思いの行き先「少年」
出逢って僅かだというのに、少年の耳に酷く馴染む静かな声。
何事かと両手にマグカップを持ちながら台所より現れた半身の視線を追うと、黄金の双眸が見つめるのは自身の手元であった。
「あっ」
右手首に視線を向け、少年自身も直ぐに気付いた。袖口のボタンがぶらりと糸に吊られて揺れているのである。
「気付かなかった」
「読書中にすまない。だが、室内ならまだしも、屋外で紛失しては面倒になるかと」
「ありがとう、アオガミ」
手にしていた文庫本を机の上に置き、少年は微笑む。ボタンについて声を掛けるまでに葛藤があったらしいアオガミの僅かに落ち込んだ表情。仲魔達は首を傾げるほんの小さな差異であるが、少年は見逃すことはない。
そんなアオガミの表情が戻る様を確認しつつ、少年はクローゼットへと足を向けた。
(服を自分で作ったりはしないけど、なんだかんだ役に立つんだよな)
手に取ったのはA4サイズ程の長方形の箱。少年が小学生の折、家庭科の授業で使用する為に学校で購入した裁縫セットである。カバーには、雄々しく荒れる海と雷を背負ったドラゴンが描かれていた。
(この柄を選んだ時の記憶はないけど)
――もしかしたら、自分は無意識に彼を追い求めていたのかもしれない。
雷を指先でそっと撫で、同時にこの絵柄を見たアオガミに何かを感じられたら恥ずかしいと、少年はカバーをクローゼットへと置き去りにして立ち上がるのであった。
「君は裁縫も出来るのか」
「ボタン付けくらいだよ」
「立派だ」
「大げさだって」
裏表のない真摯な誉め言葉に僅かに頬を染めつつ、少年は制服の色に合う糸を探すため、収納されたいくつかの小箱を開けてゆく。なかなか目当ての色が見つからないなと探し続ける中、手伝うアオガミの手が僅かに止まった。
半身の小さな挙動は見逃さない。それが、少年だ。
「どうしたの?」
アオガミの手を止めるようなものはあっただろうかと、少年が身を乗り出す。視界に飛び込んできたのは様々な色だ。ただし、糸とは違って円形の群れであったが。
「ああ、ボタンか。そういえば、昔はなくさないようにって集めてたな」
新品で買う服に付属する予備のボタン。なくしたら勿体ないと、箱にしまっていた時期があったことを少年は思い出す。今でも本棚の一角にボタンが詰められた小さな瓶がある。
そういえばいつからこの箱を使わなくなったのかと疑問に思う少年であったが、答えは直ぐに見つかった。ボタンたちのてっぺんに置かれた黒色のボタン。中学生時代の制服のボタンである。
(あー、あったな。そういえば)
――第二ボタンのジンクス。
有名な『恋のおまじない』の一つだ。数多の創作物でも描かれ、恋愛ごとに興味がなかった少年ですら知っている。だが、少年にとって甘酸っぱい思い出などない。卒業式の日、彼のたった一つのボタンを巡り、危うく騒動が起きかけたのだから。
「少年?」
苦い記憶により、眉間に寄った皺。少年の明らかな表情の変化を見逃すわけがないアオガミが声を掛ける。現実に引き戻された少年ははっと僅かに目を見開く。
『何でもないよ』
そう、言おうと思ったのだが、少年の口は言葉を紡がない。
些細なことであれども、アオガミに嘘はつきたくないからだ。
だが、楽しくない記憶も聞かせたくなかった。
「アオガミ」
故に、少年は選んだのである。
「これ、貰ってくれる?」
少年が指先で摘まみ、己の掌に置いてアオガミへと差し出したのは、中学時代を過ごした制服に付いていた第二ボタン。渡したい相手がずっといなかった、心の一部だ。
(今なら、みんなの気持ちも分かる……分かりは、する)
愛しい相手の一部が欲しい。ふたりだけの、唯一無二の繋がりが欲しい。それは、酷く甘美なものだ。
だからといって、要らぬ数多の好意を押し付けられた春の日の記憶が更新されることはない。けれども、違う思い出を作ることは出来る。
「……私に?」
突然の申し出だ。アオガミが戸惑うのは当然だと思いつつ、少年は静かに頷く。
「そうか」
心地よい低音の同時に伸ばされる白銀の指先。
「少年」
大きな指に摘ままれ、大きな掌に鎮座する小さな小さな、黒色のボタン。
「ありがとう、大切にしよう」
そっと、ゆっくりと、壊れ物を扱うように白銀に包まれていく小さな恋心。
「うん」
こちらこそ、と少年は隣に座るアオガミの肩に頭を預ける。
当初の目的は暫し忘れ、ふたりは身を寄せ合って静かな時間を過ごすのであった。