その瞳に焼べるのは「……どうしても仕留めたい案件があるんですけど」
「うん」
「自分には難しそうなんですよねぇ。こういう時、あんずさんならどうします?」
茨の珍しく弱気な発言に、あんずは返事の代わりに向き合っていた雑誌から正面に座る茨へと視線を移した。当の茨はあんずの方は見ておらず、ノートパソコンを見下ろしてキーボードを叩いている。
夜のCOCCIには茨とあんず以外の客はいない。つい先ほど店員がラストオーダーに注文したコーヒーとカフェラテを運んできて、今はキッチンの奥に引っ込んで店じまいの支度をしているようだった。茨がキーボードを叩く音と遠くでカチャカチャと食器のぶつかる音だけが店内に小さく響いている。二人は四人用のテーブルに荷物を広げて、何か打ち合わせをするわけでもなく各々の片付けるべき業務をそれぞれ進めていた。会話はなく、最後に言葉を交わしたのは「遅くなってきたね。そろそろ切り上げる?」「そうですね。キリの良いところで引き上げましょうか」という一時間ほど前のやりとりであった。結局どちらも進んで荷物を片づけ始めることなく、こうして閉店ギリギリまで店に居座っている。
「……七種くんでも難航することがあるんだね」
「ええ、何が不足しているのか自分でもわからないことが厄介で」
「ふぅん」
何事も凛としてこなしてしまう彼が時には壁にぶつかってしまうことも、それを自分に聞かせたこともあんずにとって意外であった。それに、この男が己の弱音をわざわざさらけだしているとも思えない。茨の話は深刻な相談というよりも作業ついでの雑談のように聞こえたので、あんずは持ち上げた視線を手元の雑誌へと戻した。ファッション雑誌から企画のモデルのオファーが来たものの誰を推薦するか考えあぐね、バックナンバーを読み漁っていたところだった。
「締め切りというか……タイムリミットは近いの?」
「あまり悠長に構えてはいられませんね。早い者勝ちのようなものですから」
「ううん……」
あんずは手首の時計をちらりと確認して、ボールペンをポーチへとしまった。広げた資料もクリアファイルへと戻す様子を見て、茨も手付かずだったコーヒーを一気に煽る。閉店時間まで五分を切っていた。
「……誰かに協力してもらうとか?」
「残念ながら採用人数は一名でして」
「七種くんが他に対価を用意することで譲ってもらうとか……貸しを作っておくとか……そういうの得意じゃないの?」
悪い意味ではなく人を動かすのが上手い人間だと認識していただけだったが、それを聞いた茨は拗ねたように「得意ですけど」と吐き捨てた。
「なにぶんライバルが多いので。アテが思い浮かびません」
「……難しいね」
あんずの片付けが終わると共に回収しようとした伝票は既の所で茨に奪い去られた。ノートパソコンを鞄にしまう茨に、今度はあんずが拗ねたような顔を向ける。
「喫茶店くらい私が払うよ」
「経費で落としますので」
「いつも七種くんが払ってる」
「あんずさんの貴重なお時間を頂戴しているのですからこれくらいは」
「今日はなんにもしてないよ」
「丁度今悩みを聞いていただきましたよ」
茨はそう微笑んで、あんずが荷物の詰まった鞄を漁っている間にさっさと会計を済ませてしまった。私も電子マネー使おうかなぁ、と考えながら、あんずはようやく見つけ出した財布を渋々鞄の中へと戻す。過去にまともに受け取ってもらえないならこっそりコートのポケットの中にねじ込んでしまおうと画策したことがあったが、茨はそんな隙など見せなかった。
「次は是非あんずさんが」
出入口の引き戸を抑えながらの言葉は茨の常套句だ。そうして何度も約束だけを取り付けておきながら、いつも伝票を渡そうとはしなかった。だからあんずは毎回、今回こそはと茨の誘いを断れない。貰ってばかりは性に合わない。茨になにか相応のものを返さなければと常々思っているけれど、その当ても機会も一向に見つからなかった。得意げに笑う茨の顔が少し憎らしいとさえ思えてくる。
COCCIの周辺は閑散としていて人気はない。ドアベルの上品な音が静かに響く。店を出た瞬間に吐いた息が白く染まって、あんずはゆるく巻いていたマフラーをきつく結び直した。
「さっきの話だけど」
「さっき?」
「獲得の難しそうな案件の話」
ああ、と茨は控えめな相槌を打った。きっと本当になんでもない雑談だったのだろうけれど、彼が相談に乗ることがカフェラテの対価だと言ったのだから、せめてそれくらいはきちんとこなしたいのだとあんずは思った。
「似たような案件を探すとか、得られるものの近い案件で妥協するとかじゃダメなの?」
「駄目です。絶対にこれでなければ」
そう語る瞳の意思は固い。思いの外力強い返答にあんずは二、三度瞬きを繰り返した。そんなに真剣な顔をするような話題ではないと思っていたのだ。もしかしたら、あんずが考えていたよりも深刻な話をしていたのかもしれない。
しかしそうして頭を捻ったところであんずにはどんな助言をするべきかわからなかった。茨ほどに賢く優秀な人が頭を抱えるような難題なら、それが自分に解決できるとは到底思えない。あんずは何を言うべきかわからなくなってもごもごと口を動かして、それからふと、そういえば茨は案件の詳細も具体的な状況も何も説明しなかったことを思い出した。
「ならもう諦めちゃえば?」
「——は」
茨の目が大きく見開かれる。苛立ちと僅かな動揺を隠そうともしない姿にあんずは身じろいだが、気後れするやうなことはなかった。きっとこの言葉が必要なのだろうと確信を持って言葉を継ぐ。
「今回はご縁がなかった、みたいな事ってよくあるよ」
「それで簡単に見切りつけられてたらこんな話はしていませんよ」
「達成できる可能性が低そうな目標に時間や労力を費やすのは無駄じゃない?」
「無駄になるかどうかは俺次第ですが」
苛烈な炎を閉じ込めたように揺れる瞳を見るのがあんずは少し怖くて、それでもその様子が好きだった。その瞳でこれまでどれ程のものを得てきたのだろうと思うと、当たり前みたいな顔で自分の隣でタブレットの画面を叩くその男が途方もなく大きく遠い存在に感じられることが、何故だかほんの少し心地よかった。
「うん。そう言うと思った」
「————は?」
「そうやって頑張れる七種くんはすごいと思うよ」
それは茨にしてはあまりにも気の抜けた声だったので、あんずは思わずくすりと笑ってしまった。あんずの正気でも疑うような訝しげな表情が面白かったのかもしれない。
「頑張ってね。きっとできるよとまで言うのは無責任だけど……。七種くんが諦め悪いのは知ってるから応援してるし、私にできることがあれば協力するよ」
今日はご馳走様。それじゃあね、と置き土産のように言い残して、あんずは駅の方角へ歩き出す。けれどその腕を茨が勢いよく掴みとったので、あんずは思わずつんのめった。なにするの、と言いかけた文句は、茨の顔を見た瞬間に喉奥へ引っ込んでしまった。
その瞳はまだギラギラと揺れたまま、じっとあんずを見据えていた。今度こそ怯んだあんずは手を振りほどくこともできずにただ茨を見つめ返す。けしかけるようなことを言って怒らせてしまっただろうか。あんずの不安が顔に出るより前に、先に言葉を発したのは茨だった。
「車を呼んであります」
「……車?」
「送りますよ。こんな夜道を一人で歩かせる訳にはいきませんから」
「だ、大丈夫だよ。電車まだ走ってるし、駅近いし……」
それは遠慮というよりも虫の居所が悪そうな茨と早く離れてしまいたいという気持ちの方が強かったけれど、茨がそれを察してあんずの腕を掴む手を緩めることはなかった。その瞳の熱を落ち着かせないままに、口元だけを歪ませて笑顔を形作る。
「もう着くそうですよ。寮までの僅かな距離のために呼びつけたなんて思われたらばつが悪いですから、どうぞ自分を助けると思って」
「私今日は電車の気分で……」
「そんな冷たいことを仰らずに。まだあんずさんの卓見を伺いたい件が山ほどありますし、車内でゆっくりと続きを聞いていただけませんか?」
何でも協力すると、つい先程仰ってくださったではありませんか。そう囁けばあんずはぎこちなく頷いたので、茨は満足そうに瞳を細めた。
いつもならこの辺りで引き下がってやる茨であるが、今日は簡単に諦めたりなどはしなかった。なにせ勝利の女神が直々に、決して屈するなと仰せになった。