【飴色】 カフェオレ 食に拘りがあるわけではないけれど、コーヒーぐらいはおいしく、と言うよりは、よい香りで弱い朝の目覚めもマシになると買ったものの、私にはハードルが高過ぎた。ぼうっとしている間に時間は過ぎ、結局ばたばたと慌ただしい朝のひと時だ。まあ、何となく、三日坊主で終わるだろうと、察しが付かなかったわけでもない。ただ、その後が、想定外だった。
「傑、そろそろ起きろよ。遅刻する」
昇ったばかりの弱い朝日を瞼に感じつつ、悟の張りのある声を夢現に聞いている内に、ぬくぬくとした極楽から、冷気に体を包まれた。掛布団を剥がされたらしい。
「さむぅ」
「傑、朝」
「ん」
「起きろよ、ねぼすけ」
「ぅん」
生返事をしながら寒さゆえにもぞりと動くと、再度、起きろよと言い置いて賑やかな気配が遠ざかる。かわりに微かに豆を挽く音に続いて、香ばしい香りが漂ってくる。
そう、一瞬で放置されたコーヒーメーカーは、私の代わりに悟が使い、私のためのコーヒーを淹れてくれるのだ。驚きつつ用意されたマグカップに礼を言いながら口をつけること数日。そうなれば、一番初めに起こされるタイミングで起床出来るのだから、不思議だ。
何でもそつなくこなす悟の手付きはしなやかで無駄がなく、いつまででも眺めていたくなる。ましてそれが、自分のために淹れてくれるコーヒーのためなら尚のこと。キッチンで立ち働く姿を、起きがけのぼさぼさ頭のまま熱心に見ているのは嫌がられるとわかっていた。見るとはなしに見ている、そんな様子を装いながら、ぼんやりとソファに腰掛けて眺めるのが、あたたかくて大切な時間となっていった。
とは言え互いにありがたくも嬉しくもないことに、慌ただしい身の上で、毎朝顔を合わせられるとは限らない。悟がいない朝は、香ばしい匂いに包まれることなく、出勤することになる。代わりと言っては何だが、夕食後の一杯を飲んだところで、眠れなくなる心配もないので、片付け後に豆を挽けば、物珍しそうに悟が覗きにきた。
「夜にコーヒー飲んで、眠れるの」
「このぐらいなら大丈夫だよ。悟も飲むかい」
「飲む」
予想外の返事に、実はブラックも飲めたのかと思いながら、悟が用意してくれた色違いのマグカップに注いで、そっと並べて机に置いた。冷えた手先を温めるように、両手で包み込んで持ったマグカップを、熱いからとしばらく口元には運ばず、香りだけを楽しんでいた悟が、そっと口をつけると、一瞬苦そうに顔を顰めた。砂糖ひと欠けでは足りなかったらしい。それでも嬉しそうに微笑んだ表情は本物で、ふわりと牡丹が綻ぶようだ。
「悟が淹れたコーヒー、旨い」
「ありがとう。それじゃあ、また、明日も淹れようか」
「おう」
本当は苦いんでしょ、無理しなくてもいいよ。そう言おうと思ったのに、あまりに綺麗に笑ってくれるから、誘ってしまった。
「はい、悟の分」
そう言って悟の目の前に置いたマグカップの中は、琥珀色ではない。
「あれ」
「やっぱり寝る前だしね、カフェオレにしたよ」
甘みの強い牛乳で淹れたカフェオレは、砂糖を入れなくてもとろりと甘くて、心にも優しい味がする。
「んっ。こっちの方が、おいしい」
「そう、よかった」
嬉しくなってつい笑みが零れると、でも、と目の前で僅かに唇を尖らせた悟が続けた。あまりにかわいくて、諫める前に、そのぷくりと弾力性がありそうな唇を、指先でそっと突いてしまった。ぷにゅりと見た目通り、可愛らしい弾力が人差し指の先端から、全身に回るようだ。一瞬驚いた様子で肩を跳ねさせた悟は、何事もなかったかのようにその口で強請られた。
「俺、傑と一緒のが、飲みたかったな」
「それじゃ、次があったら、私もカフェオレにするよ」
そんなかわいい言い方で強請られれば、ブラックからカフェオレに飲みたいものは一瞬でかわる。
「また、明日も淹れてよ」
「いいけど、明日は夜、任務が入ってなかったかい」
「深夜になる前には終わるよ」
「ふふ、それじゃ帰ったら淹れるから楽しみにね」
そして、些細なカフェオレの約束は、ふたりが揃う日は恒例の約束となる。その約束は私のためでもあるのだろう。他愛もないけれど、それでも、多少の枷にはなるだろうと。いや、悟のことだ、純粋に楽しい時間を過ごすためなのかもしれない。
ソファに並んで他愛もない話をしたり、テレビを観たりしながら、時折触れ合う指先だったり、肩だったり。交わり、絡んで、解けて、結び直す視線だったり。やわらかく繊細なぬくもりは、それは確かに、悟が隣にいると感じられる証であった。
それだけで満ち足りた想いなのに、触れた指が絡まり、当たった肩がやがて寄り掛かり、その肩に腕を回すようになるかもしれない。それは、私が先か、悟が先か、心地よい時間より強く、気持ちより欲に近い想いにつられて、その内、触れ合う先が唇に変わるまでは、揺蕩うように笑い合って楽しい夜のひとときを過ごしていこう。きっと、その先にも楽しい時間が待っているだろうけれど、今はまだ、次の一歩に踏み出せないでいる臆病者だから、カフェオレ片手に笑い合おう。