EGO=system(ふぇす用抜粋)あの日。
あのとき。
あの瞬間。
ぼくの世界は、その色を変えた。
「僕たちは共犯だ。いっしょに、世界を欺こう」
───────────────
──────。
遠くで、鳥の鳴く声が聞こえる。
これは夢か現かと、ぼんやりとやわらかい混乱をきたしながら、浅い眠りが朝霧が晴れるようにゆるやかに薄れていく。
ゆっくりと、僕は目を開けた。窓の外はまだ薄暗い。アラームの鳴る5分前の時計を確認して、もう少しで鳴るはずのアラームを解除する。
さあ、いつも通り、朝のルーチンをこなそう。枕元に用意してある薬をいの一番に手に取って、口に入れる。
やらなければならないこと。
僕が、これから先も僕であり続けるために。叶えたい僕の夢を、変わらず持ち続けていられるために。
今日もまた、新しい1日が始まる。
僕のルーチンは、朝のランニングから始まる。
ランニングといっても、自宅の敷地内を周回するだけだから、そう大した準備は要らない。簡単な飲み物とスマホ、あとは汗拭き用のタオル、そのくらいのものだ。それも昨晩のうちにひととおり揃えてある。
両親はまだ休んでいる時間だから、できるだけ物音を立てないようにして庭に出る。靴紐をしっかりと締めて大きく息を吸うと、まだ冷たい朝の空気が鼻を、喉を、気管支を、肺をゆっくりと満たしていく。
(さて、)
いつも通り。
何も変わらない。
軽く体を動かしながら、スマホとイヤホンを手に取り身につけた。時間を効率的に使うために、ニュース音声を聞きながら走ることにしている。
ぷつ、と弾けるように耳の奥がゆれたあと、明るい音楽が流れ出した。
『───見なおそう!』
『すべての人にやさしい社会を、オメガ・フレンドリー! わたしたちは、この活動を支援しています』
(……………)
流れてきたコマーシャルに、ぎり、と奥歯を噛み締める。
(こんな時にまで、突きつけられたくなどないのに)
耳に残る“オメガ”という響きを振り払うように───柔軟もそこそこに、思い切り脚を蹴り出した。
この世界は、残酷だ。
かつて僕は、その事実を、ごく表層でのみ捉えていた。弱肉強食の言葉どおり、生態系のヒエラルキーは揺らがない。食われるものは、自分を食うものを食い返すことなどできない。窮鼠は猫を噛むかもしれないが、ただそれだけだ。絶対的に優位なものには、劣った存在は太刀打ちできない───動物の世界というのはそういうものだ。人間の感情として残酷と感じるにせよ、それは仕方のないことだ。そう納得していた。
それはそれ。
図鑑の解説、ドキュメンタリーの向こう側。
どこか隔絶した世界での理であって、科学という圧倒的な力を得た人間は、ほとんど一抜けしたようなものだと、深く考えるというよりも漠然と、そういうものとして納得していた。
それはほとんど事実ではあるけれども、事実と言い切るのはあまりにも傲慢だったと今なら思う。
自分が、そのシステムの中に確かに組み込まれているのだという実感など、かけらも持ちあわせてはいなかったのだ。どれだけ研鑽を積んでいたつもりでも、所詮視野の狭い子供の万能感、実に世間知らずで愚かしい話だ。
ほんの少し前まで、僕は、努力には相応の成果が必ずついてくるものだと無邪気に思っていた。───いや、今でも、完全にその考えを捨て去ったわけではない。
けれど、人間だって動物なのだ。
人間の中にもヒエラルキーがある。
覆すことのできない、絶対的な弱肉強食の格差。無知で傲慢だった僕は、まさか自分が“喰われる方”の人間だと突きつけられる日が来るなんて、あのときまで思ってもいなかった。
僕は、Ωだ。
僕が診断を受けたのは、今から2年前───中学2年のときだった。シンカリオンでの出撃はカイレンとの戦い以来なく、数ヶ月に一度どこかの支部で運転士の皆と顔を合わせる機会はあるものの、その頻度はめっきりと減っている。全員が揃わないこともしばしばあった。けれど、それは僕にとっては不幸中の幸いともいえるタイミングだった。
ルーチンのランニングとシャワーを終えて部屋に戻ると、ちょうどのタイミングで控えめな振動音がして、端末がメッセージの着信を告げる。その送り主の名前を確認して、思わず口元がゆるんだ。
『おはよう』
『そろそろ出るのかな、気をつけてね』
(君はまだ、起きなくてもいい時間だろ)
今日は久しぶりの召集日だ。彼はいつも、その当日にこうして短いメッセージを寄越す。
以前ほど無邪気に皆と会うのを楽しみにはできないが、それでも、彼───シマカゼと会って話をするのは楽しみだった。
─────────
自分が他人より優れているだなんて、思ったことはなかった。今までずっと、一度も。
がつがつと張り合って優位を確認するようなことは、どうにも苦手だ。
ひとより一歩引いているのが性に合っているくらいだから、他人を蹴落としてまで頂点でいたいなんて気持ちはむしろ全然なくて───本気で取り組んでいた空手さえ、勝ち抜いていって優勝を目指す目標はあるし、結果的に人を負かしていったことで僕の手には優勝という称号が残っているのだけど、それでも、僕の中では誰かを負かそうというよりも、昨日より今日、今日より明日、もっと自分が上手くなっていたいという気持ちのほうが、モチベーションとしてはよほど上だった。
当然、道場に通う皆は、弟のナガラでさえ、誰か自分なりに考えて設定したライバルに勝つことを目標の軸にしていたのだから、そういう意味では、僕は普通ではなかったのかもしれない。
だからといって、あの日のことは、まだ飲み込みきれないでいる。
『え』
『僕が………α、ですか………?』
人の上に立つより縁の下の力持ちの方が性に合っているというのに、宝の持ち腐れもいいとこだ。
蹴落として、出し抜いて、欲しいものをもぎ取るような我の強さを自分が持っているとは思えなかった。
せめてそういったものが必要であるような将来の夢を抱いているのなら、まだ活かしようもあったろうに───と、ふと、ひとりの顔が浮かぶ。
凛として、強く、しっかりと遠い未来を見つめるその顔。
───ヤマカサ。君なら、喜ばしいことなんだろうか。
けれど、獰猛に食い散らすようにぎらついた君の顔は全然想像がつかなかった───どころか、なんだか、想像したいとも思えなかった。