二人だけの秘密で、二人だけの思い出だろ? あの日見られなかった空は今、ほら……この手の中にあるんだ」
そう言って、カリムは手元で色とりどりに散っていく火花の最期を愛おしそうに眺めた。ぱち、と音を立てて瞬く瞳に鮮やかな輝きが反射して、ジャミルは都会の夜空に瞬く一番星を思った。
「……ジャミル?」
火薬の部分が燃え切り、賑やかな明るさが失われても、ジャミルはカリムの瞳を見つめたままいた。火の花の灯りなんかなくても、そのガーネットははじめからずっと。あの雨の日に出会った時から輝きを失ったことはない。そしてこの愛おしいたった一つの光こそが、今までもこれからもジャミルの道標なのだ。
「風邪なんか引くなよ、来年は」
「え、それじゃあ来年も……一緒に居てくれるのか!?」
「バカ、そういうことを言わせるな」
水を張ったバケツにたった今燃え尽きたばかりの二本が加わる。全て合わせると相当な本数になっていて、開封前にはびっしりと敷き詰められた花火で見えなかったパッケージの台紙も、今は数本が残されているばかりで寂しげだ。
「さて、最後に残ったのは……」
「線香花火!」
「だな」
「オレ、これが一番好きだ!」
「意外だな、お前はもっと派手なのが好きだと思ったんだが」
「もちろん、派手なのも好きだぜ! でもこれは何ていうか……魔法とも、ヤーサミーナの花火とも違う、小さいのに力強いっていうか……“生きてる”みたいだろ? それがすごく好きなんだ! ジャミルは?」
「俺もこれは、好きだな」
「ジャミルこそ意外だな! もっと“ドッカーン!”ってやつが好きなのかと思った!」
「わざと言ってるだろ、お前」
「なはは」
二回目の人生を生きるカリムとジャミル。前世からのその絆は幾度となく絡まり、いつしかきつい結び目になり、やがて千切れて解けたけれど、その度にもう一度結び直してここまで来た。今の二人にとっては、どんな暗い過去だって大切な笑い話のひとつなのだ。
「どっちが長持ちするか、勝負しようぜ!」
カリムはそう言うと線香花火を左手に、チャッカマンを右手に構えてジャミルを待った。先ほどまでのようにお互いの花火から火をもらうのは、タイムラグができてフェアではないと思ったからだ。
「いくぞ、せーの……」
カチっ。カリムの人差し指一本の動きで生まれた火が、それぞれの導火線に移った。今にもこぼれ落ちそうな小さな火の玉から少しずつ。少しずつ火花が散り始める。
「うわあ……!」
「こら、揺らすと長持ちしないぞ」
「あ! そっか!」
「……綺麗だな」
「うん。すごく、きれいだ」
寿命の短い線香花火はほんの十数秒でピークを迎え、ぱちぱちという心地の良い音散らしながら弾けていく。
「オレさ、また一緒にジャミルと花火を見るの、ずっと夢だったことのひとつなんだ」
カリムは、段々と弱々しくなっていく輝きから目を逸らさずに言った。
「ひとつってことは、いくつもあるのか」
「うん、いっぱいあるぜ」
「たとえば?」
「ええ……それ、本人の前で言うかあ……?」
「ほら、早くしないと花火が落ちる」
「あ、えと、一緒に水族館に行く、とか……それから……」
もうほとんど消えかかって、持ち手の先でただ垂れるだけだった火が、締めたばかりの蛇口から逃げ出す水の一滴のように溢れ落ちた。この勝負、カリムの負けである。
「あ! 落ちた! っていうか今の、花火と関係あったか……?」
「明日、叶えてやろうか。それ」
「ん? ……え?」
持ち堪えていたジャミルの線香花火が、わずかに遅れて落ちる。
「俺の勝ちだな」
「……ええ!? ま、待ってくれ!オレは明日バイト休みだけど、ジャミルは学校あるだろ?」
「一限だけな。大した講義じゃない。一コマくらい休んだところで支障はないさ」
「だめだ! 授業にはちゃんと出ないと!」
「単位に関わるようなことじゃない、心配いらない」
「でもそれは何ていうか……とにかく何か違うんだ!」
ジャミルは“何かってなんだよ”と言いかけて、やめた。こうなったらカリムは食い下がらない。そんなことは前世の序盤で散々思い知らされた。
「それにオレ、今日みたいに待ち合わせしてジャミルを待ってる時間も好きなんだ! だからさ……良いだろ?このまえ一緒に行ったカフェに居るから!」
「……変なところで頑ななのは、相変わらずだな」
ジャミルの語気がわずかに柔らかくなったのをカリムは聞き逃さなかった。
夏夜の闇が二人の表情に膜を張っても、視覚以外で互いをわかりあうに十分すぎるほどの時を二人は共に過ごしてきたし、それはこれからも続いていくのだ。
「十時半。講義が終わったらすぐ向かう。俺が行くまで、あまり飲み食いしすぎるなよ」
「……おう!」
二人して握りしめたままだった線香花火をバケツへ入れた。
夏が、終わる。