【五伏】To the Polaris,From236 ①波止場のインターバル1.波止場のインターバル
Congratulations 人生のエンディングに乾杯を。斯くして『最強』の名を欲しいまま窮屈に生きた五条悟の二十九年は堂々の終幕を迎えた。出迎えには親愛なる同窓が集い、紙吹雪でも散るに相応しい感動のフィナーレだ。目尻の潤む熱き再会、万感の思いを胸に下段を過ぎゆくエンドロールを見送る。
「僕は、僕が病や老いでなく、僕以上の強者に殺されたことを嬉しく思うよ。ああ楽しかった、満足にはすこし足りないし、あいつにも申し訳ない半端をしたけど――」
概ね良好だ。望むべくもない己の結末にしては、随分な贅沢をさせてもらったと五条は満ち足りて目を伏せる。ただひとつ、やり残した喉のつかえが……いや、ひとつどころで済まないほどにはあるけれど、何事も足るを知るのが肝要だとこの歳にもなると分別がわかってくる。不甲斐なさの苦味も味かとすっかり完走の余韻に浸る五条へ、馴染みの面子で最も惜しまれ夭折した少年が、穢れを知らぬ眼差しでふと無邪気に問いかけた。
「でも、どーして言わなかったんですか? 面倒見てる子に、お父さんのこと」
「ああ聞いちゃうんだそれ、いやいや、灰原は遠慮する必要ないよ。悟がそこでぐっと黙りこくるような負い目を勝手に拗らせてるのが悪い」
花舞うレッドカーペットへ盛大に水を引っ掛けられ、それまで気持ちよく風を切っていた肩がぎしりと凝り固まる。ひいふうみい、と灰原の指が順繰りに折りたたまれて、途中で数を見失ってまた振り出しから計算をリロード。あまりさんすうが得意でないのは愛嬌のうちだ。
「えーと、確か、僕が死んでちょっとしてからだからー」
「九年ですよ。正確には足掛け十年、よくもまあこのパワハラ男の先生ごっこに付き合ってくれたものです」
「じゅうねん!! それだけ一緒にいたら、なんでも話せちゃうくらい仲良くなれるねえ! なんで言ってないんですか?」
くりっとした眼差しに悪意はかけらとて無い。傍で腹を抱えてヒーヒー膝を叩いている前髪男の方がよっぽど性格が悪い。だが悪ノリを好む夏油も、毒舌に躊躇いのない七海も、こればっかりは触れずにいてくれたから。ヒーローインタビュー待ちの構えでいたイキリ男には、後輩の無垢な疑問がとても心地悪かった。股間の位置どりが芳しくない時のような、背中に毛虫でも入ったみたいな変な動きで佇まいを微調整。責めるまい、この愛くるしい陽キャ少年は見た目通りの幼さで逝った。おっさんの、触れられたくない繊細な機微などは知る由もないのだから。哀れみこそすれ、逆上するなどもってのほか。
「五条さん、いつも余計なことは一言多いのに肝心なことはぜんぜん言わないんですね! もしかしてシャイなんですか!? 大丈夫です、人間はみんなまっすぐ目を見て挨拶から入ればあ痛たたたたたた」
「悟ー、痛いところを突かれたら暴力に出るの、図星ですと自白してるようなものだからやめな」
幽霊でもヘッドロックは決まるし痛いのだな、と妙な感心を覚える。五条は別に、例の件――伏黒恵の父親のことを、あの子に特別隠しているわけではなかった。最初にその辺は詳らかとしようと試みたし、その出鼻を挫かれて以降単に言う機会を失くしてズルズルと生きてきただけで、理由として説明できるほどの理屈もない。だから別に、終ぞ明かすことなくオールアップを迎えてしまったことも、まあそういう巡り合わせだったまでだと彼は白々しく肩をすくめて自分の中で片付けた。
「ま、僕が直接言うよりカドが立たなくて、結果的に見りゃこっちの方が良かったのかもね。もっと早くにショーコに頼りゃ良かったなあ」
九年ずっと一緒に生きた子へ、本当にたまたま言う機会がなかっただけなのだとすれば、それはどれほどの天文学的確率になるのか。理数に弱い灰原以外は、本人含めてどいつもこいつも気付かないはずないのだけど。
***
『混み合いまして恐れ入ります。ただいま、座席前列のお客様から順にご案内しております。離陸後、ランプが着くまでの間はシートベルトをお締め願います……』
常夏行きジャンボジェットは満員御礼。でかい図体の一行はビジネスクラスの一角にブー垂れながら足を縮こめ一列で押し込まれている。眺めのいい窓際は今回の主賓へプレゼント。機体がエンジンを温める間の微細な振動に頬杖を揺らしつつ、五条の瞳は久方ぶりのゆっくりとしたオフの気配にとろりと気の抜けた色をしている。
「ふぅ。しかし、あの世が空港のカタチしてるなんてちょっと思ってたのと違ったわ。もっと血の池地獄とか煉獄山とか…え? ここひょっとしてアレ? まっさかァ、僕と傑が天国なんて行けるわけねーよな?」
「まあ行き先はお楽しみとして……そうだね、ここはあの世と呼ばれる領域の中でもだいぶ手前で、今きみの列挙したような名だたる名所じゃあない。常世と幽世の交わる狭間の地…平たくいうと、三途の川かな」
「川!? 地面、全然アスファルトじゃん。なんならこれから飛ぶし」
「悟、床を蹴らない。川は一例。『境界』とか、『船出』を思わせる場所ならどこだって入り口になるのさ」
確かに川はわかりやすく彼岸と此岸を分かつし、船で漕ぎ出してあちらへと越境する呪術的なメタファーをシンプルに顕在している。そういう意味では空港も、出港前の停泊地であり新たな旅立ちのニュアンスとしては条件を満たしているか。まったく末期の妄想にしてはディテールが凝っていると五条は再び感心した。人は死ぬと映画館に行くというのは誰が言っていたんだっけか。
「我々も最初は驚きましたが…聞き及ぶに、死出の旅立ちは人によって異なるロケーションで出力されるそうですよ。例えば電車とか、浜辺とか…しかし我々の発着場、これぞ年中あちこち飛び回っている術師に最も身近な出航の形と考えれば、死ぬまで抜けない職業病に泣けてきますね」
「あはは。までもなにも、もう僕ら死んでるって」
「ぜーんぜん実感湧かねえけどなぁ。ケツは痛えし脚は狭えし……お?」
乗客の搭乗が一段落したようで、機内のモニタに遠隔で電源が入る。そういえばこの、手前の座席の背に着いた小型モニターが国内線に普及したのは自分が成人して以降だと記憶しているが。変なところは雑なのだなと唇を尖らせる五条に、傍でくすくすと相方が微笑む。何がおかしいのかと目を向ければ、見ていてご覧と指を差され、そのまま視線のゆくえを逆回し。小さな画面の向こうに、蜻蛉柄の着物で走り回るガキがいた。
「……あん? 俺じゃん」
「これからそこそこ長い旅路だからねえ。人生を振り返りつつの空の旅。なかなかオツなものだよ」
「へえ、人生って一周終えたらリザルト表示される系なんだ。知ってたらもうちょいこまめにやり込んだのに。ぶは、ちょっ こんなモンまで映んの!? はっず!」
カブトムシをもいでしまい生命のはかなさを知った記憶、落ちてるエロ本を興味本位で拾おうとして傾斜を転がり落ちた思い出、結構デカくなってからじいやに素ケツを直ぺんぺんされた黒歴史……やんちゃ少年の武勇伝には赤っ恥もつきもので、たまらず五条はコンソールをいじり回して再生速度を五倍に早回した。
「なんだい風情のない…お、今私映ったね、ほら硝子も。入学式の後盛大に闘りあった時のやつじゃない?」
「え、お、待て待て、なんか早さ戻んねえ、どうすんだこれ」
「あーあー、雑にいじくるからだよ」
ホームビデオは早回しのままちょこまかと、青の記憶が右から左へ忙しなく流れていく。あったあったと懐かしいイベントの数々に実年齢を忘れたアオハルどもが手を叩き、首を伸ばした灰原が一番端に陣取る七海の肩を揺すって自分たちの登場を知らせたり。さながらこの一角だけ修学旅行の道中みたいで、きっと自分たちこそ宇宙で一番無敵でおもしろいと信じられた。けれど馬鹿笑いもそこそこに、三年分の青い春は名残惜しくもネタがつきた。
「あー……こっからつまんねーんだよな、灰原なんてナレ死だぜ」
「あーいや、自分の最期は直接見てないほうがいいやつでしたし。ちなみに七海の思い出ムービーにはバッチリ収録されてて」
「ああ…あそこだけ大概スナッフフィルムでしたよ。なんで嫌な記憶は避けておいてくれないんですかね…」
沖縄、網膜に触れる蠅。だらんと物言わぬ華奢な腕、万雷の拍手。…人混みに紛れて小さくなる背中を立ち尽くしていつまでも見ていた、辛気臭い光景なんて胸が悪くなるだけだ。もう良いではないか、なくしたものは今隣にちゃんと揃ってる。五条は個性あふれる友垣をぐるりと見渡し、満たされた幸福を噛み締める。やはり自分にとって、二度と戻らないはずだったこの場所は特別だ。…再生速度は変えられないにせよ、一旦消して最初から見てしまおう。五条はボタンのばかになったコンソールの具合を確かめ、楽しい追想にまたレコードの針を落とそうとした。
『――好……しろ』
ざ。ノイズが、灰色の不純物で青春譚に茶々を入れる。スピーカーなんて付属していないのに、何かとても大切なことを語り掛けられたような。
『お待たせいたしました。当機はまもなく離陸体制に移ります』
自動で映像はお辞儀をするCAのイラストへ切り替わり、旅人を乗せてゆっくりと動き出す車輪。太陽があふれる南の地へ、彼の堂々たる退場を邪魔するものなどどこにもない。滑走路へと向かう旋回の慣性のなかで、ふと五条のまなざしはアクリル窓越しにすれ違う別の飛行機へと向く。大小入り混じって遠くに見えるそれらの中で一番貧相で、子供のおもちゃみたいなプロペラ機が、移動通路を使わずにタラップをそのまま下ろしている。
――――それを独りぼっちに登っていく、よく見慣れた犬のリュックを背負った小さな背丈が見えた気がした。