ミオリネ・レンブランの冒険2 園芸部のロッカーが入っているクラブ棟へ向かうため、格技場の前を通りかかったときだった。格技場と体育館の間の路地から、袴姿の男子生徒が歩いてくるのが見えた。シャディクだ。
ついさっきまで彼の話をしていたせいか、心臓がとくんと音を立てる。
向かう方向は同じなわけだから、あと数メートル進めば否応なしに合流する。この状況で無視をするのも不自然だ。よし、ここは『先んずれば人を制す』でいこう。
「シャディク」
「やあ、ミオリネ」
声をかけたわたしに、シャディクがにこっと笑いかける。
ええっと、何を話そう。とりあえずシャディクの前まで進んで足を止める。
「弓道部の練習?」
弓道場は格技場の奥に位置している。「あ、でも、金曜日は弓道部、お休みよね」
「最近予備校やバイトで引けてなかったから、顧問に頼んで一時間だけ道場を開けてもらったんだ。ミオリネも園芸部終わったところ?」
「う、うん……」
袴姿のシャディクは、長い髪を頭の後ろでおだんごにまとめていて、いつもと雰囲気が違う。二月だっていうのに首筋や鎖骨にうっすら汗をかいているようで、初めて袴姿を見たわけでもないのに、ついドギマギしてしまう。
と、何かに気づいたかのように、シャディクが目を瞬かせた。
「ミオリネ」
長身をかがめるようにして、シャディクがわたしをのぞき込む。シャディクの手がわたしの頬に触れる。まるで、キスをする直前のようなしぐさ。
思わず目をつぶる。心臓が跳ねる。シャディクの指がわたしの頬をなぞって――
「取れたよ」
「え……?」
はっとして目を開けると、微笑むシャディクの顔があった。
「ほっぺに土がついていた」
「あ……」
頬に血がのぼる。――キスされちゃうかと思った……なんて、シャディクに知られたくない。わたしはシャディクからぷいっと顔を背けた。
「わざわざあんたに取ってもらわなくても、言ってくれたら自分で取れたわ」
「それは申し訳ないことをしたね」
くすくす笑いながら、
「ひょっとしてキスされるとでも思った?」
からかうような口調で訊ねてくる。
「はあ?」
見透かされて、ますます頬が熱くなる。できるだけ平静を装って、
「ばっかじゃないの」
「ごめんごめん。お詫びにこちらのコンテナボックスはわたくしがクラブ棟までお持ちしましょう」
芝居がかった口調でそう言うと、シャディクはわたしの手からひょいとコンテナボックスを取り上げた。わたしが両手で抱えていたコンテナボックスを片手で持ち、すたすたと歩き出す。
追いかけることも待ってと言うこともできずに、わたしはシャディクの後ろ姿を見つめた。一時停止のボタンを押されたみたいに足が動かない。シャディクの指が触れた右ほっぺが火傷したみたいにひりひりする。彼から目が離せない。
すらりとした長身。太い首。広い肩幅。大きな背中。がっしりした身体つき。
ブラウニーの箱を抱えてはにかんでいた十歳の男の子は、わたしの思い出の中よりずっと逞しい十七歳の男の子になっていた。
「ミオリネ」
振り返ったシャディクの声が、わたしにかけられた一時停止のボタンを解除する。ほらごらん、あれが一番星だよ……と語りかけるような声で、シャディクが言葉を継ぐ。
「一緒に帰ろうか」
十数分後、部活の後片付けを終え、帰り支度を整えたわたし達は並んで帰路についていた。
いかにもスレッタが目を輝かせそうなシチュエーションだけど、部活の終わる時間がたまたま重なっただけだし。帰る方向が同じなだけだし。ふたり一緒に帰る意味なんてそれ以上でもそれ以下でもないわ。
ちらり、わたしは隣を歩くシャディクを横目で見る。
ブレザーの上にグレンチェックのマフラーを巻いただけの格好。いくらブレザーの下にセーターを着ているからって、いくら身体を鍛えているからって、寒くないのかしら。男の子ってふしぎ。
(ちなみに、わたしは制服の上にショート丈のPコートとミストブルーのマフラーという出で立ちだ。ブレザーの下にカーディガンも着ている)
おだんごにまとめていた髪も今はほどいて後ろに流している。さっきまでおだんごにしていたとは思えないくらい毛先までサラサラつやつやなのがちょっぴり腹立たしい。
(っていうか許せないんですけど。結った跡すら残っていないってどういうことなのよ。こっちはヘアミストとかブラッシングとか短時間で何とかしなきゃって、てんてこ舞いだったのに!)
「コンビニに寄ってもいいかい?」
「うん。何買うの?」
「消しゴムとルーズリーフ」
帰り道の途中にあるコンビニに立ち寄る。
時期が時期だから幟にもファサード看板にも浮かれた書体の『ハッピーバレンタインデー』の文字が踊っている。店内に入ってすぐの一番目につく売り場もチョコレート、チョコレート、チョコレート。赤、白、ピンクのキュートなものから黒や深緑といったシックなものまで、パッケージも様々だ。
レジで支払いをするシャディクを待つあいだ、わたしはカラフルで華やかで甘ったるいチョコレートの棚に目を奪われていた。
だから店を出て数メートル進んだときも、わたしは少しばかりぼんやりしていた。ぼんやりしていたから油断した。
「ね、シャディク」
「ん?」
「あんたも、バレンタインのチョコレートを欲しいって思うの?」
つぶやくように言ってから、はっとする。慌ててシャディクを見上げる。
「今の、忘れて! 忘れなさい!」
どうしようかなあと、そらとぼけた様子でシャディクが腕を組む。片手で顎を撫でながら、
「聞こえちゃったしな」
「覚えてたら殺すわよ」
「それは物騒だ」
くすっと笑って、バレンタインといえば……とシャディクが話を続ける。
「去年、君にもらったラムレーズンのトリュフ、すごくおいしかったよ」
「あれは……、受験勉強をみてもらったお礼だし。バレンタインは関係ないし。お金を出したのもクソ親父だし。わたし個人からじゃなくて家からだし」
「でも、選んだのは君だろ」
「…………」
シャディクの言う通りだった。シャディクが好きそうだなって、数ある商品の中からラムレーズンのトリュフの詰め合わせを選んだのはわたしだ。――どうして分かるのよ。分かっちゃうのよ。
肯定するのがくやしくて――だけど、ほんのりと嬉しくて――わたしは口をつぐむ。シャディクもそれ以上追求してこない。
会話が途切れたまま歩き続けて数分、シャディクの家に着いた。わたしの家はひとつ向こうの筋にある。ここから歩いて一分三十秒ほどの距離。
「じゃあね」
「うん、また月曜日に――そうだ」
門扉に伸ばしかけた手を一旦止めると、シャディクはその手でブレザーのポケットをまさぐり、中から取り出したものをわたしに握らせた。何かしらと手を開けば、そこにあったのは小さなミルクキャラメル。
「あげる」
「ありがとう。でも、どうしてミルクキャラメル?」
「さっきコンビニでチョコレートの棚を凝視していただろ。お腹が空いているのかなと思って」
「はあ?」
シャディクに見られていた!
たちまち頬が火照る。あのときのわたし、どんな顔をしていたのかすら思い出せない。え? なに? わたしシャディクに、バレンタインを気にしているって思われてるの? それとも食いしん坊だって思われてるの?
(どちらにしろ最悪!)
「べ、別にお腹が空いてたわけじゃないわ。いろんな種類のチョコレートが出ているのねって感心してただけよ」
「ふうん。余計なお世話だったかな」
「まあ、ミルクキャラメルに罪はないから食べてあげてもいいけど」
「そっか。それではひとつ、ご賞味あれ」
ひらひら手を振ると、シャディクは今度こそ門扉を押し開けた。シャディクが家の中へ入るのを見届けてから、わたしも自宅へ向かって歩き出した。
「――ポケットにキャラメルとか、ちびっこかっつーの」
道すがら、銀色の包み紙を開けて、ミルクキャラメルを口に放り込む。口の中にじわりと優しい甘さが広がる。――さっき、「すごくおいしかったよ」と言ったときのシャディクの顔を見たときも、こんな甘さを感じた。
お礼として贈った市販のチョコレートにもあんな顔をするのなら、もしも、わたし自身が贈ったチョコレートを食べたら、シャディクはどんな顔をするかしら。わたしが贈ったチョコを食べても、シャディクはあんな顔をしてくれるかしら。
舌先にざらざらした甘さを残してミルクキャラメルが溶ける。
――また月曜日に。
シャディクの声が甦る。
月曜日はバレンタインだ。次にシャディクに会うのはバレンタインだ。
角を曲がったところで立ち止まり、Pコートのポケットからスマホを取り出す。明るい緑のアイコンをタップし、メッセージアプリを起動させる。
スレッタのトーク画面を開いて、わたしはメッセージを打ち込み初めた。