はなくたし 薄暗くて、酒と煙草のにおいがして、うるさいほどに重低音が響いて、甲高いギターが鳴いた。めちゃくちゃに詰め込まれたような人の熱気に浮かされて辺りを見回したとき、ふと、金色の光に目が惹かれた。
その男は、ずいぶんと静かな様子で立っていた。煙草を吸うでもなく、酒を飲むでもなく。気怠げにカウンターに凭れてどこを見るでもなく、冷たい冬のような瞳が瞬きで長い睫毛に時折隠れる。少し俯いた拍子に揺れたドロップ型のピアスがよく似合っていた。
周囲と馴染まないその姿に惹かれて、人をかき分けてそばに寄ると、彼は俺の顔を見て少しだけ首をかしげた。
「ねえ、一人? なにしてるの」
ステージに上がっているバンドが鳴らす音に負けないように声を張り上げながら、男の耳元に口を寄せる。
「……キッドに呼ばれたから来ただけ」
男は俺から距離を取るように肩を引いて、けれど律儀に応えてくれた。
「キッドさんと知り合い?」
「まあ、そうかな」
「はは、音楽興味ない? つまんなさそうだね」
「このバンドは、興味ない」
「はっきり言うじゃん。でも俺も。ねえ、名前なんていうの?」
俺がそう聞くと、男は形のいい眉を片方上げて、訝しげにこちらを見た。
「……おれは今ナンパされてんのか?」
「そうかもね。ねえ、名前教えてよ」
「……ゾロ」
少し迷ったような表情を浮かべた後、男、ゾロはあたりを見回した。けれど何か求めていたものは見えなかったのか、諦めたように俺に名前を教えてくれた。
「ゾロか。よろしくね。ねえ、酒でも飲まない? おごるよ」
言いながらカウンターのバイトの女の子にビールを二つ頼むと、ゾロは「あー、」と困ったような声を上げた。
「酒苦手だった?」
「ん、いや、好き」
短く応えたゾロの目は俺の手のビールに向いている。
「一人で飲むなって言われてて」
「なんだそれ。じゃあ、俺と一緒ならいいんじゃない?」
「そういう話でもねェんだが……」
「ほら、乾杯。ぬるくなっちまうよ」
ゾロの手に押しつけたプラカップは、結局その指に掴まれて少しだけ歪む。飲みなよ、と促すように俺がコップに口をつけると、ゾロも「まあいいか」と口をつけた。
「っ、は、……あー、うま」
喉が渇いていたのか、よほど酒が好きなのか、ゾロは一息でカップの中身をほとんど飲み干した。はあ、と漏れる吐息が妙に色っぽくて、俺の喉が鳴る。
「おかわりは?」
「いいのか?」
「いいよ。ゾロ、可愛いから」
そう言ってもう一杯ビールを与えると、ゾロは「ありがとう」と人なつこい笑みを浮かべた。また俺の喉が鳴る。
「……ゾロ、そのピアスいいね。似合ってる」
「んぁ? ああ、……だろ」
二口ほどビールを飲んだあと、ゾロにそう言うと、彼は目を細めて笑った。プラカップについていた水滴で濡れたゾロの指先が、三連のピアスを揺らす。精悍といっていい整った顔立ちに、揺れるピアスのアンバランスさ。揺さぶったらさぞそそる揺れ方をするんだろう。下腹にクる低くていい声が快感で揺れて喘ぐ時、どんな変化をするのかが知りたくなった。
「もっと近くで見せてよ」
そう言いながらゾロの腰に手を伸ばす。
「それに、つまんないなら、俺と一緒に……」
腰を抱いて耳元でそう囁いた瞬間、俺の喉が強い力で絞められた。
「ッ、——っ?!」
服の襟首を掴まれて後ろに引かれたんだと気がついたときには、ゾロと俺の距離が離れていた。
「おい、ロロノア、お前まさかビール飲んだんじゃねェだろうな」
ぱっと首を絞める力が緩んだのと同時に、俺の横を大きな体がすり抜けていく。
見れば目が覚めるような赤髪と長い金髪が、一瞬客席に投げられたステージライトに照らされた。
「げ、キッド」
げほげほ咳き込む俺を無視して、ゾロはその二人に視線を向ける。
「ロロノアはまだ未成年だから酒はやるなとバイトにも言ってたんだがな……」
「おれが買ったんじゃないもん」
「おいてめェこういうときだけかわいこぶるんじゃねェよ。うちの店営業停止にする気か」
「ファファファ、キッドお前ロロノアのことを可愛いと思ってるのか」
「キラーも混ぜっ返すんじゃねェ。ったく、クソガキめ」
ゾロはこの店のオーナーであるキッドさんにビールのカップを没収され、つまらなさそうな顔をしながらキラーさんにウーロン茶を渡されていた。
「つーわけだから……、お前こいつにちょっかいかけるのやめときな」
じろりとキッドさんの目が俺を射貫く。
「あとな、こいつの彼氏、死ぬほど心狭ェんだわ。殺されたくなかったら逃げとけ。もう少しで来るぞ」
「ロー、もう来るのか?」
「ああ、店閉めるってよ。さっき廊下で会った」
そんな会話をゾロとキッドさんがしている間に、俺の背後に影が立った。
俺をすり抜けて、ゾロの視線が背後に向く。その瞬間、ゾロの顔がぱっと明るくなって蕩けるような笑みが浮かんだ。
「ロー!」
「ゾロ屋」
す、と俺の脇をすり抜けた男からかすかに薄荷のような匂いがした。
「おい、トラファルガー、てめェの恋人もうちょいちゃんと躾けとけ。また酒飲みやがったぞ」
「また? 駄目だろ、ゾロ屋」
黒い服を着た男は黒いマスクをしていて、ライブハウスの暗がりに溶けてしまいそうだった。
「いや、自分で買ったんじゃないし……」
「……へェ? 誰かにもらったのか? そりゃ優しくていい人もいたもんだな」
すり、と黒尽くめの男の指がゾロの頬を撫でた。その指にタトゥーが刻まれているのに気がつく。
「誰にもらった?」
黒い男がそう囁くのを聞いて、キラーさんが「ああ」と諦めたような顔をして、キッドさんが「だから速く逃げろって言ったのに」と呟いた。
ゾロがあの人、と俺を指さし、黒い男の目が俺に向く。金色の瞳が、どろりとした熱を放って、一瞬ぎらりと光ったように見えた。その色があまりに悍ましくて、俺は「ひっ」と息をのむ。
そして、俺は気がついたらライブハウスの外にいた。暗い路地裏でバクバクと跳ねる心臓を押さえて、逃げるように明るい繁華街の中へと駆け出す。
あの目は、駄目だ。あの男は、駄目だ。下手したら殺される。そんな確信が後から後から湧き上がってきて、俺は震えながらゾロのことを忘れることにした。
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「酒飲みたい時はおれに言えって言っただろう?」
「だって、ローがいなかったから」
「うーん、可愛い。可愛いが、我慢くらい出来るようにならなきゃな」
ちゅ、とローの唇がゾロの頬に触れる。カウンタースツールに腰掛けたローの膝の上に乗ったゾロは、さっきまでのつまらなさそうな顔と打って変わって機嫌良さそうにローの黒髪を指先で弄っていた。
「おいトラファルガー、まず未成年に酒を飲ませるな」
「飲ませはしてねェよ。あと一年我慢だもんな?」
「は? じゃあどうしてんだ」
「こうしてる」
キッドの問いかけにローはカウンターに置かれていたウィスキーを取り一口飲んだ。
そして、その唇でゾロにキスをする。唇と唇の隙間から赤い舌がのぞいて、それが二人の舌であるとわかると、キッドはげんなりとした顔を隠さなかった。
「ん……ッ、は…」
ちゅぱ、と音を立てて唇を離すと、ゾロは満足げに自分の唇を舌で舐めた。
「酒は飲ませてない」
「一休さんかてめェは」
キッドの悪態にローは楽しそうに笑った。
「こういう感じで酒の味もおれとのキスで覚えちまったからなあ……」
「ちなみにそのときのロロノアの年齢聞いてもいいか?」
「あっ、おい、やめろキラー! 怖い回答が来たらどうすんだ!」
「知りたいのか? 内緒だ」
「それはそれでムカつくし、本当にヤバそうで怖ェんだが……。とりあえず、おれらの店でいちゃつくのやめてもらっていいか?」
「諦めろ、キッド」
「いや、一応言っておかなきゃおっぱじめそうで」
「安心しろ、ユースタス屋。こんなとこでヤッたりしねェよ。ゾロ屋の可愛い顔は誰にも見せねェと決めてんだ」
ローの言葉にあきれたような、諦めたような表情を浮かべたキッドはゾロを見てため息をつく。
「おい、ロロノア。お前本当にトラファルガーの変態っぷりに耐えられなくなったら相談しろよ。なんとかして逃がしてやるから」
その言葉にゾロはぱち、と瞬きをして、それから子供のように笑った。
「なんだよそれ。大丈夫だよ、ローはおれに変なことしないし」
返答を聞いて、キッドとキラーは思わず天井を仰いだ。配管が走るほこりっぽいそこに、バンドががなり立てる音が反響していた。
左耳のピアス。それに、……以前ローと飲んだとき、珍しく酔ったローがうれしそうに、自慢げにゾロの恥ずかしいところに墨を入れた、傷をつけたと言っていたのを二人とも覚えていた。
「認知が歪んでる……」
「歪まされたんだろうな……」
こっそりそう言い合うキッドとキラーの前で、ゾロはもう一度酒の味のキスをローにねだっていた。