懐かしき調べ 莫家荘に邪祟退治をするためにやってきた藍思追と藍景儀をはじめとする藍家の子弟達が西院で迎え撃つべく準備を進め、手筈通りに位置に着いた頃には陽が落ちていた。
庭を囲むように屋根の上に立ち、招陰旗を手に景儀と並んでその時をいまかと待ち構えていた時だった。張りつめた空気の中、気配に集中するように目を瞑っているとどこからか何か曲が聞こえてくる。これは笛の音だろうか。音は聞き慣れないが、この旋律はどこかで聞いたことがあるような気がする。
「景儀、この曲どこかで……もしや姑蘇の調べか?」
いつどこで聞いたのかは分からない。分からないながら、旋律が胸に響く。
「どこかで聴いたことがある」
「そんなはずないだろ。こんな下手な曲、聴いたことがあるわけない」
景儀の言うことはもっともだ。笛と言っても音程も不安定だし、まるで草笛を吹いているようにも聞こえる。けれど思追はこの曲を初めて聞いた気がしなかった。
思追は姑蘇藍氏の一人として、他の門派の者に比べれば沢山の曲を知っているはずだ。記憶にある数々の旋律の中から思い出そうとしてみるが、ぼんやりとしていてどこで誰の演奏で聴いたのかを思い出すことはできなかった。旋律を追いかけながら、どこで聴いたものかを探りだそうとしている間に演奏は止んでしまった。一体どこで聞いたことがあるのか気になったが、待ち構えていたものとは異なる物の襲来によって、目の前のこと以外を考える余裕が無くなった。だから眩しい朝を迎えるまで、そんなことがあったことをすっかり忘れてしまっていた。
記憶の片隅に追いやられていたその旋律は、思わぬ形で思追の記憶に蘇った。莫家荘の始末がひと段落した翌朝、含光君の姿を見た時、何故かこの旋律のことを含光君は知っているのではないかという気がしたのだ。どうしてそう思ったのかも分からなかったが、思追は思わず含光君の衣に手を伸ばしていた。
陰虎符が再び世に現れたと考えて良いのだろうか。本当に魏嬰、お前なのだろうか。そう考えながら霊識が宿った剣を朝日にかざし見た藍忘機が剣を仕舞っていた時だった。
「あの、含光君!」
思追の声に振り向くと彼にしては珍しく何か言いたげな顔をしていて、その上藍忘機の衣の袖を掴んでいた。
「……どうした」
藍忘機が問えば、思追はまるで袖を掴んでいたことに自ら驚いたようにその手を隠すように引いてしまった。
「あっ、いえ、すみません。何でもありません」
焦った顔を隠すように拱手をした思追はいつにも増して随分と深い礼をしていた。
「含光君、それでは私たちも大梵山へ」
「……? ああ、行こう」
藍家の他の子弟達の元へ出立を伝えに向かった思追の後ろ姿を見ながら、そういえば魏無羨には何度か袖を引かれたことがあったけれど、小さな彼に袖を掴まれたこともあったのだった。
「熱が下がらないせいで中々寝付けないようで……」
「そうか」
連れ帰った小さな体は熱にうなされていて、今にも命が無くなってしまうのではないかという心配もあった。けれど、藍忘機には心配すべき者が他にもいて、その者の為にもこの小さな命を喪う訳にはいかなかった。いずれにせよ、医者でなければこの命を生かすことはできないだろう。
「すまない、この子のことは頼んだ」
そう医者に言い置いて藍忘機は背を向けようとしたのだが、何故か後ろに引っ張られるのを感じて足を止めた。
「…いか、ないで」
藍忘機の袖を掴んだのは高熱に苛まれている小さな手だった。
「おいて…いかないで……」
藍忘機は今すぐに行かなければならないのに、衣を掴んだ手を振り払うこともできずに固まってしまった。どうすれば良いのか分からないまま、小さな手を両手で包んでから衣からゆっくり外し、寝台に近づいた。片手でその小さな手を握ったまま、慣れないながら宥めるように優しく額に触れた。触れた手に伝わる体温は高く、早く熱を下げないと治ったとしても後に何か影響が出てしまうかもしれないことは医術の心得がそうある訳ではない藍忘機にも予想できた。
「大丈夫だ。早く良くなるためにもお前は寝なければ」
「……眠ると怖い夢を見るから、やだ」
そんなことを言われてもと思わなくもないが、藍忘機が近くにいることが役に立つとも思えない。どうしたら良いのか、何か解決方法があるならばと藍忘機は直接問いかけてみることにした。
「では、どうやったら眠れる?」
「歌、うたって……」
こんな風に歌をせがまれるのは、二度目だ。流石は彼が自分が産んだと言うだけはある。夷陵の茶屋で笑っていた彼の顔を思い出し、思わず少しだけ口元を緩ませてしまう。
歌うのはあの曲にしようか。熱で汗ばんだ髪を撫でながら、心に浮かんだ旋律を口に乗せた。
大梵山に向かうのは彼と共にいたあの頃以来だ。陰虎符に大梵山、こんなに胸騒ぎがすることが重なるのは単なる偶然なのだろうか。
突然現れた剣霊に一体どこに連れて行かれようとしているのかは分からない。あの日、彼に聞かせた歌をいつかまたどこかで演奏する機会があるのかも、今はまだ分からないままだ。