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    まさのき

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    まさのき

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    これは宵闇のドトオペだ。

    食べちゃいたいほど好きなのだもの

     オペラオーさんが怪我をした。石で左瞼を切ったらしい。
     その晩、彼女のことを夢に見た。夢の中で、私はオペラオーさんの喉笛に噛みつき、甘いにおいのする血の味に舌鼓を打っていた。そこに美しい花が咲いていたから、立ち寄って蜜を舐めてみたくなったのだ。夢の中で、私は綾模様の蝶だった。私は無心で唇と喉を動かした。花は美しく、よい香りがし、極上の蜜をその身に隠し持っていた。私は蜜をすべて掘り尽くし、陶然とした気分を味わった。そうして突然恐ろしくなった。オペラオーさんは精巧な人形細工のように、物言わず床に身を横たえていた。いきおい身を引いてしりもちをつくと、たあん…と音が高くに響いた。そこは劇場だった。私たちは舞台の上で、いつものように三文芝居を演じているのだった。

     リノリウムの広すぎる舞台の上で、オペラオーさんはいっそうかぼそく見えた。早く目を覚ましてくれたらいいのに。閉じた瞼に行儀よく並ぶかわいい睫毛を眺めながら、私は彼女の目覚めを待った。劇場の中は薄暗かったが、彼女のまわりだけが切り取られたようにおぼろに光輝いていた。私はオペラオーさんの鼻先にキスをした。



     オペラオーさんが左目に眼帯をしていた。いわく、損なわれてこそ引き立つ美しさというものがあるのだという。オペラオーさんはミロのヴィーナスやサモトラケのニケを引き合いに出したが、私には、それら石像の美しさが彼女の魅力に比肩しうるとはどうしても思えなかった。石像は呼吸をせず、したがって歌を歌うこともない。石像はみずから輝きもしなければ、私を温めも照らしもしない。安定を拒絶し、自ら輝くもののみが美しい。心の中でだけそう唱えて、ねむたい口調で相槌を打った。私は眼帯の下の損なわれた皮膚と血管を思った。もし本当に、欠損がある種の美を演出するものだとして、それは彼女の肌に無粋な傷を刻んでいい理由になるだろうか? 

     その晩私はまた夢を見た。劇場は相変わらず薄暗い。夢の中で、私は幾分大胆な気分になっていた。私は四つん這いになってオペラオーさんに覆い被さり、垂れた髪の毛が彼女の輪郭をなぞるのを見ていた。そうしているうちにじれったい思いがつのるので、指を伸ばして、肌という肌に触れていく。快活な唇。細い顎。異国の王子様のような勝負服の首元をくつろげて、くぼんだ鎖骨。手首をとって、薄っすら浮かんだ血管をなぞる。指の関節。楕円の爪。それから、首の脇に手をついて、そっと前髪をかきあげる。
     夢の中の彼女は傷ひとつなく、いっそ無垢ですらあって、私はそれが悲しいのだった。私はオペラオーさんの左瞼を唾液で濡らし、そのままかぶりついた。観客のいないそら寂しい歌劇場に、私が彼女を咀嚼する音だけが響いている。口に含むその瞬間から綿のように溶けてゆくのに、飲み込むたび心臓の奥に石を詰め込まれるような心地がして、私は何度もえずきそうになりながら彼女の顔の半分ほどを喰らい尽くした。肉は儚い霞の味がした。



     オペラオーさんの左目の眼帯は、いつの間にか外れていた。傷跡が残らなくてよかったと思う。私はできるだけ彼女のそばにいることに決めた。放たれる悪意の根源を断つことはできなくても、せめて弾除けくらいにはなれるだろう。人はなぜ、自分よりも強く美しいものを、強く美しいというままに愛することができないのだろう。踏みにじり、脅かし、蹂躙したいという欲望は、一体どこから生じてくるのだろう。欲望は礫の形をとってまっすぐに左目を撃ち抜いた。打ちどころが悪ければ、オペラオーさんは視力を失っていたかもしれないのだ。そうなれば、彼女はもはや今の環境に留まり続けることはできなくなるだろう。それは私にとって、走る理由を失うことと同義だった。

     オペラオーさんが、目の前を走っている。私の肩には昔から悪魔が棲んでいて、体のあちこちをきまぐれに小突き回した。私が何かを始めようとするといつも、悪魔は私の足元を掬って、にっちもさっちもいかなくさせるのだ。私は、私の悪魔を一人ではどうすることもできなかったから、いっそ身体を明け渡すという選択肢を取った。悪魔は私を甘く痺れさせ、停滞させ、足をもつれさせた。私は悪魔の奴隷だった。彼女に出会うまでは。
     オペラオーさんの歩いた道が、私の道になる。悪魔に目をふさがれた私は、どこへ行くにも足取りがおぼつかなかった。私は、彼女の背中を追いかけている時だけは、自分の意志で、歩きたい方へ歩いていくことができた。オペラオーさんは、私のひかりだ。光に照らし出されて初めて、私は私の立つべき場所を知る。ここはターフで、私はウマ娘に生まれついた。あらゆるウマ娘は、遺伝子の叫びに従って、群れのいちばん先頭を目指して駆け抜けなければならない。悪魔に立ち向かう勇気を知った私は、そのことをようやく思い出したのだ。
     ばちん、と音がして、オペラオーさんの上体が傾いだ。オペラオーさんの真横に位置取ったウマ娘が、蹄鉄で泥を跳ね飛ばしたのだ。私はあっと声を漏らしたが、オペラオーさんは動じなかった。ペースを上げも緩めもせず、自分の走りを続けている。極端な斜行やあからさまな妨害を除けば、レース中のラフプレーが咎め立てされることはそう多くない。必死なのはお互い様と、レース後に頭でも下げればそれで終わりだ。けれども私には確信があった。今の動きは故意の走行妨害だ。勝ち星を重ねていくほどに、彼女はより多くの悪意に晒されていく。私は少しだけペースを上げて、例のウマ娘とオペラオーさんとの間に身体を割り込ませた。彼女はひとつ舌打ちをし、ポジションを後ろに下げた。
     結局そのレースでオペラオーさんは一着、私は二着だった。例のウマ娘は道中で脚を使い果たしたらしく、掲示板を逃していた。泡のように湧いては消える悪意の盾になることさえ、私には荷が勝ちすぎる。オペラオーさんは顎に青痣を作っていたが、ウィナーズサークルではいつものように笑っていた。傷すらも戦士の名誉ある勲章だと彼女は言う。

     その晩、私は夢の中でオペラオーさんの腹を割いてみた。彼女の体内は宝石のような色とりどりのジェリーで埋め尽くされていた。指でつまむとしなやかな弾力を示し、スーパーボールのようにリノリウムの床を跳ね回った。私はそれを見て、オペラオーさんに似ているな、とぼんやり考えた。彼女の魂は、彼女を形作るすべてのものに宿っており、そのことは私の心を慰めた。歯で噛みちぎると、ぷちんという音をたててジェリーはあっけなく弾けた。それは私の喉を潤すと同時に、狂おしく締めつけもする極上の甘露だった。



     私は夜が来るたび、オペラオーさんを自分の胃の中にしまい込む。肉の味を愉しむことは、慈しむことよりも愛することに似ている。薄暗闇の中でほのかに光輝く体を、私は歯で食いちぎり、噛み砕き、一心不乱に飲み下している。不意に彼女が瞼をあけて、私をじっと見た。三日月の形に細められた目に、背をかがめた悪魔の姿が映っている。瞳の中の悪魔が、真っ赤な舌を覗かせながら少女の体を飲み込もうとする。
     もうこれ以上傷ついてほしくない。誰からも害されない明るい場所で、いつも笑っていてほしい。夢の中の私は、オペラオーさんを自分の腹にしまい込むことで、母鳥が卵を抱くように彼女を守ろうとしているようにも見えた。私は彼女を喰らい尽くし、たったひとり残された舞台の上で、ひとしきり泣きわめいた。彼女の体は夢のように甘く儚く、頭がおかしくなりそうだった。私はそのまま気を失うようにして眠り、眠りながら腹の中のものをすべて吐き戻した。

     気がつくと、私とオペラオーさんは、広くてさびしいばかりのリノリウムの板に、二人並んで横たわっていた。すうすうと子どもらしい寝息をたてて眠るオペラオーさんの瞼にキスをして、再び目を閉じる。どうか今だけはこのまま、あなたの隣でまどろませてほしい。そう願った。私は恋をしていた。
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    まさのき

    PASTポップメガンテ前後のif話です。ディーノは父さんと幸せに暮らすことでしょう。あとたくさん人が死ぬ
    生きもののにおい『まあおまえの匂いは日向のキラーパンサーってとこだな』
    『―――は―――のにおいがするよ』
    『なんだそれ。全然説明になってねえじゃねえかよ』


     
     ぼくが「こわい」って言ったら、〈とうさん〉がぼくをこわがらせるものをみんななくしてくれたので、それで、ぼくはうれしくなりました。
     
     ここに来てからは、こわいことの連続でした。
     知らないおねえちゃんや、おにいちゃんが、ぼくにこわいことをさせようとします。あぶないものを持たされたり、つきとばされたりして、ぼくはすごく心細いおもいをしました。ぼくは何回も、いやだっていったのに。
     それで、ぼくは頭の中で、「こわい人たちがぼくをいじめるから、だれか助けて」ってたくさんお願いしました。そうしたら〈とうさん〉が来てくれて、こわい人たちをみんないなくしてくれました。〈とうさん〉はすごく強くて、かっこよくて、〈とうさん〉ががおおってすると、風がたくさんふいて、地面がぐらぐらゆれます。気がついたときには、こわいおねえちゃんも、よろいを着たひとも、大きいきばのいっぱいついたモンスターも、誰もぼくをいじめなくなりました。
    1965

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