ジャミルが、帰ってきた。
擦り傷、切り傷、痣と、体のあちこちを傷だらけにして。無事……とは言い難いけれど、それでも生きて、帰ってきてくれたのだ。
突然の誘拐劇から2日間。”万全のセキュリティを誇る魔法士育成名門校“という信頼に足る肩書きを、たった数時間で失ったナイトレイブンカレッジでは臨時休校が続いた。
通信手段を含め、外部との接触は不可能。駆けつけた教師陣も負傷者の手当に周辺の警戒、生徒への指示出しで手一杯。事態の全容把握にも、現場確認にも手が回らない。そんな、文字通りの混乱の渦中に置き去りにされた者の数、ざっと数百名。
寮での点呼を終え、体育館に急遽集められることとなったオレ達生徒にまず言い渡されたのは、"無期限の休校”と“寮内での自主学習”だった。この学園の皆は、熱砂の国の打楽器に負けない程には賑やかだ。時たまこうして開かれる集会中も、まるで調音されていない楽器の演奏のように、それぞれが声を発しては教師の怒りを買っていたし、オレはそんな自由な空間が嫌いじゃなかった。
遊びたい盛り、年頃なんて揶揄されるオレ達学生にとっての無期限休校というのは本来、終わりの来ないホリデーみたいなものだ。いつもなら歓声の一つや二つ、いや、もしかしなくても体育館中が歓喜に包まれそうなものだったけど、そうはならなかった。
二列で形成された二年A組の一番前からはいつも、舞台上で話す教師の表情がよく見える。いつになく深刻な表情で話す魔法薬学の教師がだんだんと遠く、背景になっていくのを感じた。
たしか今日がレポートの提出日だったなあ。『賢者の島に自生する薬草とその使用用途、効能について』、一万字以上。沢山手伝ってもらって、やっと九千字……というところまでは覚えているけど、その後どうしたんだっけ。
そんな風にどうでも良いことばかりを頭に浮かべて、緊迫した空気に打ちのめされる一年生の後ろ姿をぼうっと見ていたと思う。だって、現実なのにあまりに現実味がなかったのだ。
ふいに、クラスで一番のお調子者として通っている斜め後ろのクラスメイトに肩を小突かれた。続けて「大丈夫か」と、いつもの弾むような調子が失われた声が背にかかる。その言葉がじんわりと意味を持って体に染み込み始めた時、はじめてオレはこれが“悪い夢みたいな現実”なのだと理解したのだった。
集会の後、明日以降の寮運営について各寮の代表と教師陣とで改めて話し合い、寮に戻った頃には辺りはすっかり日が暮れていた。オレは談話室が賑わうこのくらいの時間が好きだったけど、深謀遠慮の精神に則る寮生達は自主学習に勤しんでいるらしい。いつもは感じもしない夜の凍える風が、静まり返った談話室から吹き込んできて素肌に痛かった。
思えば、責任者である学園長まで連れ去られてしまってはこうする他なかっただろうし、生徒達を守るという意味でもこれが一番安全な策だっただろう。
それに、もしこの状態で何事もなかったかのようにカリキュラムを進められても、オレはその期間の授業内容が何一つ頭に入らなかったであろう不名誉な自信がある。
理由はたったひとつ。目の前で傷つけられて、連れ去られて、何もできなかった、何もしてやれなかったジャミルのこと。いつもオレを傷ひとつなく守ってくれているのに、自分にはそれができなかった。情けなくて、悲しくて、悔しくて、無事かどうか心配で。それでも果たすべき使命を全うしようと働く頭と、ぐちゃぐちゃのままの心は二つに引き裂かれていくみたいだった。
「ただいま」
誰に伝えるでもなくそう言って、重たく感じる寮長室の扉を開く。
前の晩、たしかにジャミルはこの部屋にいて、埋まらない罫線を前に唸るオレに自分のレポートを見せてくれた。聞いているだけで落ち着いてしまうその声で「そのまま真似るなよ。文末を変えるなりして上手く誤魔化せ」なんてアドバイスを添えて。
本当は人のレポートを写すなんていけないことだから、そんな誰にも明かせない秘密を真夜中、二人だけで共有することに心が踊った。だってこれって何だか、何だか友達みたいだ。……と思って浮ついた心地でいたのを見破られて、鼻の頭も摘まれたっけ。何気ない、でもそれがすごく幸せな一日の終わりだった。
「ジャミル、ごめんな」
レポートと筆記用具で散らかったままの机に、自分の無力さを責められているような気がして零した言葉。ごめん。ごめんな。何度そう口にしても本人に届くことはないのに、音にしたそれが耳に届くと喉の奥がきゅうと細くなった。
その日は自分の気持ちに折り合いが付けられないまま夜が更けて、整えてくれる人のいなくなった寝床についた。考えがぐるぐると頭を巡っては消え、また生まれては消える。冴えていくばかりの目を瞑って、長い長い夜が明けるのを待ちながら、こう決めた。“明日からはいつものオレでいなくちゃ”と。そうでなきゃ、あの日、命懸けで寮長の座を奪い、そこからお前を引き摺り下ろしたオレには合わせる顔がない。
「おはよう!」
気持ちを切り替えようと、日が昇るとすぐに着替えて寮内を見回って歩いた。明るく振る舞うことで、少しでも皆の不安を和らげられることができたらと思った。動いていた方が気は紛れるし、困っている奴がいたら助けてやるのが寮長の務め。
「昨日は色々あったけどちゃんと眠れたか?」
なんて、どの口が言ってるんだと突っ込まれかねない台詞を振りまいて回っていると、逆にこちらが心配をされることの方が多くて参ってしまった。スカラビアの寮生達は皆、本当に良いやつだ。
いつもより緩く、あちこちに皺の寄ったターバンで出歩くオレを見たら、ジャミルは何と言うだろうか。大体の検討はつくけれど、だからこそ、無事に帰ってきてくれるその日まで、たくさん練習してやろうと思った。信じられないと言いたげなその顔を見せてくれるのなら、今この瞬間も続く不安にも意味があるのだと思える。
さて、未曾有の事態から三日目の今日。通常授業であれば三限にあたる時間だっただろうか。ちょうど各寮の代表が講堂に集まり、今後について話し合いの場を設けていたところだった。突如、真昼の空を引っ掻き回すような轟音が響いて、講堂の左右を埋め尽くさんと並ぶ窓がガタガタ音を立てた。すごい風だ。けれど自然のものではない。敵襲か。それとも。
あらゆる可能性に考えを巡らせながら、マジカルペンを握りしめる。険しい表情を浮かべる面々と視線で会話する様はさながら敵討ちにいく戦士達だった。
音のした運動場へ飛び出たオレ達の目に飛び込んできたのは、忘れもしない仰々しく重量を感じさせる機体と、それから――
「ジャミル!」
何か考えたり思ったりするより先に、口がそう形をつくって音を発し、体が動いていた。ほんの一、二秒のこと。背中に羽でも生えたみたいに軽くなった体で走り込んで、踏み込んで、地面を強く蹴る。芝生の緑や空の青が世界の端に追いやられていき、やがて視界が彼でいっぱいになる。やっと。やっと会えた。
もちろん、オレは妖精でも天使でもなく人間で、生まれた時から羽なんか生えていない。飛び込めば当たり前のように地面に体を打ち付けるだけなのに、そのことに気づけたのは重力に従いジャミルと一緒に倒れ込んだ後だった。
こうして、ナイトレイブンカレッジの長い歴史のひとつに刻まれるであろう大事件は幕を閉じ、学園にも、そしてこのスカラビア寮にもようやく穏やかな夜が訪れた。
いつもなら誰かしら居る談話室の灯りはすっかり消えていて、廊下の左右にずらりと並んだどの扉からも話し声ひとつ聞こえなかった。きっと態度には表さなかっただけで、誰もがこの三日間で疲れ切っていたのだと思う。それは多分、オレも、ジャミルも一緒だった。だから邪魔をしないように、今夜はゆっくり休めるようにと早めに「おやすみ」と声をかけて自分の部屋に戻った……んだけど。
「……」
来てしまった。編入してくる前は相部屋として使われていたらしい、けれど色々あって今はルームメイトのいない一人部屋。ここで過ごしているのは、ジャミルだけだ。
音を立てないようにそうっと扉を閉めて、灯りのない部屋を忍足で歩く。まだこの暗闇に対応できない目で捉えられるものは限られていて、そこにその姿があるかなんてことはここからは確認できない。一歩、また一歩、足裏の感覚で床を確かめ、何となくの現在地を把握する。多分あと二、三歩だ。
屋敷に忍び込む盗人のような、なんだかとても良くないことをしているような気分に、胸の真ん中がざわついて、心臓がばくばく鳴って五月蝿い。ひょっとしたらこれ、身体の外まで聞こえているんじゃないか?
オレがここに居ると知られたら、なんというかアレだ。せっかく格好をつけて(というか我慢して)大人しくひとり寝に行ったのが台無しになってしまう。
「ジャミル、」
音になるかならないかの声でその名を呼ぶ。見ると、ベッドにはちゃんとジャミルが居て、小さな小さな寝息を立てて眠っていた。
ああ、よかった。ちゃんと、居る。ジャミルがここに居る。
その事実だけで、固い結び目が解けるみたいに体から力が抜けていく気がした。
夜というのは、どうしてこんなに人を不安な気持ちにさせるのだろう。子どもの頃からよく考えていたことだけど、その答えは今夜も出そうになくて遂にはここまで来てしまった。昼にあれだけジャミルの顔を見て、会話を交わして、これが夢じゃないと何度も確かめた筈だったのに。それすら夢だったらと考えたら、怖くなって眠れなかった。
「夢、じゃなく、て、よかった」
二人きりの部屋に零した独り言が小さく震える。今度こそ夢じゃないと実感できた途端に、視界が滲み出して、目の淵にたまった水が溢れ落ちるのにそう時間はかからなかった。
ジャミルは本当によく眠っていて、目を瞑ったままだ。何も聞いていないし何も言わない。けれど、それで良かった。こんな顔を見られたら、きっとまた困らせてしまう。それはいけない。
もう少しだけ、ここに居たいと思ってしまったオレは何となく、散らばっていたクッションをベッドのすぐ側に積みあげてみる。膝をついて座ると思った通り、ベッドに対してちょうど良い高さになった。そっと、そっと。衣擦れの音ひとつ起こさないように気をつけながら、夜に溶けた紺色のシーツに両腕を預け、その上に伏せて。首を傾けると、大好きなその横顔がすぐ近くにある。
「ふふ」
下瞼をまだ濡らしたままなのに、今度はなんだか嬉しくなって、思わずちいさく息を漏らしてしまった。微かに差し込む月明かりを吸い込むようなダークブラウンの髪、きゅっと結ばれた唇、チャコールグレーの瞳を覆い隠す薄い瞼と、長くしなやかな曲線を描く睫毛。その一つひとつが愛おしくて、大切で、どうしようもなく大好きだなあと思う。
お前はいつも、こんな景色を見てたんだな。
子どもの頃、体調を崩したり毒を盛られて寝込むことの多かったオレの側に、ジャミルはいつもこうして居てくれた。横にならないと疲れなんて取れないだろうに。それでも休むことなく、オレの目が覚めるまで手を握って、ずっと側に居てくれた。立場上、オレがそうする事は許されなかったけれど、今この瞬間を咎める者は誰もいない。ずっとこうしたかった。だからすごく、嬉しい。
「おやすみ」
眠っているやつにかける言葉じゃないけど。二回目のおやすみを手渡して、シーツに投げ出されたままの手に自分の手をそっと重ねる。いつもより少しだけかさついている手の甲をやさしく包むように握ると、すらりと伸びた人差し指がぴくと動いた。起こしてしまったかと冷や汗をかいた一瞬は杞憂に終わり、すぐに一定のリズムで聞こえていた呼吸音が続く。
本当はぎゅってできる"恋人繋ぎ"?ってやつがしたかったけど、寝ている相手に断りなくそれをする勇気はオレにはなかった。
――ああ、顔を見たらちゃんと部屋に戻ろうって決めていたのになあ。
部屋に忍び込んだこと・寝顔を盗み見たこと・姿勢が悪くなる寝方をすること・そして、勝手に手を繋いでいること。明日たくさん叱ってくれていいから、今晩だけは許してほしい。
――
これは、どういう状況だ?
左脇腹の辺りに感じる人の気配。自分のものではない呼吸音。包み込まれるように感じる左手の温もり。まあ姿を視認せずとも、その正体を俺はとうの昔から知っているけれど。
寝起きの体というのはどうしてこうも重いのか。気怠さに沈んだ体を起こすと、すうすうと微かに音を立てて丸まった背と一緒に上下するパールグレーが目に入る。やっぱりな、なんて思いながら吐いた溜息ついでに、うっすら口角が上がってしまうのが自分でもわかった。
"お前の顔を見て、ほっとする日がくるなんて"
昼も口にした言葉を体の奥深いところで反芻する。”らしくない“に生み出された歯痒さに、こめかみの辺りの髪をくしゃと掻いた。風呂上がりに乾かしきる体力のなかった髪は、まだ微かに水を含んでいた。
「おまえなあ、」
カリムのことだ。俺がちゃんとここに居るのか確かめに来たに違いない。こんなところで眠りこけていることについては、顔を見て安心したら眠くなったとか、まあそんなところだろう。いつもなら部屋に誰か入って来ようものなら、気配だけで目を覚ますというのにこの様だ。我ながら相当疲れている。
そう。疲れているのだから、このまま瞼を閉じて、これをなかったことにしても良かった。が、さすがに主人を座らせたまま寝かせておくのは、どうしたってばつが悪い。すっかり熱をもった左手を滑らせて、繋がれていたものを解く。ほんの一瞬、カリムが少し苦しげな表情をした気がしたけれど、きっと考えすぎで気のせいだ。
寝ている人間というのは、すごく重い。それは子どもの頃からよく知っていた。遊び疲れて眠ってしまったカリムをおぶって寝室まで運んだ後、俺も疲れてそのまま眠ってしまうなんてことが何度もあったからだ。今夜だってそれと大して変わらない。あえて変わったことを挙げるとするなら、俺もお前もすっかり大人になって、不器用になったことくらいだろうか。
すぐ隣に寝かせてやった、二日ぶりの横顔に投げかける。
「救えないよ、ほんと。お前も俺も」
今度はさっきよりも強く、指と指を絡めるように握って目を瞑る。
俺より少しだけ小さくて、柔らかな、あたたかい手。それは、ごつごつとした骨の合間に血管の浮き出る男性の手とも、細く長くしなやかに指の伸びる女性の手とも違う。けれど、握り慣れた落ちつく手だった。
“ただいま。お前も無事でよかったよ”
決して口にはしない“これ”が、指先からお前に伝われば良いのになんて思った。
「んふ」
ふと見ると、幼馴染の唇が柔らかく綻んでいる。
「……お前いつから」
「へへ、さっき、ジャミルが隣に寝かせてくれた時」
開ききっていない瞼でふにゃふにゃと笑うカリム。起きているならそう言え、というのも変なので飲み込んだけれど、独り言を聞かれた俺は複雑だ。
「オレはさ、おまえにすごく、救われてる」
ほら、すぐにこれだ。
「居てくれるだけでいいって、そう思えるくらいに。だから」
うっすらと浮き出た喉仏が小さく動いて、ごくりと唾を飲む音が聞こえる。
「すごく……怖かったんだ。お前にもしものことがあったらって、そう思ったらオレ、どうしようもなく怖かった。連れて行かれるのがオレだったらどんなに良かったろうって何度も思った」
起きているとは知らずに繋いだその手に力が篭る。どこにも行かないでくれと言わんばかりの強さで握られるものだから、応えるように同じ力で返してやる。
「……それが、“置いていかれる側”の気持ちだ。やっと分かったか」
「オレ、もっと強くなるよ。もしお前がどんな奴に連れて行かれても、助けに行けるくらい、強く」
その眼差しと言葉は、自分の非力さを恨んだいつかの誰かを思い起こさせるものだった。
「それは楽しみだな。まあ次があったら、今度はもっと早く帰ってきてやるさ」
「ふふ、ジャミルは頼もしいな」
「当たり前だ」
寝物語の終わりを告げるように、手持ち無沙汰の右手で額に散るパールグレイをやさしく掻き上げ、口づけを落とすと、カリムはくふくふと笑って瞼を閉じた。三日月を形づくり、緩んだままの唇にも触れてやろうかと思ったけれど、今夜はこのまま繋いだ手から融け合うように微睡んでいたいと、そう思った。