正と善「神ちゃんってさ、お釣り多く貰ったときに正直に言うタイプ?」
突然の質問に神在月は正気に戻った。暖房の低い唸りが部屋に響く。半裸の神在月を思ってクワバラがつけてくれた暖房のおかげで、腹を冷やす心配はなさそうだった。
爆音の吸対の人が帰った部屋は、急に静かに思えた。神在月はずり落ちたカーテンをたくし上げる。
「それは……言いますよ。気づいたら」
コンビニで自分の手のひらに乗った硬貨を想像する。本来返ってくるべき額より多いのなら申し出るだろう。そのときに妙な遠慮と善行の意識が口調を気持ち悪くさせたとしても、言わないという選択肢はなかった。
「じゃあもし、クラスメイトのクワさんが」
「クワさんが僕のクラスメイト?」
「もしそうだとしたら。そのクワさんが教室の花瓶を割ってしまったとする。教室には他に誰もいなくて、たまたま通りかかった神ちゃんだけが見ていたら」
「え、さっきからなんですか」
「神ちゃんは先生に密告する?」
「それは、わからないですけど。なんなんですかさっきから」
元忍者の編集者は、じっと探るように神在月を見てくる。神在月は自分が被告人席に座らされたように思えた。だが、その背後に膝を抱えた少年がいて、その姿を必死に隠しているような心境だった。
「神ちゃんの正義ってどこにあるんかなって」
「どこって。ここに無かったら無いですね?」
「訳ありのアシくんを庇って、神ちゃんは罪悪感はないんか?」
神在月でさえ不確かな事実を、クワバラは見抜いているようだった。神在月の視線がつい辻斬りのファイルに向けられる。
「……なんのことだか」
下手な嘘は白々しさを通り越していく。けれどクワバラは面白そうに笑みを浮かべた。
「つまり神ちゃんは、正義よりも善を選ぶんやな」
「その二つって違うんですかね」
「神ちゃんはさっきの爆音君みたいに、正義を追い求めるタイプじゃないんやろ」
「正しさなんて日々変わっていくミキよ、ははっ……」
神在月は乾いた笑いを真似てみるも、クワバラはつられて笑ってはくれなかった。神在月はクワバラから視線を外して首筋を撫でる。
「俺は少しでも、ましなほうを選んでるだけで」
最悪の選択肢も、最良の選択肢も、どちらも神在月にはわからなかった。神在月はただ彼が、迷子のような眼をした彼が、少しでもましな方へ行けるように手を差し伸べたかった。
雨が降る寒い夜よりも、この部屋の方が少しはましだと思うから。
「彼がこの部屋に、最初に俺の部屋に来てくれたのは偶然かもしれない。たぶん本当にただの偶然で、でもその偶然は、俺にとって大切なことなんです。それが俺と彼のつながりだから」
その偶然の、勘違いからのアシスタント業を、そのあとも続けてくれた彼を、神在月は放っておけなかった。
彼の過去の凶行を、その背景にある彼の悲劇を、神在月は直接は知らない。神在月が知っているのは、抜き身の錆びた刃のような警戒心と、最後まで見離さない不器用な真面目さの彼だ。そしてその彼があの夜に見せた焦燥と罪悪感に、どうにかして手を差し伸べたかった。
「こんなことしてる場合じゃない……」
神在月は立ち上がった。その拍子にカーテンが足元に落ちる。
「いま辻田さんのこと探さなかったら後悔する」
「神ちゃんネームは?」
「僕が描けなかったとき用に載せる読み切りが準備されてるんですよね」
「堂々と言いなや。あと行くなら服着てな」
神在月は部屋に散らばっている服を拾い集めた。それをどうにか身につけて、錠剤をありったけ口へと放り込む。
正解なんて無いのかもしれない。けれど、じっとしてはいられない。今もどこかで彼が雨に打たれているのなら、その手を引いて屋根のある場所まで二人で逃げればいい。
「ほな、気張って走るんやで」
セリヌンティウスが待ってるもんな、とクワバラは神在月の背を叩いた。神在月はつんのめりながら玄関を出る。
夜の湿った空気に微かに土の匂いが混じっていた。神在月は肺いっぱいに空気を吸い込む。運動不足で貧弱な脚でがむしゃらにアスファルトを蹴った。
君のもとへ走るために俺はダンピールとして生まれてきたのかもしれない。弱いけれど、足も遅いけれど、絶対に君を見つけるから。
「辻田さん!」