ふいうちふいうち
昼休み。一旦、寮に戻っていた俺と虎杖は、校舎に向かって中庭を歩いていた。前方に見覚えのある後ろ姿。明るい金髪、仕立てのいいスーツを身につけた長身――七海さんだ。
その姿を認めた途端、虎杖は走り出し、ナナミーンと叫んでその背中に飛び乗った。
「おい、虎杖……!」
俺も急いで虎杖を追いかける。
あの一級呪術師の七海さんに飛び乗る虎杖もすごいが、平然としてる七海さんもすごい。虎杖の力はゴリラ並みなのに。
七海さんの背中から降りた虎杖は、挨拶もそこそこに話しはじめた。
「俺、結構な勢いで飛び乗ったのに、びくともしないってやっぱりナナミンはすげーや。うわ、腹筋硬い」
虎杖は七海さんの腹筋に両手でベタベタと触れている。
「まあ、鍛えてますからね」
「俺ももっと鍛えたらナナミンみたいな身体になれるかなぁ」
腹筋に触れていた虎杖の手は上へ――腹筋から胸筋へと移動した。
「うわ、胸筋もすごい!けど、柔らかい」
「よく鍛えたら君もこうなりますよ。ただ、君たちはまだ成長期ですから、プロのトレーナーとよく相談すること」
そんな会話をしながらも、虎杖は七海さんの胸筋を遠慮のない手つきでベタベタと触り続けている。側から見ると胸を揉んでいるようにも見えなくもない。
「筋肉って硬いと思ってたのにこんなにモチモチになるんだね」
虎杖はのんきにそんなことを言っているが、この場にあの人が来たら、面倒だ。面倒すぎる。あの人の嫉妬深さはマリアナ海溝より深いのを、俺は知ってる。しかも大人気ないからタチが悪い。
七海さんから虎杖の手を離そうとその腕に手をかけた。
「虎杖、そろそろやめろ」
「――悠仁」
虎杖の首根っこを掴み、流れるような動作で七海さんから引き剥がしたのは、五条先生だった。
どうしてこんな時に限ってタイミングよく現れるんだ、この人は。
「先生!ナナミンの筋肉すごいね」
「七海も学生の頃は細かったんだけど、こんなに立派な筋肉ゴリラになるとはねえ。だからって人にベタベタ触るんじゃないよ、悠仁」
「先生だってナナミンによくベタベタしてるじゃん」
……虎杖、これ以上余計なことを言うな。
「あ、先生、ネクタイなんてめずらしいね。カッコいい」
「でしょ?着替えてもよかったんだけど、見せたくてそのまま来ちゃった」
五条先生の視線の先には七海さんの姿があった。
いつもの黒ずくめの服ではなく、光沢のあるグレーのシャツに深いブルーのネクタイ、細身の黒のパンツ。手には黒のジャケットを持っている。目を覆っているのも黒い布ではなくサングラスだ。ドヤ顔なのはどうかと思うが、確かに似合っている。
「見せたくて、って俺らに?」
「あー、うん、そうそう」
七海さんを見つめたまま、五条先生は虎杖に気のない返事をしている。
俺は虎杖の腕を掴む手に力を入れ、行くぞ、とその場を離れようとした。それよりも先に、ずっと黙っていた七海さんがこれから任務なので、と俺たちの横をすり抜け、早足で校舎に入っていってしまった。
それを追いかける五条先生。
――七海さん、なんか、顔が赤かったような……?
「えー、ナナミンもう行っちゃうの?え、先生も?」
虎杖は不満そうだが、内心俺はほっとしていた。あの二人の痴話喧嘩に巻き込まれるなんて、絶対に避けたい。
教室に寄った後、午後の授業のためにグラウンドに出ようと虎杖と廊下を歩く。空き教室に差し掛かると、人の話し声が聞こえてきた。後ろの引き戸が少し空いている。そこから声が漏れているようだ。
「僕以外の男に身体触らせるなんて、何考えてるの」
「不可抗力です……相手は虎杖くんですよ、子供です」
「子供だけど、男でもあるよ」
「虎杖くんは筋肉に興味があっただけでしょう」
「触ってるうちに目覚めちゃうかもしれないじゃん。七海、かわいいしきれいだしエロいし」
「――そう思う物好きはアナタだけですよ」
「だからさ、何度も言ってるけど、周りの人間、特に男達がどんな目で自分を見ているのか、もう少し自覚してくれよ……」
少し開いている後ろの引き戸から中を覗く。
教卓に寄りかかっている七海さんの前に五条先生が立っていた。サングラスは外され、あの青く美しい瞳で、七海さんを見つめている。
五条先生は手を伸ばして七海さんの頬に触れた後、そっとサングラスを外した。
「心配しすぎですよ……不躾な視線くらいは感じたことはありますが、言い寄ってくる人間なんていませんし」
「それは僕が牽制しまくってるから」
「……は?」
「だって七海は情に厚いから、口説かれたら絆されちゃう可能性だってあるじゃん……」
痴話喧嘩……にもなっていない。いちゃついてるだけじゃないか。俺はそう思ったが、ふたりからなぜか目を離せなかった。
隣で虎杖も身動きひとつせずに二人を見つめている。
「――私にはアナタだけだって、どうしたら分かってくれるんですか」
射抜くような目で五条先生を見つめ返した七海さんは、まだ何か言いたげな五条先生のネクタイをぐいっと引っ張ると噛み付くように口付けた。舌が絡まり合っているような水音が聞こえる。
唇と離すと、驚いているのか立ったまま動かない五条先生を七海さんが抱き寄せた。呆然としている俺たちと、七海さんの視線が先生の肩越しにぶつかる。七海さんは立てた人差し指を唇に当てると、ふわっと微笑んだ。
――しまった、つい覗き見なんてことを。
我に返った俺は虎杖に行くぞ、と耳打ちして急いでその場を離れた。
しばらく俺たちは無言で歩き、外に出たところで虎杖が俺を呼び止めた。
「なあ、伏黒さん」
「なんだよ」
「五条先生とナナミンって付き合ってるの?」
「俺からは何も言えない」
「先生もヤキモチ焼くんだね。あんな弱気な先生、初めて見た」
虎杖は興味津々であることを全く隠そうとせずに、俺に言った。目が輝いている。俺は小さくため息をついた。
「誰にも言うなよ、七海さんはあまり知られたくないみたいだから。まあ、五条先生があんな調子だから、気づいてる人もいるだろうけど」
「それにしても、あのナナミンには驚いたなー」
七海さんがあんな大胆な行動に出るとは、意外だった。
「行動で分からせるって感じ、カッコよかった」
「……そうだな」
「なんか、五条先生が心配になるのも分かる気がする……さっきのナナミン、なんていうか……色気、っていうの?目が離せなかった」
「……ああ」
七海さんのあの表情。多分、五条先生にしか見せない顔。あの顔をいつも見ているのなら、五条先生が心配になるのも無理はない。俺もそう思ってしまった。
「ナナミン、胸もふわふわのモチモチだったしなー」
虎杖が自分の手のひらを見つめてそんなことを言った。
「それ、関係あるのか?」
「あるんじゃない?」
俺たちは顔を見合わせた。虎杖の頬がほんのり赤い気がする。きっと、俺もだ。
あの二人の雰囲気は、思春期真っ只中の俺たちには少し刺激が強い。
「――とにかく、虎杖は余計なことをしたり言ったりするなよ」
「分かった」
虎杖は力強く首を縦に振っているが、本当に分かってるのか甚だ不安だ。
そろそろ授業の始まる時間になる。立ち止まって話し込んでいた俺たちが歩き出そうとしたその時。肩に重みを感じた。
「恵、悠仁」
虎杖と俺の間に割り込んできた五条先生は、長い腕を俺たちの肩に回し、ぼそりと言った。
「七海は僕のだから、惚れちゃダメだよ」
いつもより低く、凄みのある声。
……やっぱり覗いてたことは先生にもバレてたか。
しかし、生徒相手に何を言っているんだ、この人は。
そう思ったときには肩に回された手は離れていた。
「ほら、授業はじめるよー」
先生は普段通りの全く重みの感じられない口調でそう言って、俺たちの背中を押した。すでにグラウンドにいる釘崎や先輩達に合流するため、五条先生と歩き出す。
ふと、靴紐がほどけているの気づき、俺は座り込んだ。紐を結びながら、ぼんやりと考える。
学校でいちゃつくのも、それに俺たちを巻き込むのもやめてほしい。けれど――信頼している大人ふたりが幸せそうにしている姿を見るのも、たまには悪くない。
俺は立ち上がると、秋の高い青空の下にいるみんなの元へと急いだ。
廊下にあった人の気配が遠ざかる。
「七海、もう一回……」
僕は七海の顎に手をかけ、すぐに口付けた。舌で口の中を弄りあう。形のいい尻をやんわりと揉むと、すぐに手首を掴まれ阻止されてしまった。
「やめてください」
「えー、仕掛けてきたのは七海なのにひどい」
「私は任務がありますし、アナタはこれから授業でしょう」
ついさっきまでは僕への欲をのぞかせていたのに、もう、いつものすました顔の七海に戻っている。それでもまだ離れたくなくて、七海の腰を引き寄せた。
「五条さん、そろそろ時間……」
「ん、あともう少し」
僕は七海の首筋に顔を寄せる。シトラスのコロンと七海の甘い匂い。
「さっき、悠仁と恵が見てたの、気づいてたんでしょ?」
「ええ、見られてるからしたんです」
「え?七海、見られながらしたいの?じゃあ今度は世界中に見せつけてやろうか、七海と僕がラブラブなところ」
「バカなこと言ってないでそろそろ離れてください」
仕方なく七海を抱いていた腕を緩めた。少し乱れたスーツを整えながら七海が言った。
「あの子たちのことは信用してますし、私がしたかったからしただけです――それよりも」
七海は僕のネクタイに手をかけ、キュッと締め直した。
「このまま着替えないで家に帰ってきてください……このネクタイ、私が解きたいので」
「え?」
「時間なので私は行きます。アナタも授業に遅れないでくださいね」
「う、うん、え?七海、それって……」
「そう受け取ってもらって構いませんよ」
――今日の夜はたくさんしましょうね。
七海の心地よい低音が耳元で響き、薄い唇が僕の唇にほんの一瞬、触れた。艶めいた表情の七海を捕まえようと僕は手を伸ばす。が、その手をするりと逃れ、七海は教室を出て行ってしまった。
その場には七海の不意打ちに顔を真っ赤にしてへたり込む僕がひとり、取り残されたのだった――