罪悪感と呪いの話 いつだったかも覚えていない、何百年も昔のことだ。
傷にも思い出にもならない、ただ通り過ぎたいつかの記憶。
◆
朝食の仕込みが早く終わったんで、偶には、と魔法舎にあるバーに足を向けた。
静かに飲める雰囲気じゃなきゃ帰ろう。薄く開けたドアから様子を窺うと、ぐい、と思い切りドアが開いて勝手に中に吸い込まれる。
「じゃじゃーん!ご開帳じゃ!」
双子の明るい声が響いた。普段は静かな店内が、今日は随分賑やかだ。無理やり連れて来られなければ、絶対部屋に引き返してた。
あまりバーでは見かけない若い魔法使いたちが、双子と、その前に広げられた怪しげな骨董品を囲んでる。
「……なに?露店でも出してんの?」
店主好みの趣味の良い調度品も今は脇に寄せられて、中央にできた空間に雑多に品が並んだ様は、さながら西の国の蚤の市のようだった。
「いいのかよ、店主さん」
小声でカウンターの中の人物に声を掛ける。店主は含みのあるワイン色の眼差しを返した。
「良い気分ではないですが、こちらにも得のある取引でしたので。今晩は特別です」
「なんだよ、何か受け取ったのか?あんたの御目に適うような品が、あの中にあんの?」
パッと見の所感はガラクタの山ってとこだったけど、この店主の審美眼なら信用できる。
双子の収集品ねえ……意外な掘り出し物があったりしてな。
「さあ、どうでしょう。気になるのでしたら覗いてみては?」
受け取ったグラスに口を付けると、涼やかな味が広がった。一日の疲れを流していくような清涼感に、少し気持ちが上向きになる。
……ちょっとだけ覗いてみるか。
グラスを片手に、賑やかな輪から二、三歩引いたところで品定めする。金になりそうな物はなさそうだ。ただ……なんだろう。その中にある一つと、視線が合った気がした。
生きてる訳がない。目なんて付いている訳がないのに。
「……なあ、その香炉って何かの呪具?」
羅針盤みたいな、針の付いた道具を覗き込んでいる双子に向かって訊ねると、二人は顔を見合わせて言った。
「呪具?」
「この香炉が?」
「違うのか?なんか変な感じがしてさ」
「呪具の類は持ってきておらぬぞ。若い魔法使いに見せる用じゃからの」
「魔力もほとんど籠っておらぬ、おもちゃみたいな品ばかりじゃ」
「んー……じゃあ気のせいだったのかもな。変なこと言って悪かったよ」
「よいよい。古い道具じゃからのう。長く生きると、物でも変質していくものじゃ」
「いつの間にか無くなったり、覚えのないものが増えとったりすることもある。持ち主を選んでおるのかも」
「我らは感じぬが……おぬしが何か感じたというのなら、もしかしてネロちゃん、選ばれちゃったんじゃない!?」
「気に入られちゃった!?」
「ええ……?まさか。香炉なんてほとんど使ったことねえし……」
「そういうことなら、これはおぬしに譲ってやろう!」
「いやいや!いいって。使わねえから!」
「お買い上げじゃ!」
「毎度ありなのじゃ!」
「しかも金取んの!?」
「露店ごっこの最中じゃからの」
「遊びにもリアリティが必要なのじゃ!というわけで……」
「「お買い上げありがとうございまーす!!」」
**
「……いらねえって言ってんのにさ」
どすん、とベッドに腰を下ろした。ポケットには無理やり押し込まれた香炉が入っている。
取り出して、眺める。陶器製の小振りな香炉だ。多少細工は入っているが、値の付く品とは思えなかった。
「無駄金使っちまったな……」
つるりとした表面をなぞりながら呟く。それにしても、やっぱり何か引っ掛かる。
(……見たことある気がする。どっかで、同じもんを……)
いつ、どこで。誰が持ってた物だった?
「……ま、いいや。寝よ……」
忘れちまってる記憶なら、どうせ大したことじゃない。
テーブルの端に香炉を置いて、ごろりとベッドに横になる。
寝付きの悪い俺には珍しく、その日はすんなり眠りに落ちた。
そして夢を見た。いつだったかも覚えていない、過ぎ去った遠い日の記憶———
「———殺してください」
誰かが、俺に願った。
「—————」
「おいネロ!放っとけ。向こうを探すぞ。まだそう遠くには行ってねえ」
「……でも、」
「ぼさっとすんな。置いてくぞ」
「あー……わかったよ。すぐ行く」
「……待って、ねえ、」
「お願い、殺して」
じゃり、重たい鎖が、地面に擦れる音がする。枷の付いた細い手が、俺に向かって伸ばされた。
「助けて、……殺して、お願い」
生気のない肌に、嵌め込んだみたいな目玉が妙に光って見えた。見開かれた目の迫力に息を呑む。完全に、足を止めてしまった。
「救えねえもんに情けを掛けるな。中途半端に関わると恨みを買うぜ」
忠告はされていたのに。俺はたぶん、わかっていたのに。
醜さを押し込めたようなあの部屋で。同じ香炉を、見かけた気がした。
◆
「——ネロ!」
「……っ、と、うわ……っ」
ブン、と風を切る音がして、目の前を銀の刃が横切っていく。ギリギリで回避したものの、仰け反った瞬間にバランスを崩して、盛大に尻もちをついた。
「痛っ……てて……」
「大丈夫?」
近くに居たヒースが駆け寄ってくる。大丈夫だと答える前に、苛立った声が飛んできた。
「やる気がないなら帰れ。せっかくファウストが実技をやる気になったのに、怪我でもして気が変わったらどうしてくれる」
「……悪かったよ。次は集中するからさ」
「さっきも言った。適当なその場しのぎは止めろ。訓練で石になりたいのかよ」
言葉に詰まると、離れたところで見ていたファウストも寄ってくる。
「ネロ」
「顔色が悪いよ。気分が優れないなら部屋に戻って休むといい。訓練の続きはまた別の日に」
「はあ!?ネロ抜きでやればいいだろ」
すかさずシノが食って掛かった。
「今日は連携の訓練だっただろう。揃う日にやった方がいい。座学の復習なら付き合うが」
「座学はもういい!やっと実技に漕ぎ着けたのに」
「シノ……二人を困らせるなよ。ごめんね、ネロ。無理しないで」
ヒースの気遣いが、尚更居た堪れない気持ちにさせる。
「いや……別に体調が悪いわけじゃないんだ。気使わせて、逆にごめんな」
「じゃあなんだよ」
完全に不貞腐れてるシノが、不満げに俺を睨んで言った。
「最近いつもぼーっとしてる。悩み事があるなら言え。寝て治るわけじゃないなら、いつまで経っても訓練が再開しないだろ」
「悩み、って程じゃねえんだけど……」
「なら尚更言えるだろ。うじうじ溜め込むから訓練中まで上の空になるんだ。後少し反応が遅れてたら首を落としてた」
ひゅん、と過ぎった刃の冷たさを思い出す。尻もち程度で済んだのは幸運だったかもしれない。
「本当に大したことじゃないんだ。ちょっと夢見が悪いだけで……。明日はちゃんとやるよ」
「本当だな?」
「うん……」
「目を逸らすなよ」
「たぶん……できると思います……」
「自信をなくすな!」
◆
「……開いてるよ。どうぞ」
「お邪魔しまーす……」
ワインと簡単なつまみを持ってファウストの部屋を訪れる。
出迎えたファウストは俺が来るのを予期していたような素振りだった。
「来る気がしてた」
「あ、やっぱり?はは……敵わねえな」
「何か相談事?」
「相談事ってか、見て欲しいんだけど……。これ」
「香炉?」
ポケットに忍ばせていた陶器を、取り出して見せる。
ファウストは蓋を開けたりひっくり返しながら注意深く観察して、それから俺の手に戻して言った。
「ただの香炉だ」
「……だよな。双子先生もそう言ってたよ」
「ふうん。それでも見せに来たってことは、きみはそうは思わないわけだ。いいよ、聞こう。何が気になる?」
「気になる、っていうか……嫌な感じがする。取り返しのつかないことになりそうな、すげえ漠然とした不安なんだけど……」
「この香炉はどこから?」
「スノウとホワイトが持ってた。どこで手に入れたのかは聞いてないけど、俺……見た覚えがあるんだ。あんまり良い場所じゃない、魔道具とか呪具とか、盗品が転がってるような場所で……」
夢に見る光景を、思い浮かべながら言葉にしていく。口に出すことで頭の整理を付けたかった。
土と石で囲まれた冷たい部屋。しゃら、しゃりん、金属を引き摺るあの音が―――
―――しゃりん、
「……え」
「どうした?」
「いや、聴こえない?鎖が擦れるみたいな音……」
「聴こえないけど。きみには聴こえてるのか?」
「嘘だろ……するよ、聴こえてる。ほらまた、今しただろ?」
「……ネロ」
ファウストの声が重くなる。
「香炉自体には何もない。引き金にはなったのかもしれないが……。恐らく、ずっと昔に植え付けられた種が、今になって芽吹きだしたというところだろう」
「……つまり?」
「きみ、呪われてるよ」
◆
「……と言っても、直接危害を加える感じじゃなさそうだ。残り香というか……呪いの本体と言うべきものは、もうここにはない気がするよ。呪いも風化する。長い年月が経っているなら、効力自体が弱まっていたのかもしれないな。夢見を悪くする程度に」
昼間の俺の話を拾いながら、ファウストは緩く微笑んだ。
「解呪は難しくないはずだ。道具を揃えるからすぐにとはいかないが、まあ今日はこれで凌いで」
ぱちん、と指を弾くと、棚から空っぽの瓶が浮き上がる。ひとりでに瓶の蓋が開いて、さらさらと中身が茶葉で満ちると、ふわふわと飛んで俺の手の中に降りてきた。
「何かくれんの?」
「寝付きのよくなるお茶を」
「先生のお手製?」
「そうだよ」
「……なら効きそう。ありがとな」
「まだ不安なら守護を掛けようか?きみに僕の魔法が要るとは思わないけど……」
「あー、いいよ。先生の魔法は頼りにしてっけど、守護は掛けなくてもいいや。なんか苦手なんだよな、むず痒くてさ……。わかる?」
グラスに残っていた一口分のワインを流し込んで、茶葉の瓶をポケットに入れる。なんとなく香炉とは反対の方に入れた。
「もらってくよ。遅くに悪かったな」
「ちょうど飲みたい気分だったから。香炉は預かろうか?」
「大丈夫。香炉自体に問題ないなら、こっちは俺でなんとかするよ」
「そう」
「じゃあ、部屋に戻るよ。おやすみ」
「おやすみ、また明日」
**
階段を下りて、自分の部屋がある階に着く。歌声や楽器の音が漏れ聴こえてくる時間だけれど、普段は夜更かしな向かいの部屋の住人は、今日は眠っているのか、廊下はひっそりと静まり返っていた。
「……遅い。どこに行ってた?」
「あれ?シノ?」
消していったはずの部屋の明かりが点いている。不思議に思って扉を開けると、中でシノが待っていた。
テーブルの上に両肘を付いて、組んだ手に顎を乗せてふくれっ面しているところを見ると、結構待たせていたようだ。
「焼き菓子の作り置きしてあっただろ。食って良かったのに」
「いらない。別に腹は減ってない」
「腹が減って眠れないから来たんじゃないの?」
「違う!今日はそんなに空いてない。実技も中止になったしな」
「なんだよ、恨み事言いに来たのか?」
「そういう訳じゃない」
「じゃあ何?」
訊きながらケトルを火に掛ける。ティーポットにさっきもらった茶葉を入れて、お湯が沸騰するのを待った。
「お茶淹れるけど飲んでく?寝つきのよくなるお茶だってさ。ホットミルクの方が良い?」
「……いらない。寝ないから」
「なんでだよ。寝ないと大きくなれないぞ」
「一晩くらい平気だ。今日はここに居る」
「ここって?俺の部屋?」
「うん」
「なんで?」
「なんでって……」
シノにしては煮え切らない返事を聞きながら、二人分のティーカップを用意する。
そのうち、ふつふつと泡の立つ音がし始めた。
「夢見が悪いせいだって言っただろ。付いててやるから寝ろよ。特別にオレが護衛してやる」
「は?護衛?」
「あんたが、ずっとそんなだと困る。優秀な護衛が居たら変な夢も見ないだろ」
「いや……気持ちは嬉しいけどさあ……」
お湯を注いだポットの中で、舞い踊るお茶の葉がゆったりと底へ向かっていく。茶葉の層が嵩むにつれて、透明なポットの中が少しづつ黄金色に色付き始める。
「……今日、」
「あんたを、石にするところだった」
指の先を弄りながら、テーブルの端に視線を落として、シノはぽつりと言った。
「それを気にしてんのか……。あれは俺が悪いだろ、ぼさっとしてたし……。でも、ちゃんと避けただろ?怪我もしてない。これでも数百年生きてんだしさ、そこまで柔じゃねえよ」
「それでも、今日はあんたの側に居る。ネロがちゃんと眠れるように見張っててやるよ」
「ええ……?まじで?」
「だから安心しろ」
「いや……うん……」
見張られてたら眠れねえだろ、とは口に出さずにぐっと堪える。
会話を切り上げるようにシノは席を立った。ベッドの足元の方へ向かって行って、そのまま床に腰を下ろす。そして目を瞑って沈黙した。
(絶対帰る気ねえな……)
時計の針はとっくに真夜中を廻ってる。説得に無駄な力を費やすよりは、大人しく寝た振りした方が早いな。
「……わかったよ。じゃあ、お願いします」
居心地の悪さを抱えながら、のそのそと布団に潜り込む。明かりを落として瞼を閉じると、急に幕が下りたみたいに意識が底に沈んでいった。
◆
「ネロ、おい、起きろ」
「……あれ?」
眩しい、光が射している。
「は?……朝!?」
「どう見てもそうだろ。寝た振りで誤魔化してるかと思ったら、本当に寝ててびっくりした」
「いや、俺もびっくりなんだけど……まじかよ、すげえな先生のお茶……」
「はあ?オレの護衛のおかげだろ?」
「え?あー、まあ、それもあるかもな……」
「なんだよ、もっと感謝しろ。魘されても茶は何もしてくれないぞ」
「魘されてた?」
「……少しな」
「で?目覚めの気分は?」
「え?」
「訓練には集中できそうか?」
「はは、結局そこかよ。できるよ、今日はちゃんとやる」
「やった!」
**
「ダメだ」
「なんで!?」
勇んでやって来たシノがファウストに一蹴される。
「何も解決してないからだ。訓練は焦ってやるものではないよ。今は呪いを解くことを優先しよう」
「解決?呪い?何の話だ?」
「ネロの不眠の原因」
「はあ!?聞いてない!」
握っていた両手の拳をさらにきゅっと握り締めて、シノは「ネロ!」と俺を睨んだ。
「呪われてるのか?」
「あー……なんか、そうらしい……」
「いつ知った?」
「昨日の晩……」
鋭い目付きが尖りを失っていく。代わりに失望の色が浮かんで見えた。
「言えよ。護衛には知らせるべきだ」
「……あんま大事にしたくないんだよ。大した呪いじゃないらしいしさ、先生がなんとかしてくれるって言うし……気に掛けられるの慣れてないんだ。護衛って言われてもしっくり来ないし」
「…………」
呆れたようにふっと目を逸らして、「わかった」とシノは答えた。
「……呪いが解けるまで、あんたの側に居る」
「え?いや、なんでそうなんの?」
「自分のことを話す気がないんだろ。なら、見てるしかない。あんたが大丈夫か大丈夫じゃないか、オレが自分で見て決める。安心するまで離れない」
「ええ……?ちょ、先生、何か言ってやってよ。そんな心配するようなもんじゃないって……」
救いを求めてファウストを見る。ファウストは同情気味に眉根を寄せて、でも全く期待外れの言葉をくれた。
「いいんじゃない、守ってもらえば。ヒースが許すならだけど」
「はあ?嘘だろ、あんたまで……」
「許可は取ってる。好きにしていいって」
「なら問題ないだろう」
「いや、あるよ問題!ダメに決まってんだろ、何考えてんだよ!」
「シノは気配に敏い子だ。異変があったらすぐに気付くよ。付いていてくれた方が僕も安心できる」
「おいおい……先生……」
「きみが部屋に戻ってから考えたんだ。きみが言っていた、漠然とした不安というのが少し気になる。呪いの本体は無い気がするし、力が弱まっているとも思う。だけど……多分、呪いの出処はきみなんだ。呪いの種がきみの心の中にあるなら、呪いの本質がまだ見えていないだけかもしれない」
「もっと性質の悪い呪いかもってこと?」
「性質の良い呪いなんてないよ。呪いは……元は誰かの思念なんだ。強く思えば思うほど呪う力も強くなるが、思うことを止めたり、産み出した本人が死ねばいずれは風化していく。だから色んな手を使うんだ。呪いの効力が消えないように、魔道具の力を借りたり、力を残すために眠りに就いたりすることもある。きみの呪いもそれかもしれない。蛇のように息を潜めて、じっと時機を窺っている」
「嫌なこと言うなよ……」
「……ま、油断は禁物だと言うことだ。取り寄せた道具が明日には届くはずだから、あと一晩の辛抱だよ。今晩は添い寝でもしてもらうといい」
「ちょっと面白がってない!?」
**
「……で、まじで泊まりに来んのかよ……」
「ヒースとファウストの公認だ。安心して眠れ」
「いや、さあ……ダメだろやっぱ……信用してくれんのは良いんだけどさ。あんま気軽に来んなよ、夜中に男の部屋に……」
「人を尻軽みたいに言うな。気軽には来てないし、訪ねる部屋も選んでる」
「そーいう風には思えねえけど……」
あと一晩という言葉を信じて、俺は無駄な抵抗を止めた。
今日だけ乗り切りゃなんとかなる。そう思えば気は楽だ。
「じゃあ俺は寝ますかね……。お前も適当に寛げよ。したいっつーなら止めねえけど、護衛なんて付けられるような柄じゃねえんだからさ」
眠れる気はしないけど、一応ベッドに横になる。目を瞑っても、昨夜のようにすぐ寝落ちたりはしなかった。
こつ、こつ、秒針の音が今日はやたらと耳に付く。落ち着かなくて何度も寝返りを打った。
保温の魔法を掛けたティーポットとサンドイッチを置いといたけど、手を付けている様子はない。
(……何してんだろ)
片目を開けて盗み見る。薄明りの中で視線が合った。
「なんだよ、眠れないのか?」
「あー……うん、まあ……」
決まりが悪くて口籠ると、かたん、と木の音が鳴る。シノはベッドサイドへ運んできた椅子に座った。
「手、繋いでやろうか?」
「はあ?いらねえよ、ガキじゃあるまいし」
「……昨日、」
「魘されてた時、手を握ったら落ち着いた。だからずっと繋いでてやった」
「は?え、まじで?うわ……知りたくなかった、めっちゃ恥ずかしいじゃん……」
「恥ずかしいか?」
「いい歳した大人がさ。まだ十年ちょいしか生きてないような子に手握ってもらうなんて、どう考えてもダセえだろ。放っといてくれていいよ……」
「放っといたら側に居る意味がないだろ。今はあんたの護衛だ。あんたが落ち着くなら、手くらい繋いでやる。出せよ」
「いい!いいよ、恥ずかしいって!ちょ、もぉ……まじかよ……」
くすぐったくて泣きそうだ。居心地悪いし落ち着かねえのに、振り解くのも変な気がして、
顔を背けてじっとしていた。
(……あ、グローブしてない)
手の感触が直に伝わる。気が付かなくていいことなのに、どうにも意識が向いてしまって余計なことに気付いてしまう。
「子守歌も必要か?」
「からかうなよ。要るって言ったら歌ってくれんの?」
「……今日は気分じゃない」
「なんだそれ……」
・ ・
「……なんかさ、手、冷えてない?寒い?」
「別に」
「テーブルにお茶あるから……」
「いらない。いいから寝ろよ」
「はい……」
・ ・
寝れと言われて、眠れる空気じゃねえだろ。
こつ、こつ、また秒針が響き始める。
こんな夜中に二人っきりで、手なんて繋いで何やってんだ。
こいつもこいつで、何を考えてるんだか……。
目を瞑る気も起きなくて、ぼうっと天井を見上げていた。
「……やめた」
「は?」
「寝れそうにないもん。誰かさんのおかげで昨日は寝れたし、今日は起きてるよ。明日呪いが解けたらぐっすり寝ます」
「寝ないとまたぼーっとするだろ。怪我したらどうする?」
「護衛が付いててくれんだろ?へーきへーき」
「適当なこと言う……」
繋がれたままの手にちらりと視線を落として、一息にぱっと離した。
「さて、じゃ、夜明かしの準備するか」
「何するんだ?」
「なんでも。……って言っても料理くらいしかできないけどさ。リクエストはある?」
◆
洗い物を終えて顔を上げると、窓の外が白んできていた。朝が近い。
濡れた手を拭いてテーブルを振り返ると、今し方寝落ちてしまったのだろう、額をテーブルに付けたままシノが寝息を立てていた。
「シノ。おい、首痛めるぞ」
声を掛けて、揺すっても全く起きる気配はない。
「しょうがねえな……」
椅子から抱き上げてもシノはくうくうと穏やかに呼吸を繰り返すだけ。苦笑しながらベッドに運んで寝かせてやった。
「……かわいいやつ」
ふ、と自然に頬が緩む。
こんな風に、昨日は自分が寝顔を見られていたと思うと気恥ずかしいけど、安心しきって眠り込む顔を見るのは、意外と悪くない気分だった。
ブランケットからはみ出た腕を戻そうとして、なんとなく、本当になんとなく、こっそり指を絡めてみた。
魘されてたから、ずっと手を繋いでくれていたって。
一晩中、こんな風に。側に付いてくれていたのか。
嬉しいような、こそばゆいような、変な感じだ。身の丈に合わない扱いを受けている気がする。
「……俺を守ろうだなんて、百年早いよ」
呟いて、絡めた指にそっと唇を落とした。
恋だの愛だの、そんな純情はとっくに持ち合わせていない。だから——なんのつもりだったのか、自分でもよくわからない。
愛おしい、と思ってしまった。一瞬のゆらぎだったかも知れないが、確かに胸に灯った。
——たぶん、それがいけなかった。
唐突に記憶が蘇る。「許さない」と彼女は言った。
殺して、と縋る女の、願いを俺は叶えなかった。
どんな呪いかを知っていた。救えないと知っていたのに、あまりに哀れだったから、殺せずに俺は手枷を解いた。
息を潜めて待っている。呪いが成就する時を。
初めから標的は俺じゃないんだ。あの呪いは男に向かわない。
じゃら、しゃらら……
鎖を引き摺るあの音がまた。
「……う」
「あっ……つ、う、ぁ、痛……っ」
安らかな寝顔が、一変して苦痛に歪む。
「シノ?おい、どうした?」
じゅう、と灼け付くような音がした。
「ネロ……う、あぁっ……なんだこれ……、熱い……っ!」
「大丈夫かよ!?どうなってんだ……?」
跳ね起きたシノが俺に向かって手を伸ばす。嫌な予感がひっきりなしに体中を駆け巡る。
「はぁっ、う、ううっ……、くっ……なんだよ、これ……っ」
俺の腕にしがみついて、シノは肩で息をしていた。食い込む指が痛みの強さを訴えている。
「はぁ……、はっ、はあ……っ」
浅い呼吸が少しずつ正常を取り戻しても、俺の不安は止まらないどころか加速する。
知っているんだ、俺はその呪いの顛末を。
「……治まった」
シノがほっと息を吐いた。
「なんだったんだ?いきなり熱くて痛くなった」
「……変なの。もう何ともないぞ」
下腹部を不思議そうに撫でる手を、堪らなくなって奪い取る。
「わ、なんだよ。ネロ?」
「……痛んだとこ、見せて」
みっともなく声が震えてる。シノは黙って腰布を解いた。
上着の裾を捲ってその下の素肌を晒すと、臍の下に火傷みたいな線が見える。
「……はは、は……まじかよ……」
いつだったかも覚えていない、何百年も昔のことだ。
遠い昔に見た紋が、今頃現れるだなんて。
「ネロ、変だぞ。お前もどこか痛むのか?」
強気でちょっと生意気なとこも、過ぎるくらい真っ直ぐなとこも、危なっかしいところも全部、大事にしてやりたいと思った。俺はずっと保護者役で居たかったんだ。
困惑した表情に朝陽が当たってきらきら光る。どん底の気分なのに、朝は祝福を告げるみたいにやって来た。
どんな謝罪も赦しを乞うには足りなくて、でも償いたいから抱き寄せる。
「石にしてくれ、俺を今、シノ……」
起き出した住人たちの生活音が聴こえ出す。時間は夜に向かって着実に進み始めていた。
<つづく>