白き雲と藍色の家 景儀がたどり着いた時には、全ては終わった後のようだった。
観音廟の外に含光君と魏無羨が居るのが見えて、他の藍家の子弟と共に含光君の元に駆けつけた。思追も一緒にいることに気づいた景儀は、慌てて思追とその横に座る温寧の無事を確認する。怪我も無いことを聞いてやっと安堵の息を吐いた。姿が見えなくなっていた思追のことが気になりながら、景儀は探しに行くこともできなかった。一人で飛び出してしまった思追に心配させるなよと言いたかったのに、それよりも無事であったことに何だか力が抜けてしまった。
皆の無事を確認してから改めて後ろを振り向くと、崩れ落ちそうな観音廟の前には呆然とした表情の沢蕪君と聶宗主が座っていた。その二人とは対照的に廟の中では沢山の仙師が動き回って騒がしくしている。建物の外では少なくない数の人が死んでいるのが目に入り、急に恐怖に襲われそうになる。含光君も沢蕪君も、そして思追も無事でいてくれて本当に良かったと思う。それと同時に、自分に出来ることの少なさに歯痒さを感じてしまう。
他家の子弟達とも一緒に観音堂の中に入れば、状況はもっと酷いものだった。大人の仙師達の邪魔にならないように少し遠巻きで片づけを手伝っていると、遠巻きに見ていた魏無羨はロバのりんごちゃんが気になるから後はよろしくと言うなり観音廟を出て行ってしまった。その後ろを当たり前のように温寧も付いていく。ただ、温寧だけは一度そこで振り返って何かを見つめた。景儀がその視線の先を追ってみれば、景儀の横に立つ思追へと辿り着いた。温寧は何か言いたげに、けれど口を開くことは無く一礼をした。思追と景儀も応えて礼をすると、温寧はもうこちらを向くことはなく、観音堂を出て行った。彼らはこれからどこへ向かうのだろう。そんなことを聞いたところで景儀にはきっと分からないことだろうが、仙門の道以外を知らない景儀には想像もつかないことに己の未熟さを実感する。
さて、と改めて深呼吸をして隣に立つ思追に声をかけた。
「思追、手伝いに戻ろう」
景儀のかけた声に、思追は何の反応も示さなかった。
「おい思追、どうした?」
思追は観音廟を出て行った温寧の姿がまだ目に浮かんでいるかのように、門の向こうをじっと見つめていた。
「何だよ、鬼将軍と仲良くなったからいなくなるのが寂しいのか?」
そう軽く小突いて思追の顔を見た景儀は、思追の表情に息を呑んだ。思追の瞳は驚きに見開かれていて、〝温寧とは仲良くなった〟などという簡単なものでは無いのかもしれない。そんな風に感じてしまった。
思追は景儀には答えず、懐から何かを取り出した。手のひらに載せたのは、つい先日温寧にもらっていた蝶々の玩具だった。思追は鬼将軍の温寧とは今回のことで初めて知り合ったはずだ。だからと言って、温寧の様子からしてきっとそれだけではないのかもしれない。そんな予感が無かった訳ではなかった。
思追の名前を聞いたあの時、温寧は言っていた。
「遠い親戚の子に似てるんだ」
「君を阿苑と呼んでもいいかい?」
鬼将軍もそんな可愛いことを言うんだなと、子真と顔を見合わせながらそう笑ってしまった。けれど、本当に思追が温寧の親戚だったなら? それならあの温寧の様子も理解ができる。それに、藍家の子弟があの鬼将軍と親戚だなどと、そんなことはあり得無いはずだ。そう思い込んでいたのかもしれない。
思い返して見れば、思追は少し前にも様子がおかしい時があった。
「景儀は三歳より前のことを覚えてる?」
聞かれた景儀は、そんな小さい頃のことなんて覚えてないし、雲深不知処で遊んでただろ? と答えた。思追も景儀も、藍家の子弟として幼い頃から修行に励んできた。一緒に遊んで、たまに怒られたりして。藍家の家訓を頻繁に破りがちな景儀と違って、思追は含光君の指導の下、いかにも藍家の子弟らしく家訓を守ってきたのは景儀がよく知っている。だからこそ、思追の出自が藍家では無いかもしれないなどと、考えたことは無かった。
考えたことは無かったのだけれど、思追は小さな頃に両親を亡くして含光君が兄とも父とも言える存在であることも、景儀はよく知っていた。普段そんな話をすることはないし、雲深不知処では知る必要のないことだけれど、知ってはいた。
玩具の蝶をギュッと握りしめた思追は、何かを決めたように観音堂の門へと駆け出した。
「おい、思追どこに行くんだ?」
思追は景儀の慌てた声に驚いたように足を止めた。思追は大きく深呼吸をして冷静になろうと努めているように見えたけれど、藍啓仁先生に走るな騒ぐなと言われても今の思追はきっと何も聞き入れないに違いない。
「景儀、雲深不知処にはしばらく戻れないかもしれない」
振り返った思追が景儀を見つめて言った。
「それって……どういうこと?」
景儀が考えていること通りなら、こんな人の目が沢山ある場所で話すべきことではない事は百も承知だったけれど、聞かずにはいられなかった。
「ごめん、急がないと。今度話すよ」
慌てて再び駆け出した思追の後ろ姿に、景儀は急に不安になって大声を上げた。
「思追!」
景儀が強く呼び掛けると、思追はもう一度足を止めて振り返った。
「お前は、藍家の藍愿だろ!?」
景儀の大声に、周囲の他の子弟に不思議そうな目を向けられる。
「……うん」
思追は少し間を開けてから、うんと頷いた。
「雲深不知処に、帰ってくるんだよな?」
景儀が何を言わんとしているのか、思追はきっと気づいたのだろう。
「……うん!」
少しばかり困ったような顔をした思追は、それでも今度も縦に大きく頷いた。
「勿論だよ。だって、僕の家は藍家だから」
思追が笑って答えるのを見て、景儀も分かったと頷いた。胸元の白雲の襟模様を掴んで整えた思追に、不安が雲のように消えていくようだった。
「先に帰って待ってるからな」
景儀が大きく手を振って見送ると、思追は今度は後ろを振り返ること無くまっすぐ観音堂を出て行った。
藍啓仁先生に見られていたら何から何まで怒られたに違いないと思うと顔がふっと緩んでしまった。家訓を守ろうが破ろうが、臆病な心も、足らない力も、きっといつか彼に負けないくらいにならないといけないのだ。景儀は剣を握る手に力を込めながら、他の子弟の輪へと向かって行った。